言葉尻を、捕える。他人からの批判を、やり返す為の手段として、そんなやり方が、あると言われる。発言者の真意から、著しく逸脱した意味を、指摘することで、相手を窮地に、追い込もうとする。最近は、弱者を装うことで、支援者を得る場合が、多いようだ。
彼らの多くは、何らかの機会を得て、被害を訴える。相手の言葉から、虐めを受けたとか、不快な思いをさせられたとか、様々な被害を、訴えるのだが、同じ言葉を、その他大勢が、受け取ったとしても、そこには、被害感情は、芽生えてこない。にも拘わらず、自分に向けられたとして、強い圧力を、受けたとする訳だ。たとえ、多くの人に向けて、その言葉が、発せられたとしても、自分を、特別視する人々は、極端な反応を、当たり前のこととして、示すことになる。その際に、有用な道具となるのが、SNSであり、不特定多数への、発信を役立てようとする。こんな世の中では、偽善者達が、活躍する場を与えるのも、SNSなのだろう。炎上などと呼ばれる、身勝手な行為が、蔓延する中で、はじめの発言者は、加害者として断じられ、逆方向の虐待が、始められる。自称弱者が、弱い者を、吊るそうとするのは、どんな心理から、起きることか。それを理解するのは、まともな精神の持ち主には、おそらく、不可能なのではないか。だが、そこで働く圧力は、さらに多くの被害者を、作り出していく。これほどに歪曲された社会では、まとも、を保つことも、徐々に難しくなる。では、どうすればいいのか。不快の表明は、別の不快を招き、その連鎖が、続くこととなる。それを断ち切る力は、一部の人間しか、持てないものだが、その持ち主が、毅然と振舞うしか、これらの非常識を、破壊することは、できないだろう。それほど、常識を保つことが、難しい世の中だ。頑張るしかないのか。
被害妄想、と言えば、病気の一種、と思われる。だが、現代社会に蔓延する、弱者感覚の多くには、そんな状況が、含まれているのではないか。権利主張と相俟って、今の時代には、弱者と称する人々の、扱いには、慎重な対応が、求められている、と言われる。
実際に、被害を受けている人々を、貶めようとする訳ではないが、これほどに、病的な訴えが、著しくなると、大きな問題が、掲げられている、と感じることが増える。特に、大きな訴えでは、社会全体での議論が、不可欠となり、賛否両論が、出された上で、時に、激論が交わされるから、解決に向かって、様々な働きかけが、双方から行われ、時間はかかるものの、何かしらの結論が導かれる。ところが、小さく、日常に埋もれるものに関しては、多くの人が、関心を向けることなく、声が大きくなることも少ない。ただ、最近の状況は、昔とは、かなり違ったものになりつつある。発信源の力に関係なく、発信の仕掛けを、誰もが使えるようになると、小さな声が、特に非常識なものほど、拡散することが、増えてきた。その結果、弱者との社会的な認知が、容易に受けられ、権利主張が、いとも容易く、できるようになる。しかし、常識に欠け、偏見に満ちた、意見の多くは、自らの被害を、主張することで、周囲の人々に、より大きな害を、与えることになる。「不快」というのは、個人の感覚だけに、屡々使われるが、それを発した途端に、誰かを、より「不快」な気持ちに、させることに、発言者は気付いていない。最近は、少数意見の尊重と称して、非常識なものまで、取り上げる傾向が、強まるだけに、こんな形で、害を撒き散らす人々が、社会に溢れるようになった。以前なら、冷たい視線を浴び、無視されることもあったが、今は、英雄視されることさえある。勇気ある発言と、絶賛されるものの多くに、非常識と偏見が、含まれていることを、指摘することこそ、真の勇気となるのだろうか。
季節の変わり目、気温の変動の激しさに、皆が振り回されることもある。それが原因で、体調を崩す場合もあるが、それでも、体力が残っていれば、大事に至らずに済むだろう。だが、病状が思わしくなく、ある意味、死線を彷徨う状況の場合、潰えてしまうことになる。
