パンチの独り言

(6月4日〜6月10日)
(猫可愛がり、損得勘定、動かぬ人、箱だけ、察知、確かめず、成果主義)



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6月10日(日)−成果主義

 教育なんて、役に立たないものだ、と断定する意見が出る一方、教育こそが、次代を担う人材を、創出する唯一の仕組み、という意見が出る。どちらが正しいのか、一概には言えまい。人それぞれ、どんな恩恵に浴し、どんな影響を受けたか、全く異なるからだろう。
 だが、荒廃と批判されるのは、様々な問題が、現場で起きているだけでなく、やはり、肝心の教育そのものが、成果を上げられなくなっているからだろう。教育の重要性を、強調する人々の多くは、その効果を、信じて疑わない。時に、人の一生を左右する程の、影響力を持つもの、とさえ主張している。確かに、成功者の一部には、そんな影響を、幼少時や成長期に受け、それにより、歩むべき道を、決めたという人も居る。だが、全体として見ると、殆ど影響を受けず、ただ、進学の手段のみを、与えただけの場合が多い。試験において、成功を収めるには、ある訓練が、効果的である、と信じられており、それを実施する場に、人気が集まるという。昔なら、その役割は、塾や予備校に、任されていたが、最近は、学校までもが、その手法を、専ら使っているらしい。同じことを繰り返し、反復練習することで、確実なものとする手法は、飽きやすい子供にとって、嫌悪感を催すだろうが、成績という成果からは、圧倒的な効果を見せる。それにより、多くが取り入れ、実施するに至るが、皆が同じことを始めれば、他との差は無くなる。となれば、成果は縮小し、嫌悪が強まるだろう。だが、従順な人々には、依然として、効果あるものとされる。ところで、この成果は、人間としての成長に繋がるのか。この点に関して、検証は行われていない。ただ、その後の展開として、様々な障害を生じるところを見ると、やはり無理があるように思える。人生の道筋を定めるのに、目の前しか見ないのでは、やはり駄目なのだろう。

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6月9日(土)−確かめず

 教育の荒廃について、巷では、いじめ問題ばかりに、注目が集まるが、教育の本来の役割からは、外れたものにも思える。たとえ、教育の範疇にあるとしても、それは、家庭内の問題に過ぎず、学校という組織に、特有のものではない。では、何が荒れ果てているのか。
 教え育むこと、という観点から見れば、教えることが、円滑に行われておらず、優良な人材の育成が、滞っていることこそが、最大の問題となるだろう。各人が、自身の育った時代に、様々な方策の犠牲者となったことを、少し思い出せば、付け焼き刃とも思える、所謂思いつきの、新方式が、次々に編み出され、失敗の連続となっていたことが、わかるのではないか。最近の流行の一つに、早期教育があり、その対象は、特に、英語に絞り込まれている。だが、専門家からは、様々に批判が噴出し、無駄とまで言われる事態が、起きている。多くの指摘のうちで、最も重視せねばならないのは、検証が行われていないこと、と言われる。実は、この問題は、英語教育に限ったことではなく、これまでに施された、殆どの教育において、同じ状況にあると言える。ゆとり教育は、厳しい批判に晒され、導入当初の勢いは、既に失われていたとはいえ、諸悪の根源のように、扱われていた。だが、どこが、どう問題だったのか、その解析は、全く行われておらず、批判の殆どは、感覚的なものに過ぎなかった。これだけでなく、多くの教育施策は、こんな調子で、新しい試みが行われ、成果を上げることなく、姿を消し続けてきた。最近も、積極的な学習、と称する仕組みが、盛んに持て囃されているが、名は違えども、よく似た中身は、これまでに何度も、試みられており、失敗の山を築いてきた。その問題を著した本も、出版されているらしく、今更のように、注意を促す動きがあるようだ。だが、これに限らず、教育制度の多くは、元々検証されず、ただの思いつきが、押し付けられているだけなのだ。問題の根幹は、どこにあるのか。

