パンチの独り言

(5月28日〜6月3日)
(わかる、騙した、妄信、栄華、説明能力、深慮、喫緊)



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6月3日(日)−喫緊

 人材育成。喫緊の課題、と言われて、久しいものだが、その対象は、日々変化している。時代の変遷で、対象に変化が起きるのは、当然とはいえ、こう次々と、分野までもが変えられると、場当たり的な対応、と思えてくる。産業を支えるのなら、何十年も必要となるから。
 今、必要なのだから、とばかりに、主張しているようだが、育成にも、時間がかかる。宣言したからといって、すぐに、人材が出来上がる筈もない。喫緊との話は、どれほど、緊急なものなのか。今、必要との話は、多分、その通りなのだろう。だが、育成には、時間がかかるから、すぐに補充とはいかない。でも、実態は、今すぐ、ということらしい。そんな具合に、次々と、様々な産業分野から、どんな人材が必要か、叫び声が上がる。現実には、不足状態は、その後も続き、困った状況は続くが、一度周知すれば、社会全体に、問題意識が広がるから、一旦、見守る期間に入る。すると、忘れっぽい人間は、すっかり問題を忘れるから、暫くすると、再び、喫緊の課題、と訴えられる。こんな繰り返しの中で、問題が解決される場合もあるが、人材育成の殆どは、困難を伴うから、簡単には解決しない。そんな中で、続出する課題に、現場は、ある意味、振り回されることになる。何故なら、対象分野が、続出する中で、それに対応する為に、教育の仕組みに、変更が必要となっても、多様な要請に、応えられるように、なっていないからだ。それでも、補助金などを含め、様々な形で、対応を促す動きが出る。特に、産業界からの要請であれば、教育担当の役所でなく、産業担当の役所から、出されることになる。これを、縦割り行政の、殻を破る変化、と見る向きもあるが、現場では、依然として、保守的な考えから、圧力をかけたり、時には、妨害に及ぶことまである。だから、なのかもしれないが、実は、情報技術分野の人材育成は、喫緊と言われ続けて、もう10年近くになる。依然として、壁が、立ちはだかっているのか。

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6月2日(土)−深慮

 いじめは、加害者の責任が、厳しく問われるが、時に、首を傾げざるを得ない、理解に苦しむ状況が、伝えられる。一方的な行為、と断じられるものが、多いのは事実だが、中には、配慮に満ちた、丁寧な対応を、一方的に誤解し、歪曲した結果、となる場合も多い。
 こうなる原因の一つに、相手の立場への理解の欠如、があるようだ。元々、いじめという言葉は、この国では、加害者の感覚を重視し、その意図の有無が、第一の問題とされた。だが、海の向こうから、ハラスメントという言葉に、姿を変えた「いじめ」は、被害者の感覚が、唯一の要素と、扱うようになっていた。海の向こうも、昔は、こちらと同じ観点で、判断していたが、それでは、被害者を救済できず、極端な行為を防げない、という事態に、こういう変更を施したのだろう。確かに、一部には、保身から、意図を隠し、責任を回避する加害者が、居ることは事実だろう。しかし、この変更の後、被害続出の事態が起き、ある時点からは、恐怖の拡大が起き始めた。上に立つ人間にとり、信頼関係が、重要であるとの解釈は、ごく当然のものだが、一部の被害者の非常識に、苦しめられる組織が、続出してきたのだ。徐々に、是正されつつあるものの、一度極端に走った事態は、簡単には戻せない。実は、こうなる原因の一つに、相手を慮ることの、できない人々の増加がある。個人主義は、必ずしも、それを強める原因ではなく、逆に、利己的な人の数が、増えたことにより、それが個人主義に、姿を変えたのだろう。だが、この変化は、いじめだけでなく、様々な面に、悪影響を及ぼしている。例えば、相互理解は、ほぼ不可能となり、説明責任を、果たすことも、不可能となった。これが、結果として、説明能力の欠如へと繋がり、互いに、理解し合うことは、できなくなった。付け焼き刃的な、手当ての多くは、手法の伝授となるようだが、実際には、相手を慮ることこそが、大切な要素となるのだ。どう説明すれば、わかるか、と。