そんな時、訃報が舞い込むことになる。異常な程の、低温が続いた後、次々に舞い込むのを、眺めていると、つい、そんな考えに、囚われてしまう。病院に居るのに、と思う人が多いだろうが、全館冷暖房完備、などと言われる中でも、外気温の影響が、全くないとは、言い切れない。また、気温の変化に伴い、気圧なども変わるだろうから、何かの原因が、及ぶ場合もありそうに思える。ただ、冷静な分析を、施した訳ではなく、単純に、強い印象を、残したものを、拾い上げただけだから、正しいかどうかは、はっきりとさせられない。弔問で、慌ただしくする中で、次に届いたのは、同世代の訃報だった。国民的歌手、と呼ばれた人物は、同世代で、構成された御三家の中で、体調を崩すことが、特に増えていた。何度も、病魔に襲われた上、回復に力を入れる姿は、多くの人々に、勇気を与える、と伝えられていたが、早過ぎる死は、あっという間に、訪れたようだ。人それぞれに、人生を全うした、と言えるのかもしれないが、残された人々は、もっと、と願うことが多い。何れにしても、自分が、どう思うかが、全てだろう。誰にも、死は、確実に訪れる。そこに向かう、という意識はなくとも、日々暮らす中で、些細なことでも、一つ一つを、達成することが、大切なのだろう。たとえ、大きな目標が、達成できなくても、小さなことが、日々起きれば、いいとしよう。
行動を、促すことの重要性が、盛んに説かれている。積極的な動きを、引き出そうとする、方策の一つのようだが、現実には、上手く運んでいないようだ。待てど暮らせど、という事態に、陥る事ばかりで、相手は、重い腰を上げようともしない。指示を、待つだけだ。
それでも、辛抱強く、待ち続けたり、進むべき道を、示したりする。だが、笛吹けど踊らず、の状態に、変化はなく、やったふりを、続ける人々に、怒り心頭に、となることさえある。しかし、そこで、厳しく叱責すると、虐待の一種と、見做されかねないから、かなわない。この状況が、特に深刻なのは、教育現場だろう。職場でも、最近は、深刻な問題と、捉えられつつあるが、収入を確保する為、という大目的が、有る限りには、仕方なくも、納得する場合が多い。だが、教育の場面では、そういう収穫が、ある訳でもなく、交換条件は、最終的には、卒業となるしかない。ところが、教育が、努力の末に、獲得した権利ではなく、当然の権利とされた頃から、この状況に、大きな変化が起きた。大した努力もないままに、資格を取ることができる、逆の見方をすれば、資格を与えねばならない、となってきたのだ。本来、身に付けるべき事柄を、ないままに、権利のみが、手に入るとなれば、人間の努力は、引き出し難くなる。結果として、踊らぬ若者達が、何もせぬままに、通り過ぎる場所と、なってしまうのだ。促しは、その備えが、できている場合には、有効だろうが、その準備さえ、整っていない人間には、まずは、強制する必要が、あるのではないか。動かぬ人間を、辛抱強く、動かそうと、努力しても、効果が得られないのなら、鞭を振り、強いることでしか、進められないのだ。であれば、そこでの強制は、容認すべきものとなる。ただ、いつまでも、強制せねばならないのなら、それはまた、別の問題となる。
人材育成は、喫緊の課題、と言われ始めてから、何年経っているのか。いつまでも、同じ課題を、掲げることに、あの人々は、何も感じないのだろうか。時間経過に従い、必要な人材が、変化するのだから、課題が消滅することは、あり得ない、とでも言うのだろうか。
社会の要請が、変化するから、それに応じて、作り出すべき、人材も変わるのが当然、という主張があるのは、十分に承知しているが、この考え方と、実際に行われていることの間に、あまりの乖離があって、課題が、達成されることは、起こり得ないのだ。現場に居れば、育成には、どんな人材でも、長い時間がかかることは、すぐにわかる。だが、政策担当者は、自分の周りの人材を、育成したこともなく、実態を知る筈もないから、次々に、新たな方策を講じ、その効果を、検証することなく、次へと移っていく。その結果、すべての方策が、無駄となるだけでなく、折角作り上げた仕組みが、粗大ゴミとして、次の変革の障害と、なるだけなのだ。何が、足らないのかは、実は、もう明らかとなっている。育成に当たる人間の、能力不足が、今の停滞を招いているのだ。育成すべき人材を、見誤るだけでなく、手薄な体制のままで、場当たり的な方策が、上から降りてくる為に、無駄ばかりが、増え続けている。それは、教育界に限らず、企業や組織における、人材育成においても、同じ事態に陥っているのだ。即戦力が、高嶺の花であることは、言うまでもないが、どんな人材を育成するかより、どのような手順で行うか、の方が、遥かに重要な課題であるにも拘わらず、足らない部分を、見誤った挙句に、進め方さえも、やり損なうから、思い通りの人間が、育たないのは、当然のことだ。与えられた課題を、与えられたやり方で、進めることしかできない人間に、現場を任せていては、解決は望めない。