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6月8日(金)−察知

 気付き、の大切さに、気付かぬ人が多いのは、心配なことだ。指示書や指南書通りに、動くことを、目指すだけで、応用ができないと、批判される人々は、気付きの力を失い、想定外の事態に、対処できずに、役立たずと糾弾される。その原因は、どこにあるのか。
 命令通りに、動く人間を、扱いやすいと、重用する人間は、結局、同じように批判されるべきだろう。だが、人材育成において、このやり方が、横行することで、組織全体に、気付かぬ人が、溢れる事態となる。しかし、元々、察知能力が低下し、深刻な事態にさえ、平然と構える組織では、解決への糸口も、見出だせないだろう。そういえば、国の財布を預かる役所が、この所、不祥事を繰り返すのも、実は、上から下まで、ただ漫然と、命令系統を保つ姿勢を、続けた結果、と言えるのではないか。手順が入れ替わり、結果から、原因を導くやり方が、公然と行われたことに、誰も疑問を抱かなかったのは、服従体制が、整い過ぎたからでもあるが、人間そのものが、指示待ちとなり、指示自体に、疑問を抱くことさえ、できなくなっていたことが、最大の要因と思われる。では、どうすれば、気付きを促すことが、できるのだろうか。第一には、教える場で、教え過ぎないことがあり、その一方で、気付きの過程で、助言を絶やさぬことが、重要となる。現状は、この手続きが面倒で、待てど暮らせど、気付く気配を見せない、人々に対する落胆が、強制的に、従わせる状況を、招いていると思う。ここでの、少しの我慢が、次代を担う人々を、養成するのに、不可欠であるにも関わらず、それを無視してでも、安易な道を、歩み続けてきた。社会全体に、それを容認する雰囲気があり、手軽な手法に、頼った結果、こんな歪みに、満ちる社会を作り上げたのは、まさに、今、上に立っている人間なのだ。そろそろ、気付くべき時が、やってきている。

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6月7日(木)−箱だけ

 今は昔、という感慨さえ、起こるのかもしれない。潤沢な予算が、舞い降りてくると、多くの自治体は、所謂「箱物」を、せっせと作っていた。その後の経済の衰退は、運営どころか、維持さえも難しくし、輝かしい過去は、記憶の中にさえ、残らなかった。
 そんな反省からか、新たな箱物の建築には、反対の声が、次々と上がる。世論を味方とした、この手の活動は、成功を収め、公的施設の整備は、ある時期を境に、停滞したままとなっている。先日も、昇格の権利を、得たにも関わらず、申請を見送ったという、地方のサッカークラブの話が、取り上げられていたが、その理由は、箱物の規模が、規則を満たせないから、というものだった。運営への懸念から、各組織の破綻を、未然に防ぐ為に、様々な制限をかけ、円滑な経営を約束するものだが、これが一種の足枷となり、折角の機会を、失わせるとは、誰が予想しただろうか。失敗は許されない、という考えは、確かに、理解できるものだが、勝敗による資格獲得と、経営の方針は、必ずしも、一致するものではない。規則は、規則だから、例外は認められない、ということとなり、残留を余儀なくされた時、勝利に貢献した選手達は、より良い機会を求め、去って行ったという。地域の衰退を、食い止める手段としての、誘致だった筈が、衰退によって、身動きが取れないとは、何とも情けない。箱物建築も、それ自体への予算だけでなく、その後の運営への予算を、見通す必要があるとなれば、提案自体も、難しくなる。経済の閉塞感が、これ程満ちてしまうと、打開策は、悉く潰されてしまう。だが、過去の失敗に学ぶのなら、箱物を作っただけでおしまいではなく、その運営への支援をも、視野に入れる必要があることは、確かだろう。その可能性を潰し、中途半端な計画を立てる方が、頓挫を約束するようなものだ。

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6月6日(水)−動かぬ人

 将来への不安、を抱かぬ人は、殆ど居ないだろう。では、それらの人が、集まってできている、社会の具合はどうか。確かに、人材育成を、喫緊の課題と論じたり、年金・介護に始まる、老後の問題が、不安視されているから、安定は感じても、不安が消し去れる訳ではない。
 だが、それが、何処まで迫っているか、という点については、安定が優先され、何処か遠くに、感じられていないだろうか。喫緊の課題と論じても、すぐに解決できる訳ではなく、長い目で見守る必要がある。それに加え、そこに注力するとなれば、金銭的な支援を含め、社会として取り組む必要は、無くなることはない。その点を、論じるより前に、動き出してしまう現状では、数え切れぬ程の失敗が、山のような残骸を、さらけ出しているように思える。とはいえ、不安に駆られる人間にとって、周囲からの支援は、重要な要素となるだろう。だが、現状が、不確実に見えるのは、支援の多寡や有無の問題ではなく、それを受ける人々の、不安を解消しようとする、自助努力の欠乏に、あるように思える。支援は、確かにあった方がいいだろうが、精神的なもので、十分な筈が、金銭的なものを、要求し始め、その整備が優先、と主張する。だが、少し整ったとしても、不十分と指摘さえすれば、更なる支援が、期待できるのであれば、誰しも、「もっと」と叫びたくなる。その中で、期待に満ちた目が、注がれる人々の動向は、様々に観察されているが、どうにも、芳しくは見えてこない。支援を受け、環境が整っても、動き出さない人々に、周囲は、心配する様子だが、何が足らないのか。おそらく、環境は、十分に整っている。足らないのは、当事者、支援を要求した人々の、努力だけなのだ。経験がないからと、成功体験を、などという話では、決してないのである。

