事件が起こる度に、繰り返される言葉に、真相解明がある。犯した罪の、重さを決める為に、必要なこと、という点について、異論はないだろう。しかし、犯罪者によっては、何故、それを犯したのかについて、口を噤み、動機を明らかにしない、こともある。
それでは、罪の重さを、客観的に決めることは、できない、となっては、人を裁くことは、不可能になる。だから、別の要素を集め、一部の欠落があるままに、判断することになる。そこに、挙って、声を上げる人々が、居る。これでは、真相が明らかにならない、というのが、彼らの意見だが、だから、どうしたというのか。ここで言う真相とは、事件に関わる、あらゆる情報のことだが、それを知れば、何ができるというのか。よく言われるのは、同じ事件が、二度と起きないように、という点だが、これは正しいのだろうか。一方で、歴史は繰り返す、と言われ、何故、同じ過ちを、何度も繰り返すのか、が論じられるが、もし、これを当てはめれば、真相が明らかになろうとも、何も変わらない、となる。これだけでなく、犯罪において、異常な心理状態だった、という場合も多いと聞く。だとすれば、そこに至る過程の何処かで、立ち止まることができれば、未然に防ぐことができる、という訳だ。だが、その異常さは、尋常なものではなく、犯罪者特有の、心理によるもの、と言えないか。だとしたら、何も学べることはない。真相の多くが、そういう異常によるものなら、知ることには、野次馬的な意味しかない。大量殺人を引き起こした、教団の事件も然り、群衆に向かって、暴走した事件も然り、猛毒を使って、保険金を騙し取った事件も然り、こんな異常に、興味を持つこと自体、自分とは無関係、と信じるからで、彼らに、それらを知る意味は、全く無いだろう。
高齢者の運転に、厳しい批判が、突きつけられる。慮る必要がある、とは思わないが、ここまで、酷い言葉を、浴びせる必要があるのか、と思うことも多い。一方、家族は、周囲の迷惑を思い、何としてでも、止めさせようと、躍起になるが、聞き入れて貰えないようだ。
趣味や娯楽なら、別の対象を差し出せば、手放してくれる、かもしれないが、日々の生活に、必需なもの、となると、事は簡単ではない。買い物は、出かけるには、などと、車が必要な理由は、生活の中に、幾つも落ちている。それに代わる手立てを、思いつかなければ、解決への道は、遠いままとなる。同居もせず、仕事があり、などと、悪条件が出るだけで、解決手段は、一向に見出せない。行政への依頼は、多くが、なしのつぶてとなり、回答があったとしても、無い袖は振れず、となるだけだ。市民が、なんだかんだと、納税を渋り、予算削減や、業務整理を、要求する中で、一部への配慮は、切り捨てざるを得ない、という状況にある。運転免許の問題は、一度取得すれば、簡単な講習で、更新できる為に、加齢による能力低下を、見過ごす所にある、と言われる。最低限の検査をしても、視力の低下に対し、眼鏡等を新調するように、との助言で、終わっており、本人が、不便を感じなければ、高額出費を避けようとする、心持ちは、変えられそうにない。一事が万事、こういう具合で、高齢運転者の問題は、様々な手立てが講じられても、簡単には、解決できそうにない。徐々に、その年齢に近づきつつあるが、更新時期が来たのに、一向に、警察からの葉書が届かず、問い合わせたら、登録住所が間違っていたとの返答に、首を傾げた。手にある免許には、正しい住所が、印刷されており、それが、登録と異なる、ということは、記録が複数あり、それが不一致でも、放置されていたとなる。データを、重複保存することは、確実性を高める為に、不可欠だが、それらの間の不一致を、発見できなければ、元も子もない。役所仕事だからか。
信頼失墜、という言葉が、掲げられる。それ程、影響が大きい、と扱われるが、どのみち、すぐに忘れ去られる、に違いない。何しろ、役人が関わる、贈収賄事件でも、庶民感覚で、納得できるような、金銭の授受ではなく、全く別のものが、授受されたのだから。
