パンチの独り言

(6月11日〜6月17日)
(説得力、誤信、軽視、筋書き通り、辻褄合わせ、現場主義、遠近感)



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6月17日(日)−遠近感

 大人と子供の間の距離が、縮まっている。そんな気がしたことのある人は、沢山いるだろう。特に、親子の距離は、異常な程に近づいた、ように感じられる。姉妹のように振る舞う、母娘の姿を、微笑ましく捉えていたのは、もう昔のことで、今では当たり前とされる。
 相手にする数が、減ったことで、関係が濃密になった。との意見があるが、果たしてどうか。親から見れば、子の数は、確かに減っていて、関係が濃くなるだろうが、子の側から見れば、何も変わっていない。どちらが接近したかと問えば、おそらく、親の方との答えが返ってくる。親とは言え、大人を、身近な存在と感じれば、日々の生活にも、変化が起きるだろう。家の中から、社会に出てみると、別の大人達が、相手をしてくれる。はじめは、親と同じと見做すが、そのうち、先生という存在は、また違ったもの、と理解する時が来る。以前なら、それが当たり前だったが、親との急接近は、大人の存在への、全く異なる感覚を、芽生えさせてきたようだ。目上に向かい、タメ口をきく、という話も、昔は、珍しいことと受け取られたが、今や、当然のことで、それだけ、対等な立場に、なったのだとも言われる。だが、何故、対等となったのかは、何の説明もなされない。畏怖の対象から、身近な存在へと、変化するきっかけは、やはり、親との関係の変化だろう。反抗期と呼ばれる時期に、距離が急速に広がるのは、依存という状況から、独立への兆し、と言われていたが、今では、そんな面倒は起こさず、敬遠することも少ない。これでは、依存から抜け出せず、自立は遠のくのでは、とも言われるが、渦中の人々は、そんな懸念は、微塵も感じていない。今の状態が、安心の源であり、それさえ保てれば、人生を謳歌できる、という訳だ。多分、これから50年程経てば、何が起きたかが、見えてくるだろう。今の大人達には、もう関係のない頃だろうが。

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6月16日(土)−現場主義

 今は、売り手市場、なのだそうだ。引く手数多の気分は、どんなものだろう。何か、特別な存在に、なった気持ちにでも、なるのだろうか。買い手市場の時代には、自分の売り口上を、必死で考えても、歯牙にもかけて貰えず、存在自体が、否定されていたのに。
 だが、立場の変化は、急に襲ってくる。嘗て、石油危機と呼ばれた時代に、主婦が紙製品を買いに、店を駆け回った頃、大学を出ても、職が見つからなかった。不況を理由に、採用を控える企業が、続出したのだ。その後、成長を続けた結果、好景気となり、採用も異常な様相を呈した。職そのものの魅力でなく、別の要素を売り込み、採用される側も、仕事と無関係な能力を、売り込む状況だった。それでも、採ってしまえば、研修と称する、訓練により、鍛え直せばいいから、心配はない、と言われたものだ。だが、それから20年程経ち、中堅となった人材には、欠陥が目立つようで、選考の難しさが、改めて感じられた。しかし、今や、肝心の研修は、姿を消してしまい、鍛え直す気も、採る側にはないらしい。現場主義などと呼ばれ、実地訓練を主体とする中で、能力不足を実感し、去る人間が増えているようだ。時代の趨勢かについて、諸説あるようだが、教えずにやらせる、という方式が、社員研修だけでなく、あらゆる教育現場で、多用されているようだ。経験させれば、多くが学べる、というのは、入社前の研修という形で、現れているが、学校教育でも、自由な発想と言いつつ、先入観なしでの取り組みを、させようとする動きが、目立っている。だが、何をどうすべきか、について、無知なままで、取り組ませることに、どんな意味があるのか。当事者は、真剣に考えているのか。おかしな状況が、これ以上続くと、基礎から、崩壊しそうに思える。それとも、別の展開が、始まるのか。

