パンチの独り言

(6月18日〜6月24日)
(野良、倒壊、復刊、苦楽、誰のせい、公共物、意見)



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6月24日(日)−意見

 若者の意見に、注目が集まるのは、何故だろう。素直な心から、琴線に触れる、言葉が溢れ出すから、などと言われても、素直には信じられないが、では、何故なのか。そこに、彼らの意見を、前面に押し出す、人々の思惑が、あるからなのだろう。
 同じ言葉が並んでも、それを発する人間の年齢により、聞き手の受け取り方が、異なってくる。若いのに、いいことを言う、などと言われるのも、見た目の違いが、受け手の気持ちに、影響を与える、ことを示している。だとしたら、同じ原稿を書き上げ、同じ環境で、発表するにしても、若者に、その役を当てることが、不可欠となる。注目を浴びるから、この光景は、報道でも頻繁に取り上げられる。気持ちを込め、意見を述べる姿に、感動する人も居るが、弁論大会として、見てみると、少し様子が違ってくる。素直に述べる、というより、気持ちを込めようと、感情の起伏を、表現しようとすれば、聞き手の心を、動かすこともできる。確かに、これは、弁論大会でよく見る、演出の一つに思える。取り上げられた人々が、全て同じであるとは言わないが、演技にも似た、技巧溢れる弁論に、心を動かされる人は多い。それにより、その意見が述べられた場も、その企画も、注目を浴びることに繋がれば、企画者の目的も、十分に果たされた、と言えるだろう。ある意味、そして、穿った見方をすれば、若者の登用は、そんな思惑によるものとも見える。そう考えたら、一つ、思い当たったことがある。彼らのその後は、どうなったのか、という点だ。何かの儀式の中で、若者代表として、意見を述べた人の数は、毎年のことだから、積算すれば、かなりの数に上る。彼らのその後に、誰も注目していないから、どこからも、そんな話は聞こえてこないが、試しに、調べてみたらどうか。何か、わかるような気がする。

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6月23日(土)−公共物

 古刹に、油のようなものを撒く、世界遺産に、落書きをする。そんな不届き者に対し、どんな思いを、抱くだろうか。公共の財産に、何と酷いことを、と思う人が多いだろうが、財産かどうかに関わらず、公共物に行えば、不道徳だし、秩序を乱す行為だろう。
 こんなことを、改めて書くまでもなく、皆のものは、大切にせねば、というのが、昔の当たり前だった。だが、今の考え方は、違う。何故大切なのか、教えてやり、だから、汚してはいけない、とするのだ。そこでは、公共という考えより、歴史上の重要性が優先される。だから、不道徳な行為に対し、歴史的な事実の伝承が、足らなかったとの指摘が、なされている。だが、それ以前に、他人の物は、他人の物であり、公共物は、社会全体の共有物である。自分勝手に、それらを汚して、良い訳がない。何故、それを教えず、別のことを、強調しようとするのか。道徳や倫理を、教える中で、大切さを、強調すればするほど、基本が、忘れ去られていく。こうやって、社会秩序を、捻じ曲げておきながら、自分達は、常に正しいことを、行っている、と信じ込んでいる。彼らの傲慢さに、嫌悪を覚えるのは、報道が作り上げた、筋書きからは、外れる行為だろうが、どちらが常識的か、考えるべき時が、来ているように思う。不道徳を、指摘しようとして、対象の重要性を、強調しようとすれば、そこに、常識とは異なる、勝手な論理が、入り込むことになる。どんなものでも、公共の財産は、大切にせねばならず、財産の価値により、その程度が、変わる筈がないのだ。もし、価値に左右されるものがあるとすれば、損害を賠償する際に、対価として、どれ程の貨幣価値を、要求されるか、という点にしか、ないだろう。基本を、思い出す必要が、ある。