世慣れた人々は、金銭の授受に、触れた時に、まず、額の多少に、目が向くだろう。罪を犯すに、値するような、金品を、受け取るのであれば、仕方ないとも思えるが、あんな端た金で、何故、人生を棒に、振ったのだろうか、と。何れにしても、違法行為に変わりなく、罰を受けることになるから、額の多少で、何も変わらないが、それにしても、安過ぎる仕事だ、と。だが、今回の事件は、互いに、地位を利用し、便宜を図った、という意味で、通常とは、異なる様相を、示している。互いに、選ばれるように、便宜を図ったが、その権利を、得る為に、多くの人々が、努力を続ける現状では、まさに、信頼を裏切る行為、と断じられるのが、当然だろう。教育行政が、金銭授受で、便宜を図った不正は、これまでにも、多く報じられてきたが、今回、相手に求めたのは、息子の大学合格だった。これが、双方共に、信頼を失う結果となり、挙って報道されている。役所も企業も、腐敗が止まらぬ、と言われるが、教育機関までもが、同じ毒に侵されている、という事実に、驚く人も居るだろう。では、こんな事態が、次々に起こる原因は、どこにあるのか。俄かには、信じられないだろうが、競争原理にこそ、元凶がある、に違いない。競争を当然と見做す、文化や社会が、構築された国と違い、この国は、そんなものを、不要とする文化が、根付いてきた。そこに、愚かな政策が、無い袖を、露骨に見せつつ、奪い合いを、強いてきた。その結果が、この事件が起きた、土壌を、作ったという訳だ。機会均等が、上辺だけなのも、この競争の特徴だろう。
貢献は、特別なことなのか。志願することで、社会貢献に、乗り出そうとする人の数は、近年、爆発的に増えている。自らが、被災者となってしまった人が、別の土地で起きた災害に対し、恩返しの意味を込めて、復興支援に出かける話は、美談として語られる。
本来は、志願することが、基本だが、それだけでは、貢献に不十分となれば、動員もあり得る。役所に勤める人の多くは、その形で、駆り出されるが、これとて、貢献であることに、何も変わりはない。ただ、自主的なものでないと、何かしらの見返りを求める、ということもあり得る。では、何が、交換条件となるか。休日の貢献であれば、代休を確保するのは、一つだろうが、普段の労働とは異なる、重いものとなれば、休みだけでは、という思いも過るだろう。一方、本来業務における、休日出勤との差別化から、別の見返りを、与える場合もある。その分を、給与に上乗せするのは、解り易い報酬だが、一時金では、満足しない人も居るらしい。評価なるものが、職場で数値化されていれば、そちらへの加算を、求める声が高まる。たとえ、それが直接的に、地位や報酬に、反映されなくとも、何かしらの形で、残すことができれば、それでも十分、という声もある。確かに、そういった報酬の一種を、伴うことが、貢献への動機となる場合もある。だが、そんな人だけだったら、おそらく、業務外の貢献は、殆ど成立しないのでは、ないだろうか。求める人は、一つ満たされれば、次を、と求め続ける。それが、たとえ、動機になるにしても、志願も含めた貢献とは、どこか、筋が違うものに見える。これが、他人を動かす為、という場合も、不純な動機に、思えてくるのだ。
賞に掲げられた、回数を眺めて、意外に思った人も、多いと思う。二つの賞が、授けられるのは、年に二回、と決まっているからだ。それ程頻繁に、優れた作品を、世に出そうとする動きは、ジリ貧を脱しようと、始められたのではなく、まさに、人気絶頂の時代だった。
その後、様々な変遷が、あったとはいえ、今でも、二つ共に、耳目を集めるのは、その地位を保つ為に、多くの人が、努力しているからだろう。単に、出版界のお祭り、というだけでなく、読者の購買意欲を、掻立てるのは、その選考過程が、明確にされるからで、登竜門となるものと、確固たる地位を築くものの、二つが、並んでいることも、影響を、大きくしている。小説家でもあり、経営者でもあった人物が、考え出した仕組みに、先見の明、を感じる人も多いだろう。年に二回の騒動に、興味を持たない人でも、紙面の片隅に、掲げられた結果が、目に入ることもあるだろう。一方で、読書家の中には、受賞作を、必ず読もうとする人も居て、依然として、強い人気を誇っている。とは言え、選者の多くを、評価せず、自分も選びたい、という気持ちが、現れている賞も、姿を見せ始め、全体の様相は、徐々に変化している。だが、候補作として、選ばれるだけでも、名誉と感じる人は多く、何度も、その地位を手に入れながら、受賞は手に入らず、落胆を続ける人も居る。だが、新人の登竜門であれば、それを繰り返せるのは、数年しかないのだから、大切な機会となる。しかし、著述において、最近、話題となっている、盗作や剽窃は、忌み嫌われる行為である。先日の候補作の中に、そんな指摘があったらしいが、作者は、まさに、天国から地獄への、転落と感じたのではないか。結局、件の作の出版社は、不正は軽微なもの、との判断を下したようだが、ケチがついたことに、変わりはない。候補とならねば、次作への期待もあったろうが、これでは、逆効果となってしまう。作者の才能が、どれ程のものかにも寄ろうが、ケチはケチとなるものだ。
