上を目指す気持ちが、空回りを続ける。そんな様子に、手を差し伸べる人は、多いのではないか。確かに、悩みに沈む姿は、悲惨に見えるし、壊れてしまいそうにさえ、見えてくる。そんな様子を、見たくない、と思う人からすれば、さっさと楽な道を、となるのだ。
その一言で、救われた、という人のことが、度々、取り上げられる。無理が元で、壊れてしまっては、次の機会も、得られないからこそ、そこで、一呼吸おけば、再び、機会が訪れる、という訳だ。だが、極端な場合を除き、多くは、意欲を挫くことに、なっているのではないか。大した努力もせず、小手先で、誤魔化そうとする若者は、意欲を強調する。それに見合う、成果を求め、その資格が、自分にあると信じる。だが、その様子を見て、周囲が、手を差し伸べてしまえば、本人の実力は、確保されず、ただ、ハリボテが、目の前に出来上がる。今の、特別扱いには、そんな我楽多が、一杯詰まっている。意欲を、尊重することが、第一と捉えられ、結局、正しい努力の仕方も、やるべき事柄も、殆ど教えられず、表面的な仕上がりだけを、気にするようになる。それが、特別扱いの制度の、成果として掲げられ、人材育成は、名ばかりと終わる。いつから、社会は、我慢ができなくなったのか。その一方で、優秀な人材の枯渇は、深刻な社会問題となり、喫緊の課題と、屡々訴えられる。しかし、本質を見極めることなく、上辺だけを掬い取った、方策の数々は、単に、役立たずを育てる為の、無駄の山を築くだけだ。本当に、人を育てたいなら、じっくり待つことが、大切だろうし、気付きを促すことが、不可欠だろう。それを、手取り足取り、簡単な方法を、教え込むだけでは、それしか出来ぬ、無能な人間を、作り出すだけに、終わってしまう。
読んだことはないが、昔、「甘えの構造」という本が、関心を集めていた。この国の人々特有の、精神性を著したもので、賛否両論が起こったようだが、兎も角、様々な人々に、影響を及ぼしたとされる。個人主義が台頭しようとも、この国民性には、大きな変化はないようだ。
他者依存、という国民性は、今に始まったことではなく、お上を、引き合いに出す時代にも、多く見られたのだろう。だから、この国独特の様式として、他の国から、注目を浴びたこともある。文化が、国民性を基盤として、築かれるとすれば、持て囃される事柄の多くが、その独自性を確立したのも、他者依存を、考えに入れないと、理解が進まない、などと思われたらしい。研究という立場から、捉えることとは違い、一般大衆にとっては、自分の行動を、ある意味、揶揄する言葉として、「甘え」という表現が、使われてきたのだろう。だが、独自の文化を確立するのに、他者依存が、不可欠と考えるのは、困難を伴う。自分独自のものを、何故、他者との関係から、導き出さねばならないか。それとも、これとそれは、別の次元の問題なのか。答えを導き出すのは、難しいのだろう。ただ、現実を目の当たりにして、依存性ばかりを、見せつける人々に、接していると、そこから、独自の道が、築かれるとは、とても思えない。依存の中から、独立を見出し、そこに向かって、船出をしなければ、独自の文化を、担うことなどできそうもない。だとしたら、何処かで、大転換が起こる必要がある。ただ、目の前で、勝手な振る舞いを続ける、人々を眺めていると、そんな期待は、微塵も起きない。依存を表に出していても、それを、厳しく指摘し、批判しなければ、転換は、起こりそうにもないからだ。厳しい言葉を、浴びせる人々が居てこそ、依存から自立へと、促されることもできるから。
判官贔屓、なのだろう。弱者保護の観点が、不要だとは思わぬが、それにしても、弱者の定義とは、などと考えざるを得ない。そんな話が、巷に溢れている。自称弱者が、強気の姿勢で、権利を主張する。成長を歩み続ける中では、確かに、無視される存在だったろうが。