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6月22日(金)−誰のせい

 売り手市場なのに、何故、自分の方を、向いてくれないのか、と思う人が、多いようだ。人手が足りず、猫の手も借りたい、筈なのに。こんな思いを、抱く人の多くは、自分の問題に、気付いていない。誰でもいいのだから、自分も、と考えているようだが。
 他人との違いに、気付かぬ人を、信用する人は、殆ど居ない。良い点も、悪い点も、どちらも、他人との違いとして、意識する人は多く、それが、当たり前のように、思っている。だが、はじめに取り上げた人の多くは、違いを認めようとせず、同じだと信じたがる。その上で、同じなのに、何故、自分だけが排除されるのか、と訴える訳だ。しかし、他人から見れば、そこに明らかな違いがあり、優劣をつけることができる。肝心なのは、劣っている点ではなく、優れた点を意識することだが、同じを願う気持ちは、そちらにさえ、気付く気配を見せない。その結果、ただ漫然と、月並みの意見を、並べるだけで、売り込みが、疎かになる。これでは、魅力を感じることなく、石ころの一つ、と見做されるのも、無理もない。ところが、ここでも、自分に非がある、とは思わず、相手の問題、としたくなるらしい。これでは、解決の糸口さえ、見つけることは難しい。おそらく、このまま、成功を、手に入れることなく、時が過ぎていくのだろう。誰も、忠告してくれなかった、とか、そんな助言はなかった、とか、そんなことを並べても、自分が気付かねば、何も起きないことに、気付かぬ人が、何と多いことか。彼らの声が、届くようになったのも、SNSという仕組みが、社会に溢れたからだが、所詮、不平不満を並べるだけで、その反応にさえ、気付かぬのだから、無駄と言うしかない。誰からも、見向きもされないのは、自分のせいなのだ。

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6月21日(木)−苦楽

 誰だって、苦労を背負い込みたい、とは思わないだろう。だが、それが、必要だったら、どうか。この辺りの事情は、時代の変遷で、かなり大きく変化したようだ。昔なら、押し付けられた課題でも、有無を言わせず、やらされて、苦労したこともあった。
 しかし、今では、たとえ必要なことでも、本人が、嫌だと思えば、避けられるようになっている。気持ちを大事に、と言われるやり方だが、不思議に思うのは、必要なことを、やらずに済ませたら、どうなるのか、という点だ。回避できたことばかりに、注目が集まる為に、その後の経緯が語られることは、殆どない。だから、気持ちにだけ、注目が集まり、それを大切にすることが、最優先であるかの如く、扱われるのだ。だが、本人の将来も含め、その時の判断が、正しかったかどうか、何の検証もせずに、伝えるのは、間違いではないか。それにより、中途半端な情報が、独り歩きすることになる。ある部分で、気持ちの問題であるから、その場の判断こそが、重要であるには違いないが、それに流され、結局、機会を失ったり、失敗に結び付いたのでは、判断は誤り、とすべきではないか。近年の特徴として、心の問題を、第一と扱う場合が多く、成功に繋がったとしても、気持ちを踏みにじっては、元も子もない、とまで言われる。だが、心の揺らぎは、簡単に見透せる訳ではなく、こちらの期待通りに、動く訳もない。なのに、その場の安定を、第一とするのは、偏った考えと言えないだろうか。精神的な弱さが、様々な場面で、取り上げられるが、それを、補う為に支援の多くは、鍛えることを、避ける動きに繋がる。成長を妨げ、脱皮をさせないことが、この手法の副作用だとしたら、場当たり的ではなく、先を見通すやり方を、考えるべきだろう。

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6月20日(水)−復刊

 達見と言っても、常に通用するものではない。と思える話が、綴られる中で、既に鬼籍に入った人々への、評価は、急落したように感じる。歴史学者として、一世を風靡した、と伝えられた人物も、当時は、過ちを犯していたとして、評判は、落ち始めていたようだ。
 ある意味、名誉回復を狙った、とでも言える対談は、内容からは、明らかな失敗と見えた。相手も、鋭い舌鋒から、論壇では、高い評価を受けていたが、そろそろ、老害に近づき、拘りだけが目立っていた。企画者の意図を、本の内容から、推測することは、難しいが、自らの研究業績に、基づく事柄を、引き合いに出すことで、意見を確実なものにしようとする、強い意図は、空回りに終わり、失墜した信頼を、回復するには、至らなかったようだ。となれば、出版の意味は、殆ど無くなる。にも拘わらず、それを再び、世に出すことに、どんな意味があるのか。おそらく、当時の事情を、知らない世代が、手に取ることを、狙ったものだろう。それにより、無垢な心に、彼らの意見が、染み込めば、当時の意図は、果たせることになる。一件落着、とでも言えるのかもしれないが、これ程酷い話もない。時代背景を無視し、そこに記された言葉から、直接伝わるものを、世に問うている、というつもりでも、彼らの言動の裏にある、政治的な背景や、学問的な事情は、無視できるものではない。当時の語り合いの中で、彼らの眼中にあったものを、見せることなく、言葉だけを並べても、実は、殆ど意味がない。中で語られた事柄も、意図的に選択されたもので、それは、背景との強い結びつきからくる。だとしたら、こんな戯言を、並べたものを、改めて、世に問う必要はない。まさに、老害としか思えない、下らない本との出合いだった。