いかに学ぶか、について、議論が絶えることはない。成果を得る為に、重要な手段として、評価が集まるからだが、どうも、的外れに思えることが、多過ぎるようだ。ここでいう成果とは、良い成績であり、良い進学先なのだが、これもまた、誤ったものではないか。
手近な目標、という点では、成績や進学先は、確かなものに違いない。しかし、学ぶことの目標は、そんな卑近なものではなく、人生の目標、とすべきなのではないか。と言っても、学びに集中する年代に、人生を、考える暇は、殆ど無い。だから、手近なものを、引き合いに出し、それを目指させるのだ。そうすれば、日々、成果が上げられ、目標達成が、次の意欲を、引き出す糧となる。これが、好循環を産み、階段を上がるが如く、より良い状況を、手に入れられる、となれば、成果が上がった、と言える、ことになっている。だが、こんな段階を経て、社会に出てきた人々は、いざ、次の目標を、探そうとしても、そこには、何も無い状況に陥る。手近なものが、あるとすれば、それは、営業成績であり、製品開発となるが、数字に表れるものを除くと、明確な目標を、設定することは、難しくなる。営業職であれば、まだ、幸いと言うべきで、開発職に就くと、そんな可能性さえ、失われた気分になる。日々の学びが、成果を産み出せず、見えぬ目標に向かい、意欲を保つことは、それまでのやり方では、かなり難しいものとなる。その結果、時に、意欲を失い、目標を見出せず、その場に、立ち尽くす気分を、味わさせられる。それが、精神的な不安定へと、結びつけば、別の問題が、起き始める。学びについて、多くの人は、こんな経過を辿りつつ、別の方式へと、徐々に、転換していくものだが、一部には、そういう乗り換えに、躊躇することで、乗り遅れたり、逃したりする人が居る。彼らの多くは、悩みに沈み、二度と浮かんで来ない。折角築き上げたものも、全て失われてしまう。
作業を進める為に、様々な仮定を、検討してみる。分かれ道を設定し、それぞれを進んだ場合に、起こり得ることを、検討した上で、最善の選択を、試みる訳だ。簡単な失敗を避ける手立てとして、色々な場面で、使われており、有用な方法として、評価されている。
別の言い方では、作業仮説、と呼ばれるが、仮の説明を施し、それぞれを、検討することで、選択の幅を狭めたり、最善策を講じたりする。人によっては、そんな必要はない、と思うだろうが、作業を進める中で、選択を迫られると、時間的な余裕がなく、十分な検討もせずに、決断することで、敗着を犯す場合も、多くなる。それを避ける為の手段で、成功に繋がるだけでなく、検討を繰り返すことで、行うべき作業について、より詳細に理解を進めることも可能となる。いいこと尽くめ、と思われるが、肝心の仮定が、十分に練られていないと、失敗の兆しに、気付かぬことが多い。時間を与えられても、偏った考えに囚われ、それに拘ることで、失敗を犯した人は、実際には、非常に多い筈だ。昨日の話は、それに似て、自動運転の仕組みで、信号無視をして、横断してきた歩行者家族に、面した時に、避ける行動をするかどうかを、検討させていた。ところが、そこに持ち込まれた仮定は、明らかな誤謬に、基づいたものだったのだ。本来、こういう場面の設定では、運転者の安全を最優先する。それを覆そうと、白熱教室の教授は、道徳観を引き合いに出し、家族の死に繋がる仮定を、設定していた。普通に考えれば、死は、あくまでも結果であり、道徳観は、結果に対して、持ち出されるものだ。一方で、運転の設定は、結果の前にある、確率を検討するものであり、危険性の度合いを、計った上で、行われるものだ。倫理や道徳などの、社会通念を、検討させようとする話に、卑近な例えを、持ち込もうとした結果、こんな矛盾を、作り出すこととなった。これでは、議論の対象にならず、ただ、受講生達に、過度の心理的圧迫を、与えるだけになっていた。とはいえ、そんなことを、見抜けぬままに、盛んに議論する連中には、別の思いも過ぎったが。