パンチの独り言

(6月25日〜7月1日)
(忘れない、言い争い、脅迫、自己愛、相手次第、負け組、不見識)



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7月1日(日)−不見識

 一時、華々しく取り上げられたが、結局根付かなかった。こんな事例を、取り上げれば、おそらく、きりなく出てくるだろう。それ程、世の中は、何かを求めているのに、それと思われたものが、見当外れである場合が、多過ぎるのだ。簡単には、不見識ということだろう。
 取り上げる時には、いかに素晴らしいものか、絶賛ともいえる姿勢で、最上のものに位置付ける。しかし、現場に持ち込まれると、謳い文句から外れた、数々の問題が噴出し、姿を消してしまう。数多ある例の中でも、最近の例は、過去の失敗を悔いて、導入にも、十分な配慮がなされた、らしい。しかし、結果は、何も変わらず、根付くことはなかった。白熱教室と呼ばれる、講師と受講生が、熱を帯びた議論を行い、背景となる知識や、それらに対する判断を、学ぼうとする試みは、例の如く、海の向こうからやってきた。しかし、派手な演出や、絶えることのない議論に、魅力を感じたとて、それを演じる人々に、その気が起きねば、何も始まらない。やる気のない学生に、魅力的な教育法、として捉えては、的外れとなるのも、無理はない。準備万端で、最後の瞬間だけ、画面に映る姿に、魅力を感じても、準備に費やす労力は、かなりのものなのだ。それは、学習意欲を失い、権利主張に明け暮れる、劣悪学生には、何ももたらさなかった。根付かぬ理由は、簡単に見えたが、一方で、あの教室の、根本的な欠陥に、目を向ける人が、居ないことに、愕然とさせられた。今も続く、派手な取り上げ方に、論理の欠如を、感じない時代に、危惧を抱くのは、心配し過ぎだろうか。先日も、ふと眺めた番組中で、道徳・倫理と、技術の発展の、関係を明らかにさせようと、議論を導く教授の姿があった。そこで、議論されたのは、自動運転の想定と、命の大切さを道徳と結びつけたものだが、仮定する中で、議論を優先するあまり、論理に欠けるものを、扱うことに、異論を唱えぬ若者に、何かが欠けている、と感じた。無意味な話し合いに、熱中する人々は、たとえ知識が十分でも、不見識に違いない。

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6月30日(土)−負け組

 資金を得る為に、競争するという原理は、現代では、当然のものと見做され、その中で、生き抜くことこそが、人生の勝利を、得る為に必要なこと、と言われる。だが、勝者が居れば、敗者が居るものだ。競争を生き抜く中で、常に、敗者となる人は、人生においても、だろうか。
 この原理について、疑問を呈する意見は、数多く出されている。にも拘わらず、その仕組み自体を、変えようとする提案は、出されていないように見える。その理由にこそ、この問題の元凶があるのだ。資金が、潤沢にあった時代には、競争は、二次的なものとして、扱われていた。基盤となるものは、それなりに存在し、それだけでも、ある程度の活動が、可能となる場合には、更なる資金が、必要となるのは、その活動を、高める必要があるからだろう。となれば、通常の活動には、十分な状態にあるから、あえて、競争的資金に、手を出す必要はなかった。それが、いつ頃からか、競争を、中心に据える仕組みが、作り出され、それが当然のものとなり、誰もが、僅かな活動でさえ、他人を追い落として、資金を手に入れる、必要が出てきた。基盤的支援を打ち切り、全てを競争とすることで、一見、活性の落ちた活動を、盛んにすることが、できたと、首謀者達は、思い込んでいる。しかし、四六時中、競争に晒され、それに打ち勝ってこそ、活動が維持できる、となってしまうと、敗者には、少しの活動も、許されなくなる。となれば、不正をしてでも、勝ちを求める人が、出てくるのも、当然だろう。その結果が、今の世の中に、満ち溢れている、異常な状況へと、繋がったのではないか。資金の問題だけでなく、あらゆる部分に、競争を採り入れ、それを当然とする、社会的な仕組みは、人間の心を、蝕んでいるのではないか。