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6月19日(火)−倒壊

 壁が崩れ、死者が出た。そんな一報が、伝えられた時、還暦を超えた世代は、ある事を思い出しただろう。40年程前に、ある地域で起きた地震で、多くの死者が出たのは、実は、家の周りに築かれた、塀が崩れたからだった。それは、昔からの土塀ではなかった。
 当時、経費が少なく済むと、どこの家も、ブロック塀と呼ばれる、新方式の壁を、周囲に築いていた。それが、地震の揺れに耐えられず、一気に倒れたのだ。旧来の塀では、土を主体とした材料で、築かれていたから、崩れ落ちる形で、破壊されることが多かったが、新方式では、それぞれの塊が保持され、他の塊と一緒に、倒れる形で崩れた。重量と強度を、うまく調整するために、中空の構造をしていたが、これが数個あるいは十数個の塊で、崩れてしまうと、その圧力で、死に至ってしまう。本来は、鉄筋を入れ込むことで、強度を保つのだが、簡易な工事で、誰でも行えた為か、省略していたものばかりだった。その後、法律により、規制がかけられたが、今回の災害から、様々な指摘が起きている。報道の姿勢を、糾弾しても、失われた命は、戻ってこないのだが、彼らの態度には、喉元過ぎれば、という例の如くの状況が、明らかに見える。一方、指摘の数々には、的外れなものも多く、規制の解釈や、点検の状況など、誤った情報を、裏を取らずに伝える、いつもの姿勢が、現れている。何をしても、所詮、その程度のものだろうが、速さを重視し過ぎて、誤報を繰り返すのでは、元も子もなくなる。重要な点を、如何に強調するかが、彼らに課された役割だが、その意識は、微塵も感じられない。崩れた壁の中にも、材質が異なり、工事法も違うものが見える。伝える人間が、無知なのは、当然のことであり、だからこそ、専門的な知識の持ち主に、依頼することが、大切なのだ。素人の書いた筋書きを、もっともらしく見せるために、専門家に一言話させるのは、愚の骨頂なのだ。

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6月18日(月)−野良

 子供の頃には、よく見かけた、野良犬の姿は、全く見かけなくなった。人間の病気との関係から、根絶を目指して、行政が強く働きかけた、結果と言えるだろう。一方、野良猫については、人間との関係も異なり、行政の働きかけも、積極的とは言えないようだ。
 元々、放し飼いを禁じられる犬と違い、猫は、自由に外に出ることを、許される存在だった。それは、ネズミ退治との関係もあり、地域によっては、家業の妨げとなる害獣を、駆除する役目を、負わされる存在だった。飼うことについての、根本的な考え方の違いは、行政との関係においても、複雑な要素を作り出してきたようだ。捕獲されたものを、殺処分にするだけで、野良犬のように、積極的な捕獲を、行政が中心となって、行うのとは、大きく違い、また、外を歩く猫達に、特別怖い存在、との認識を持つ人の数も、少なかった。その一方で、野良猫にも、愛情を注ぐ人は、どの町にも居て、近所の猫達に、餌を与えることで、急激に、その数が増えてしまい、迷惑を感じる人が、増え続けている。猫の愛好家の中には、この事態に、危機を感じ、対策を講じる人が、増えてきた。野良猫の繁殖を、防ぐ手立てとして、捕獲後に、避妊や去勢を施したり、保護することで、新たな飼い主、里親と呼ばれるようだが、を見出そうとする、運動も盛んに行われている。猫カフェなる存在も、猫を愛する人の為、という意味も含まれるが、保護猫の譲渡を、目的とする場も、多いようだ。近所で生まれた子猫達を、保護することになり、一年近く、譲渡会にも参加して、関係者の献身的な活動を、見守ってきた。幸い、保護した3匹は、無事に新たな飼い主と出会い、引き取られていった。彼らの避妊、去勢だけでなく、ワクチン接種など、経費は少なくなかったが、何とか結末を迎えた。その母猫も、避妊手術を終え、今も、近所に棲む野良猫である。この間、行政の関与は皆無で、知らぬフリとなっている。良いも悪いも、言うつもりはない。

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