停滞から、下降へと、様相が一変するに従い、弱者への視線が、強まっているように見える。皆が、困り始めると、その原因に、目が向くようになる。それに伴い、難事に巻き込まれる、人々へも、目が向くようになった。それが、弱者に光を当て、注目に値する、と話されるようになる。となれば、どんな困難が、立ちはだかっているのか、確認しようとする、動きも強まる。その結果、救済を含めた、扱いように関する議論も、高まることになる。そこまでなら、特段、問題も生じないが、そこから、権利主張へと、様子が変わり始めると、問題が急速に拡大することになる。誰もが、困り果てている、と訴え始め、救いを求める。だが、誰もが、そういう状態なら、弱者の存在は、消滅するのではないか。それが、そうならないのは、やはり、一部に、利益を独占する人が、居るからだ、と考えることもできるが、彼らを糾弾しても、何も始まらない。金銭的な強弱は、貧富の差となり、殊更に、強調されることが多い。同じように、肉体的な面や、精神的な面を、強調する場合に多く、扱いに窮する。これについても、弱い立場、と認定された人々に、救いの手が、伸びる訳だが、その際の解釈に、非論理的なものが多く、これを放置すると、状況は更に悪化する、と思えてくる。たとえ、弱い立場に、追い込まれたとしても、悪事に加担したら、それが罰せられることに、変わりはない。にも拘わらず、今の考え方は、弱者に対する免責を、優先するかの如く、流れていく。危険極まりない、やり方だ。
ヒトは、所詮、身勝手な生き物なのだ。そんな考えを、受け入れてみると、他人の行状など、看過することができる。だが、身勝手な部分は、そんな所にまで、現れてくる。自分の勝手さは、棚に上げて、他人の行状を、厳しく糾弾する。思い当たる所が、無いだろうか。
なるべく、論理的に、話をしようと努力する。その中で、自分の話には、極力、矛盾を入れぬよう、配慮するのだが、他人の話の、綻びに目が行く。子供を殺した、ある少年の事件は、その猟奇性に、皆の注目が集まった。だが、それも、遥か昔のこと、覚えている人は、徐々に減り続けている。その中で、手記と称する書物が、出版されたことに、遺族から、処分を要求する声が、上がった。人の情として、理解できる部分が、あるのは確かだろうが、その一方で、罪を犯した人間が、示すべきものに、足枷を、嵌めることに対して、賛否両論があるだろう。犯した罪の重さから、一生かけて、償うべきとの声にも、少年であったことから、極刑を免れた事情が、重なることで、同意が、大多数だったことが、思い起こされる。ただ、書物が出版されることで、傷ついた心は、癒えることなく、毎年届いていた手紙も、受け取り拒否していた、との話にも、頷ける部分が、多いとの印象があった。だが、それが数年続き、届くことさえ無くなった時に、漏れた感想については、違和感を覚える。相手の身勝手を、糾弾することは、被害者とはいえ、自分の身勝手を、押し付けることになる、とは考えなかったのか。ここに、この国独特の事情が、現れているようだ。被害者は、とことん、保護される対象であり、加害者は、徹底的に責められる対象となる。世論としても、殆ど忘れかけた事件に、今更、感想が押し寄せるとは思えず、それが、余計に、遺族の感情を揺さぶる。だからと言って、こうなってしまっては、論理の崩壊が、起きてしまうのだ。
見世物が、余程好きなのに、違いない。ハリボテを、行進させたり、偽物を、飾り付けたり、これまでにも、散々指摘されてきたが、今回も、一大行事として、その準備に暇がないようだ。だが、建国当時から、稀代の詐欺師と呼ばれた、家系の末裔が、打つのだから。
殆ど、大芝居になる、と思われている。本来、実験場の閉鎖は、権威ある世界組織の、検証を持って、確認されねばならない。それを、見世物好きで、芝居好きの、あの末裔は、全く違う形で、行おうとしている。とくダネに、飛びつく人々は、その姿勢を批判するより、その場に行く事を、優先するから、四の五の言わず、我先に飛びついた。本来なら、検証可能な形で、破壊が行われ、閉鎖に至る過程を、見守る必要があるが、興行主の思惑に、見事に踊らされた形に、なってしまった。逆に言えば、偉そうに構える、報道という世界に巣食う、愚者達が、彼の国に、押し寄せている訳だ。これまでの行状からも、この手法のカラクリは、明白と思われるが、下種の興行主は、今回も、三文芝居を、演じようとしているのではないか。それとも、改心した結果、今度こそ、世界から温かい目で、見られるような、行動をしようとしているのか。ほんの数日前までは、そんな妄想に、駆られた人も居ただろうが、突然の翻意に、やはり、と思った人も多く、芝居の準備は、着々と進んでいるようだ。専門家でなくとも、ある程度の確認は、行える筈、と乗り込んだ人々も、肝心の武器を、取り上げられ、拙い検証さえ、行えないとされる。正式な査察と違い、単なる傍観者として、許されただけでは、こんな展開は、あの国の常道なのだ。皆が、騒ぐ中で、茶番が演じられても、誰も、驚くことなく、この混乱は、まだ暫く続きそうだ。