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6月29日(金)−相手次第

 自分中心で、考えることに、間違いはない、と思う人が多い。一人で、生きていくなら、それでも、結構だろうが、人間社会では、そうはいかぬことが、多過ぎる。では、どんな考え方が、必要なのか。そんな葛藤の中から、自己犠牲が、生まれたのかもしれない。
 しかし、これは、大失敗に終わった。自分を消すことで、他人が生きるのなら、という考えでは、誰かが、注視してくれれば、ある程度の評価も残るが、今の時代、そんな才能を持つ人は、そうざらには居ない。で、結局、誰からも、顧みられることなく、ただ、無駄なことを繰り返す。犬死とは、流石に言い過ぎだろうが、それに近い状態が、いつまでも続く中で、怒りを爆発させる人も、出てくる訳だ。そうなった途端に、周囲の問題を、取り上げる場合もあるが、それでは、遅すぎるのだ。一方で、こうなった原因の一つは、自身の判断にある。自己犠牲を、優先させた結果が、その崩壊を、招いた訳で、自業自得とも言える訳だ。これが、大失敗に、繋がったとも言えそうだ。では、その後、どんな展開が、始まったのか。自分中心の考え方が、再び、優先されるようになった。そこでは、自己中は、忌み嫌われる対象となり、その代わりに、自己愛が、掲げられることになる。だが、言葉を変えても、結果は同じである。自分の立場からしか、ものを眺められず、多様な見方を、実践することは、困難となった。結果的に、偏った見方しか、できない人間が、社会に溢れ、互いに働き掛けることは、殆ど不可能となった。現状は、それに近い状態にある。その中で、注目される人間の多くは、自分だけでなく、他人の見方を取り入れ、相互関係を築くことに、力を入れている。珍しさは、全くないものの、今の時代は、こんな能力に、注目が集まるらしい。それほど、偏りが強い、ということなのだろう。

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6月28日(木)−自己愛

 自分を愛する人が、増えているらしい。ある年齢を超えると、おそらく、自分を愛する、ということ自体に、理解が苦しめられるだろう。自分を大切にするのは、当然のことであり、それを「愛する」と表現したとしても、何も変わりはない、と思うからだ。
 だが、他人との関係を、良好に保とうとする人が、増え始めた頃から、自己犠牲が、重要な選択として、掲げられてきて、まるで、自分を捨てて、他人を立てることの方が、遥かに重要、と思われる部分が、出てきたようだ。その辺りから、自分を愛するより、他人を愛せ、などと言われ、それを忠実に、守ろうとする人々が、心の不安定に、陥ることが増えた。所詮、無理筋の考え方だけに、こんなことを、続けていても、何も良くならず、却って、悪い点ばかりが、目立つようになる。それに気付いた人は、下らない考えを、さっさと捨てて、自分中心の考え方に、戻っていった。実は、これが重要で、新たに始めたのではなく、戻っただけのことだ。はじめに書いたように、自分を大切にするのが、当たり前の世代にとっては、何の新しさもない、考え方に過ぎない。しかし、一度、自己犠牲に毒された若者にとっては、新鮮で、斬新な考えに、思えたのだろう。新しいものを、好む傾向にある、若者には、それに飛び付く理由は、十分にあった、ということだ。だが、ここで、捨てる前とは、全く違った、自己愛が、表面化したのだ。他人との関係を、捨てて、自分だけを、という考え方で、人間関係を、損なう形のものになった。これでは、相手の立場を考えて、などという思いは、出てくる筈もなく、自分だけの考えを、相手に押し付けることになる。そう考えると、現状が、しっくりとするのではないか。若者達が、自分しか考えられず、相手を無視して、何事も、押し通そうとする。能力が低い、と言われる原因は、こんな所にもありそうだ。

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6月27日(水)−脅迫

 言論界は、恐れを感じただろうか。極端な政治理念に基づき、脅迫を主体とした、圧力によって、言論を抑えようとする動きは、特に、戦前は、盛んに行われ、テロやクーデターとも言える、事件を扇動したこともあった。だが、今回の事件は、まるで様相が違う。
 理念は欠片も無く、単に、個人の誇りが、どう扱われたかで、凶行に走るきっかけが、できたようだ。理念の衝突であれば、経験を活かせるが、個人の恨みや妬みでは、それを鎮める手立ては、思い当たらない。そんな言論人が、ごく当たり前に存在する状況で、この事態が、自分の身に降りかかってきたら、どうしよう、と悩んだ人が居るだろうか。それとも、対岸の火事よろしく、従前通りに、標的に狙いを定め、人格否定を含めた、扱き下ろしを、継続するだけだろうか。何れにしても、現状は、明らかに歪んだ状況にある。批判を徹底し、人格否定に及ぶのは、言論を操る人々に、あるまじき行動だし、それを、激化させることで、人々の注目を集めるのは、人非人の欲望の表れ、というべきものだろう。そんな人々を、面白がって扱い、時に、崇め奉るような社会は、明らかに、正常な状態にあるとは言えず、それを是正しようとする動きが、妨げられるのも、社会が腐った状態にある、という証左だろう。ある意味、自業自得としか言えぬ状況に、騒ぎを、大きくしようとする動きが、見えるようだが、これもまた、自滅への道、と見るべきではないか。言論を尊重する為には、それを慎重に扱う必要があり、互いの立場を尊重しつつ、異論を戦わせることこそ、基本中の基本となる。それを忘れ、一時の怒りから、相手の考えだけでなく、存在をも否定しては、失格としか言えない。被害者が、そうだったとは思わないが、そこに至る道筋に、問題を見出せなければ、恐怖を除くことは、難しいと思う。