安定した時代に、問題があるとしたら、何だろうか。何もしなくても、安定しているのだから、こんなに有難いことはない、と言う人が居る反面、事を起こすには、安定を支える、壁を壊さねばならず、困難を強いられる、と言う人が居る。そこが問題、という訳だ。
将来への投資、とまで、考えずとも、資格を手に入れる為の進学は、当然の選択、と見做されていた。先立つものが無くとも、将来の成長を見込んで、決断した人も、成長期には、多かった筈だ。経済の成長は、金銭的価値をも、変化させる。借りた金を、返す頃には、利子を加えても、価値の変化が、返済を容易にさせる、と言われていた。ところが、安定期に入ると、借りた時と、返す時では、同じ価値か、逆に、見込み程の収入が、確保できない事態が、生じ始めた。そこから、借金の返済が、滞り始め、結局、破産などの憂き目を、見ることさえ、起き始めている。そこでも、別の選択肢が、ある筈なのに、頑なに進学を望むのは、理解に苦しむ所だが、そこに、救済策を講じよう、という動きが、目先の利益に拘る、政治家達から、起き始めているらしい。しかし、所詮、浅はかな考えに、基づく提案だけに、欠陥だらけのものが、応急手当の如く、出されている。将来への投資、という考えを、見直すつもりはなく、見通しもないままに、走り続けようとするのは、愚かであるばかりか、この状況では、社会的に歪みを、強める結果を招きかねない。その中で、権利主張をする人々には、自らの努力なしに、他力本願へと走る気持ちが、強まったままなのだ。これでは、不公平も何も、片付くことは、望めない。もし、進学が、不可欠ならば、それに必要な経費を、稼いでから、という選択を、用意すべきだろう。更に、在学期間を、制限せずに、自由に出入りが可能な仕組みを、取り入れることも、必要だろう。
教え育む、という言葉には、どんな意味が、込められているのだろう。教えるだけでもなく、教え込むでもない。育むには、大きくなるまで、守ってやる、という意味が、含まれている。自分の力で、成長するのを、妨げるのではなく、見守ることが、重要なのだろう。
では、現状は、どうなっているのか。勉強が嫌いで、上位の学校に、進まなかった人は、対象とはならない。自分なりの努力を続け、進学した人が、この議論の対象と、なりうるだろう。だとして、義務教育を終え、自由選択の中で、その道を選んだ人々が、どう成長するのかは、まさに、教育の成果を示す、ものとなるに違いない。進学という、直近の目標を、達成する為の努力において、教える側は、成果を上げる為の、手立てを授けようとする。その過程で、どのようなやり方が、取られるかが、実は、重要となるのだ。目標達成の為に、どんな手段を講じるか、選択肢は、数多あるに違いない。しかし、すぐそこに掲げられた、目標に到達する為には、素早い対応が、求められる。育む為の、一つの道である、長い目で見た、方法の伝授は、そこでは、求められていない。それより、点数を、確実に稼ぐ為の、秘法こそが、伝授されるべきものだろう。ただ、そこには、秘密などない。同じことを、繰り返すことで、不注意な間違いを、減らすことが、できるようになる。その結果、成績が上がれば、本人には、満足も、自信も、芽生えてくるだろう。そこから、助言に従うことの、利益を強く感じるようになる。自分なりの工夫より、上から授けられるものを、待つ態勢ができるのは、こんな事情から、なのではないか。だが、それが、将来に禍根を残すとは、誰も予想しないだろう。何しろ、直近の目標を、達成せねば、将来など、見えて来ないのだから。だが、自立を妨げる、大きな力が、そこで働いていることには、違いない。それを打破する力が、本人に、備わっているかどうかに、期待するしかないのか。