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6月1日(金)−説明能力

 説明する能力を、備えていない人が、世の中に溢れている。だが、その多くが、自分の能力不足を、認めたがらない。そうではなく、わかってくれない、と他人の問題を、指摘するのだ。焦りが、苛立ちへと繋がり、不平不満を、次々に並べ立てる。何故、わからないのか、と。
 実は、説明能力は、成長に従い、自然に身に付くもの、と言われる。だが、自信のない人の多くは、何か秘訣があり、訓練を望むようだ。彼らは、わからせる、という行為に、特別な何かを、見ているつもりなのだ。だが、子供が育つ過程で、周囲との関わりにおいて、話す訓練は、特別な形ではなく、日常的に行われている。その際に、自分の記憶や思いを、相手に伝える機会が、得られている。これが、自然に、と言われる所以で、特別な人から、特別な訓練を受けずとも、それなりの能力が、身に付く筈、と言われる。だが、関わりが成立せず、機会を得られなかった人々は、肝心の能力を、得られぬままに、成長することがある。そんな人々が、はじめに書いたような、悩みを、訴える訳だ。それでも、努力しようと、言葉を並べてみるが、一向に改善しない。そこで、相手の問題、と結論付けることになる。だが、原因は、やはり、本人にあるようだ。並べた言葉の、説明を求めると、そこにある問題が、顔を出し始める。時に、同じ言葉を、同じように並べ、何故わからないのか、という反応を示すし、別の場面では、説明できないままに、何故わからないのか、と困惑の表情を浮かべる。だが、実態は、自分の言葉で語らず、どこかにあったものを、復唱するだけなのだ。そこに、問題の核心がある。説明下手な人は、実は、その対象を、理解できておらず、わからないことを、説明しようとしているのだ。わからせる為には、理解する必要がある、と言われるのだが、これを、知らない人が、世の中に溢れているのだ。

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5月31日(木)−栄華

 長い歴史を、誇った組織が、腐敗ぶりを露呈する。末期症状、などと揶揄されながら、伝統ある組織は、突然、姿を消してしまう。そんな事例は、数多あり、歴史や伝統は、所詮過去のことに過ぎず、現在を生き抜く為には、今の状態が、良好でなければ、駄目なのだ。
 どんな組織も、長く続けば、様々な歪みが、蓄積してしまう。とはいえ、十分な対策を、重ねていけば、歪みを一つ一つ、取り除くことができ、破滅の回避は、さほど難しくはない。だが、その過程で、栄光の日々が続き、その座にしがみつこうとすると、歪みは、一気に強まり、光り輝く立場は、過去のものとなりかねない。上に立つからこそ、緊張を持って、慎重に対応することが、必要とされる所以だろう。だが、やっと、その座に戻れたことが、逆の抑圧を産み、自分だけでなく、周囲にまで、過度な圧力をかける結果となったのは、真の実力が、身についておらず、一時の運に、助けられた事を、示している。謙虚な姿勢、などと言われるものも、栄光の座に、驕らず、慢心せず、それまで同様に、地道な努力を続けることが、最重要と考えるからだろう。一つの綻びが、国内最大の組織の、存亡が論議されるに、及ぶような状況は、とても正常と言えるものではなく、組織が、腐敗してしまった事を、表している。本来、独裁的な仕組みに、なりにくいものが、少しのきっかけで、そうなることが、ありうることを、この経緯は、表しているように思えるが、他山の石とせず、他の組織も、自らの状況を、見直す必要があるように思える。その余裕もなく、ただ、今の座に居座れば、破滅への道が、明確となるだろう。既に、対象年齢の人口が、異常な程に、減少している現状では、油断禁物、ということだ。所詮、他人事だから、として、いいのだろうか。