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6月5日(火)−損得勘定

 懲罰の対象となれば、見せしめの意味も込められ、罰そのものだけでなく、印象の面にまで、影響が及ぶとされる。まして、宮仕えの身となれば、将来への不安は、更に拡大しそうだ。だが、今回の場合、そういう懸念が、広がる気配は、全く見えてこない。
 何故か。ある人物への配慮から、忖度が働き、公文書の改竄が、行われたと言われ、となれば、その人物を支援する人々から、手が差し伸べられることが、確実と見られているからだ。あれ程の忠誠を示せば、その意気を感じるのは、当然とされる訳だ。そこに、法律違反という、社会的に認め難い行為が、あろうともである。一般社会とは、異なる原則が、罷り通る社会は、裏のものではなく、真っ当なものとして、社会の中心に、居座っている。汚名返上とばかり、官庁の上から下まで、徹底的に調べ上げた、と語る大臣には、「分かれば苦労しない」との思いがあるようだが、張本人に、聞けば済むことだろう。ただ、あれほどの忖度を示した人間が、それを抜きにして、真意を語ることは、あり得ない。だからこそ、苦労しない、との発言になる訳だ。これを、墓場まで持ち込めば、処分後も、確かな生活が保証される、となれば、誰もが、同じことを行うだろう。こんな歪みに満ちた社会で、一体、何が真実で、何が嘘か、決められる筈もないのだ。これ以上は、無駄な時間、としてしまえば、それで済むのだが、果たして、どうなるのか。現実には、張本人も含め、彼に、その役を演じさせた連中が、責任を痛感して、襟を正すことがなければ、同じことが、同じように繰り返され、不正は、続くに違いない。利害で動いて、何が悪いのか、という意見も、出てくるだろうし、こんな社会で、真面目に生きても、得にはならない、ということか。

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6月4日(月)−猫可愛がり

 愛玩動物に関する事件が、多発しているように思える。それも、最近、急速に愛好者を、増やし続けている、猫に関するものだ。多くの人が、可愛いからと、飼うようになると、それだけ、問題が起き易くなる。以前は、野良猫が、最大の社会問題だったのだが。
 この所、問題として、取り上げられることが、多くなったのは、所謂、多頭飼いである。可愛がる対象が、一つ二つに、限られていれば、何の問題も生じないが、それが、急速に増え始めると、様々な問題が生じる。野良猫の繁殖が、世間では、大きな問題と捉えられているが、これは、制御の利かないことが、一番の要因と言われる。ところが、それが、家の中でも起き始め、異常な速度で、頭数が増えることで、飼い主の制御も、利かなくなるのだ。人口問題でも、同じことが、度々取り上げられるが、ここでも、環境に大きな影響を及ぼし、周囲から、苦情が絶えなくなる。そうなると、行政が乗り出すことになり、様々な処分が下される。犬に関する事件は、以前に比べると、激減しており、殆ど取り上げられないが、猫に関しては、正反対の変化を見せている。多くの飼い主は、そこに至る段階で、周囲との軋轢が、生じていることが、愛猫家の特徴のようだが、これで、全体の問題としては、多くの愛好家には、心外な話だろう。何れにしても、人間関係の崩壊が、猫という愛玩動物への逃避に繋がり、事件へと発展したとされる。的外れ、とは言わないが、どうにも、寛容な社会に、思えてならない。身勝手な行動も、自己責任ではなく、周囲の問題と、捉えてしまえば、実は、問題意識を、弱めることになる。社会性を失いつつある、人々の数が、急速に増える中で、どんな手立てを講じるべきか。答えが見出せないようだ。人間の身勝手を、強調してこそ、解決への道が、開けるのではないか。

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