皆が、という姿勢には、殆ど変化がない。にも拘わらず、それぞれの現場での状況には、大きな変化が、起きてきた。何処が、違うというのか、明らかなことは、人間が違っている、ことだけだろう。環境も、人間が関わる部分が、大きく変化しているようだ。
皆が、行くから、皆が、やるから、という、横並びの姿勢は、この国の人々の、平均的な考え方の、現れと言われる。最低限の教育を、保証するための仕組みである、義務教育を終えて、上位学校に進学する割合は、半世紀前と比べて、大きく伸びてきた。特に著しいのは、高校教育を経て、大学に進学する割合だろう。半数を超える人々が、学ぶことを欲している、などと書いたら、意外という反応が、返ってくるに違いない。何しろ、皆が進むのは、職を得る為に、不可欠な資格を、手に入れる為なのだ。そこで、自分なりの努力が、必要となるとは、思っていない。この点が、昔との大きな違いなのだ。皆が行く、という点では、殆ど変わらず、進学校に籍をおけば、大部分が進んでいたから、昔と今で、そこには、何の違いもない。ところが、割合が増すに従い、様々な歪みが、表面化してきたことは、現場からの悲鳴で、社会に知られるところとなってきた。だが、今や、そんな状況は、当然のものとなり、入ってしまえば、資格が得られる、という権利主張は、当然として、扱われている。非常識が、これ程までに、社会を冒す状況に、危機感を明言する人も、居るには違いないが、全体としては、手の施しようがない、となっているのではないか。皆が、という点が同じでも、昔は、入ってしまえば、やらねばならぬ、と変えられていった。ところが、今は、放置されている。ここに大きな原因があり、管理する側の無責任こそが、重大な要因なのだ。手の施しようが、などと、不平不満を漏らすだけで、働き掛けを怠った結果、危機を招いたことに、反省した上で、対策を講じる必要がある。
閉塞感、という魔物に、襲われているのか。自分に非は無いのに、何故か、あらゆることで、圧力を受ける。その多くは、論理的にも、矛盾に溢れているのに、空気は、ある方向に傾いている。大多数が、違和感を抱く中で、偏った考え方が、力を増し続ける。
何が正しいのか、見えない時代とも、言われている。誰かが、強く主張すると、それまでの情勢が、一変して、有利不利の関係が、逆転することも多い。それまでの常識が、通用しなくなるのも、閉塞感を、強く感じさせる、一要因となっている。それにしても、これらの原因は、どこにあるのか。最も恐ろしいのは、誰にもわからぬままに、暴走が続くという状況だ。誰かが、火をつけた勢いが、どういう訳か、強さを増し続け、何が正しいのか、判断を下す暇さえ、与えられなくなる。このような状況は、ある意味、混迷の時代、と呼ばれた頃に、屡々見かけられたものだが、当時と大きく違うのは、体制を支える人々の、自信のようなものか。下から、突き上げられても、自分には非は無いと、毅然とした態度を、続けることで、意味不明な暴走を、抑え込むことができた。ところが、自信を失った人々が、依然として、上に居座る中では、下からの突き上げは、小さなものでも、大きな影響を及ぼす。打たれ弱くなった人に対して、厳しい言葉は、針のように突き刺さり、更に、傷を大きくする。上を取り替えるのは、一つの方法だろうが、突き上げていた人間を、その座につけるのは、止めておいた方がいい。攻撃しか出来ない人が、守りに入った時に、どんなことが起きるか、あの時代を思い起こせば、すぐに見えてくる。均衡を保つ力は、糾弾に加わることは、少ないという点に、もっと目を向けるべきだろう。他人事のように、暴走を眺めつつ、対策を案じることこそ、こんな時代に、必要なことなのだから。