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6月15日(金)−辻褄合わせ

 辻褄を合わせても、そこで、意図的に、誤魔化しが施されれば、それは、不正と断じられる。一方で、辻褄が合わず、どこかに矛盾が残れば、それは、失敗と断じられる。どちらも、間違いであることは、確かなのだが、どうも、扱い方に、大きな違いがあるようだ。
 少しくらいの失敗なら、誤魔化さずに、正直に、謝罪すればいい、というのだが、この考えは、正しいのだろうか。実は、不正にしろ、失敗にしろ、問題が残る、という点については、大した違いはない。無くて済むなら、その方がいい、に決まっている。にも拘わらず、不正ばかりが、厳しく断罪され、失敗ならば、などと許されるのは、明らかな間違い、ではないか。どちらも、矛盾の気配が、感じられ始めた時に、対応を誤ったことが、原因となっている。小さな綻びに、気付かぬのは、無能の証だが、一方で、それを隠蔽する為に、誤魔化しに走れば、不正へと結びつく。一方、無能な人々の問題は、失敗へと結びつく道筋で、続出する矛盾に、気付かぬままに走り続け、傷を大きくする。それが、修復出来ぬ程まで、拡大した場合には、厳しく糾弾されるが、その手前なら、不正に走るより、まだまし、などと片付けられる。だが、失敗は失敗、誤魔化しは誤魔化しである。どちらにしても、正しく処理できず、傷跡を残せば、その修復に、更なる手立てが、必要となるのだ。人員をかけ、時間をかけて、その修復が、達成されたとしても、無駄は無駄である。経験値が上がる、などと、戯けたことを言っても、所詮、減らず口にしかならない。元々、矛盾の気配を察し、それを指摘することで、失敗を防ぐことこそが、事を進める上で、重要なことなのだ。それを、放置するような、言動は、慎むべきであり、常に、反省する必要がある。どうすればいいのか、わかっているのに、放置するのも、不正の一つとなるのだから。

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6月14日(木)−筋書き通り

 不正を暴くことに、世間は躍起になっている。だが、次々に発覚する、種々の不正を前に、人々は、戸惑っているのではないか。あれもこれも、とばかりに、細々としたものまで、並べ立てられる、不正の数々に、何故、これ程、と思い始めているのだ。
 暴くことに、躍起になって、かなりの成果を上げた訳だが、これで終わり、と思ってしまっては、何も変わらない、ということに、少しずつだが、気付く人が出てきている。最大の問題は、不正を発見することではなく、未然に防ぐ、あるいは、問題となる前に、自分達で、修正することにある。それも、この所、話題になっているような、嘘に嘘を重ねる形で、不正を隠蔽する為に、別の不正を行うのではなく、初めの不正を、消し去ることこそが、重要なのである。その際に、何が肝心なのか。今更、こんなことを、論じる必要が、出てきた所に、現代社会の抱える、病の重さが、強く感じられる。正当な手順で、物事を、片付けていけば、その過程で、誤りが入り込む余地は、無くなるものだ。だが、世の多くの人は、結論を先に置き、それを達成する為に、途中の過程に、手を入れようとする。そこに、歪みが生じれば、誤魔化しを施し、結果として、不正を働くことに、繋がることになる。こんな簡単なことに、気付かぬ社会となったのは、成果主義を、第一と掲げ始めた頃からで、段階を追って、積み上げることによって、成果を手にするより、期待される成果を、掲げることで、注目を集めてから、そこに至る道筋を、探そうとする手法が、持て囃されたからだろう。それでも、真面目に積み重ね、成功を手にした人も、多く出たには違いないが、成功を夢見て、徐々に、不正に手を染めてきた人も、その数を、急速に増してきた。これをどう防ぐか。簡単には、道筋の検証しか、ないだろう。前に進んだものと、後ろに戻ったものでは、そこに矛盾が生じる可能性に、大きな違いがあるからだ。

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6月13日(水)−軽視

 価値が無い、と自ら認める人間が、価値が有る、と皆が褒める人間の、命を奪う事件が起きた。真相は、今後明らかにされるだろうが、今の所、こんな状況と受け取られている。人の命に、軽重の差は無い、と言われるが、評判とは、そんなものなのかもしれない。
 惨劇が起き、その様が、徐々に伝えられるに従い、悲惨さは、強まるばかりとなる。最近の、事件報道に、有り勝ちな道筋だが、過度な脚色、と思える部分も多い。惨劇の主人公は、あくまでも、異常な存在であり、不可解なことばかり、とされる。だが、所詮、同じ人間である。身勝手さも含め、差があったとしても、ある範疇に収まる、と思われている。それが、異常事態を招くと、途端に、異常さを強調し、枠から外れていることを、断定しようとする動きが、強まるのだ。冷静さを失い、異常な程の執念を見せて、異形の人間を、作り出そうとする。これも、人間の性の、一種なのかもしれない。一方、異常とは思わぬまでも、自らの価値を認めず、生きる価値さえ、見出せないとする人間が、何故、自分の命ではなく、他人の命を奪おうとするのか。この心理を、理解しようとする動きは、毎度の如く、盛り上がり始めている。だが、これも毎度のことだが、一時の熱狂は、すぐに冷めて、忘れ去られる。命の重さが、人それぞれに異なる、という主張が、こんな事件が起こる度に、取り上げられるが、だとしたら、罪を犯した人間の、重さをどう扱うのか。死刑制度の問題は、依然として、結論を出せないままに、現行制度が続いているが、命の重さの問題も、論じておかねば、ならないのだろう。罪の重さを、測るだけでなく、犯罪者の命の重さを、測ることが、罰の程度を決めるとなれば、これまでとは、全く異なる基準が、設けられるかもしれない。戯言と、一蹴しても、真剣に検討しても、今の下らない話よりは、ずっとましに思うのだが。