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6月26日(火)−言い争い

 嘗て、ネット掲示板が、賑やかだった頃、議論が盛り上がることもあった。見ず知らずの人間を、相手にしての議論は、時に、熱を帯びて、意見の交換より、相手の誹謗中傷に、走ることもあった。子供の罵り合い、としか見えぬ場面も、多かったように思う。
 それでも、オフ会などで、現実世界へと、その戦いの場を、移そうとする人は、居なかった。現実と仮想の違い、と見る向きもあろうが、実際には、ネット上での議論は、仮想のものではなく、現実の一つに違いない。その中で、完膚なきまで叩かれ、敗北を意識した時、暴力を持ち込もうと思う人も、居たかもしれない。ただ、多くは、仮想世界での戦いに留まり、現実に持ち込まれることはなかった。その後、端末からの手軽な意見交換が、身近なものとなるにつれ、ネット掲示板は、その役目を終えたように、静まっていった。今回の事件は、そんな中で起きた、仮想と現実の、狭間での出来事のように、扱われている。ネット上の言動に、注意せよとの警告を、発する人も居るようだが、どうも、的外れに思えて仕方ない。一方的な言動が、交わされる場として、その地位が築かれたが、現実には、意見交換の場として、互いに、持論を展開できる。これに気付かぬ人々が、勝手な言動を、続けられると思い込むのは、その匿名性による、などと言われるが、これもまた、大いなる誤解であり、今や、身を隠すことは、不可能に近い。まして、現実社会で、事件を起こせば、実名を晒し、自らの評判のみか、家族親族へと、悪影響を及ぼすことになる。以前から、こんなことは、言うまでもなく、自明なことと思うが、誤解に基づき、好き勝手に振る舞う人の数は、中々減らない。それだけ、能力が低く、邪悪な心の持ち主が、多いのだろうが、善良な人間が、愚民に付き合う必要はない。どんな場であろうとも、議論をするなら、正当な意見交換を目指すべきで、言葉を武器に戦えばいい。

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6月25日(月)−忘れない

 悪口ばかり、書いていても、仕方がない。という訳でもないが、誰もが発信できる仕組みの、SNSは、悪影響の一つとして、噂や出鱈目が、一度出てくると、何度も繰り返される、という点が、指摘されている。偽情報とかデマとかが、否定しきれず、被害が出るからだ。
 何度も繰り返されるのは、各自の端末に、それが保存され、悪意を持って、再利用されるからだ。他人の意見を、気軽に転用できるのも、脆弱性の一つと見做されている。だが、この機能は、正しく使えば、強力な武器ともなり得る。すぐに忘れるのが、人間の性だが、この機能は、忘れた頃に使えば、思い出させる力となるのだ。先日の地震の時も、崩れた壁の下敷きとなり、失われた命が、紹介されていたが、その原因は、壁の脆弱性にあった。それも、半世紀近く前の、地震による下敷き事故から、厳しく改められた基準が、守られていなかったからで、人災とされるのも、当然のことと言える。だが、その後の展開は、例の如くであり、次々に見出される、問題点を指摘することに、報道は躍起となる。しかし、数年もすれば、すっかり忘れ去られ、何事も無かった如く、基準の順守への、姿勢も薄れ始める。同じ現象は、雑居ビルの火災についても、起きていた。都心の雑居ビルで、消防法に違反する行為が、発覚後も放置され、結果として、多数の死者を出す、火災へと結びついた時、全国で、再点検なるものが、厳しく実施された、と伝えられた。だが、それから暫くすると、また、別の場所で、同じような火災が起き、多数の死者が出た。そこで、再び、同じ指摘がなされるが、この意味は、あるのだろうか。すぐに忘れられ、誰も振り返らないのでは、あの大騒ぎも、無駄となる。報道では、その時の注目度が、最大要因とされ、選別が行われる。それに比べ、個人の感覚に基づく、SNSは、いつまでも忘れずに、掲げ続けるのだ。その利点を、有効に使えないか。

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