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5月30日(水)−妄信

 騙されたのは、誰か、と問われれば、その場に居た人々、との答えが返ってくる。だとしたら、今回の、会ってもいないのに、会ったから、大丈夫という詐欺話の、被害者は、役所の人間となる。だが、地元の首長は、信頼は続き、補助金の交付は、続けるとした。
 社会通念からすると、この話は、どうにも理解に苦しむこと、となるだろう。騙された人間が、相手は、騙そうとしていなかった、と擁護し、支援を続ける、という見解を示したのは、社会全体ではなく、市民に向けた、態度表明と言える。無能な大人達に、よく見られる行動は、自らが犯した、過ちを否定しようとするもので、今回のものも、役所全体が、裏も取らずに、信じてしまった間違いを、認めたくない、という姿勢が見える。だが、これで、市民からの信頼が、得られるかといえば、近年の世相では、失うことが殆どで、職務怠慢とされ、失職の憂き目を、見ることになる場合が、多い。大学運営において、私立の組織では、経営が最優先され、教育を第一としない場合が、大部分と言われる。その中で、設置が認められれば、後は、金儲けに邁進する、となったとしても、致し方なし、とも言われる訳だ。随分前のことだが、ある大学が、県の支援を受け、開校に至った直後、大学の県に対する嘘が、露呈した結果、知事は、支援を打ち切ったことがある。施政者として、当然の措置であり、当時、全国的な話題とも、ならなかったとはいえ、県民からの突き上げは、全く起きなかった。時代が違うとはいえ、今回の顛末は、県と市の対応の温度差や、国との関わりなど、複雑な要素が絡むとしても、安易な対応は、自らの首を絞めることに、なり兼ねない。既に、学校法人の欺瞞が、露呈したものの、他の要素は、未だに明らかとならず、揉め事は、暫く続きそうだ。その中で、更なる不正が、暴かれるかが、節目となるだろう。

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5月29日(火)−騙した

 言った言わない、ではなく、会った会わない、が論点のようだが、記録の真偽は、記憶の有無では、決められないもの、と決まっている。そこで、という訳ではないが、発言者が、嘘の話をした、との説明が届いた。これでは、真偽も何も、関係なくなる。
 件の宰相は、これで一安心、と思ったようだが、嘘を聞かされた、役所の人間は、たまったものではない。まさに、詐欺にあったもので、この混乱の、大元に、犯罪紛いの行為があったとすれば、賠償請求や、認可の再審査など、様々な手続きが、検討されるべきだろう。次々に、繰り出される、新手の書類に対して、皆が、真剣に議論すればする程、申請の過程で、非合法な手続きが、行われていたとの疑いは、強まるばかりとなる。教育機関が、倫理や道徳に悖る行為を、利益追求の中で、進めてきたことが、これほど話題になることに、世間は、どう受け止めているのか。それだけ、濡れ手に粟の如く、利益が得られると聞けば、批判の声は、更に強まるのだが、その話とて、おかしなものではないか。正規の手続きが、進められずとも、結果が出てしまえば、戻ることはない、との考えが、今後出てくることは、ほぼ確実だが、元々、政治の力で、無理難題を、突き崩そうとした結果が、こういう事態を招いたのだ。無理強いは、結局、こんな結果を招くものだし、それが、一部に利益を与えれば、歪みは、強まるばかりとなる。口先では、綺麗事を並べても、本心は、露わにされることはない。そんな自信にも似たものを、持ったまま突っ走る宰相に、鉄槌を下ろすべく、綻びを見出そうと、敵対勢力は、奔走するが、独自の情報源を、持たぬ人々に、その力は得られない。内政が、いかに乱れようとも、外交が、賑やかさを見せる限り、立場は、揺るぎないものと、思えているようだ。

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5月28日(月)−わかる

 わかる、とは、どういうことだろう。理解する、納得する、様々な「わかる」が、存在するようだが、本人にとっては、どんな変化を伴うのか。意外な程、検証が行われておらず、何がどう変化するのか、確かな指標は示されていない。ただ、試験で確認するだけだ。
 覚えるべきことが、覚えられていれば、「わかった」との認証が、与えられる。だが、記憶することと、理解することとは、明らかに違うのは、誰もが知る所だろう。では、改めて、何がどう変化したのか。一つ、表面的なことを、引き合いに出せば、それは、「成る程」と思うこと、と言えるのかもしれない。記憶だけでは、ただ覚えただけで、復唱することと変わらない。その段階を経て、理解へと進む人もいるが、そこで止まっていては、理解には至らない。では、そこから、次への道筋では、何が起きているのか。やはり、明確に示すことは、難しいようだ。ここでも、一つ、可能性があると思われるのは、他人に説明できれば、その事柄について、理解が進んでいる、と言えるという点だ。わからなければ、復唱だけで、自分の言葉で、説明できないが、少しでも、わかったことがあれば、その点に関しては、違う表現で、話すことができる。それが実現できた時、人は、「わかった」と思えるのかもしれない。実は、学びの段階で、これを確認することは、非常に重要なのに、意外に、行われていない。自身で、調べればいいだけのことだが、その重要性に気付かぬ人は、ただ、覚え、復唱するだけで、終わる。繰り返すのではなく、独自の表現で、説明することで、相手を納得させられれば、理解が進んだことが、確認できる。もっと、目を向けるべき、手法だと思う。

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