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6月12日(火)−誤信

 膨張を続けたものが、弾け飛んだ後、それまで、国を動かすと言われていた、人々の能力低下が、目につくようになった、と言われる。様々な形で、進むべき方向へと、舵を切り、繁栄を築いてきたものが、突然、崩壊へと、落下するようになり、迷走が始まった。
 悪い方に進み始めると、やることなすこと、何もかもが、裏目に出始めた。それまで、自信を持って、国の運営に、携わってきた人々は、砂上の楼閣の如き、不確かな自信を、失うばかりか、小手先の誤魔化しに、終始することで、全体を見渡すことなく、眼前の問題を、解決しようとして、却って、歪みを強めることとなり、更なる窮地に、追い込まれることとなった。そこまで来ると、真面目に、正しい道を、歩もうとする人間は、目立たぬ存在として、重用されず、派手な行動により、目立つ人間を、登用することが、多くなり、それが、更に、事態を悪化させる、ことへと繋がった。当時の責任者の、先見性の無さは、重大な問題を、後世に残すこととなったが、それを、今更、批判する人も居らず、繁栄の城の崩壊が、始まったのは、時代の趨勢と総括する向きもある。だが、その後の衰退は、国の形を、大きく変えることとなり、実は、当時の失政が、大きな傷跡を残したことは、大いに反省すべきことだろう。その上で、それまでの繁栄を支えた仕組みが、破壊されたことを、認める必要がある。そうしないと、今、巷で話題となっている、官僚達の不正を、根源から改めることは、不可能となるだろう。他人事のように、遠くから眺める、その他の公僕達は、自らの信じることさえ、続けていけば、大丈夫との、根拠のない自信を示す。そこに、大きな問題がある。間違ったやり方を、信じることで、間違った道を、進んでいるのだとしたら、根本的に、改めねばならないのだ。

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6月11日(月)−説得力

 争点はあったのか。そんな疑問が、漂ったまま、決着がついたが、懸念を抱いていた人々には、大した違いを、感じさせない結果、だったのではないか。都会からの負担が、あの事故によって、現実的な心配へと変わり、中央に向けての、反発へと繋がった。
 列島改造、の謳い文句により、頂点を極めた人物に、代表されるように、保守王国を、誇った地域も、全く異なる様相を、呈するようになった。今回の結果は、面目を保つものとなったが、しかし、中央の方針とは、正反対の動きを、見せることによって、勝利を手にしたことは、今後の展開が、混迷を極める気配を、強めることになる。だからと言って、必要性が高まる状況に、変化は起きそうにない。経済停滞が、更に状況を悪化させ、世界的な不安定は、代替案を、困難なものにしている。だが、結果は結果であり、論点が明確にならず、一方的な政策の提示では、今後の展開も、明白な方向を持って、進められるもの、と考えられる。では、発電問題は、頓挫したままに、あの施設は放置され、廃棄されるのか。こちらの問題は、これまでの政治の怠慢が、招いたものに違いないが、実は、問題の本質は、そこにあるとは、言えないように思う。近年の傾向として、危険性に関しては、たとえ僅かでも、過大評価され、消し去ることはできない、とされる。実際には、危険という面で、あらゆる要素が、考えられるだけに、その比較こそが、重要となる筈だが、脅迫感に襲われた、人々にとっては、それら全てが同等に、圧力を感じさせるものとなる。万に一つの可能性さえ、常に、懸念の対象となるのなら、日々の生活は、立ち行かないものとなる。だが、騒ぎの中心に立つ人々は、自ら招く危険を含め、他のものには目もくれず、気になったものだけを、問題視しているのだ。理性的でない行動に、説得力は無い筈だが。

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