パンチの独り言

(7月9日〜7月15日)
(知る権利、災害の時代、ハズレ、呼ばわり、過信、鵜呑み、相違点)



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7月15日(日)−相違点

 今回の水害で、ふと、疑問に思ったことがある。犠牲者に、老人が多いのは、いつもの災害と、変わりないように思えるが、その大部分が、施設に暮らしていたという、過去の事例に比べ、今回は、施設の被害、とは報道されていない。どこが、違うというのだろうか。
 老人子供は、水害をはじめとする、災害において、被害者となることが多い。体力が劣るだけでなく、判断力も鈍ってしまった老人も、親に依存する子供も、自分の力で、避難することが難しいだけでなく、それをすべきとの、判断さえも、難しい状況にある。だから、明らかな弱者として、保護されるべき存在なのだが、災害が起きつつある、非常事態においては、後回しにされかねない。今回の水害では、独居老人に、被害が集中していたと伝えられるが、たとえ、周囲が、配慮していたとしても、全てを救出することは、物理的に不可能とされる。それでも、一箇所に集めていれば、もっと効率的に、対処できた筈だ、と考える人が居るかもしれないが、これまでの水害では、まさに、そのような施設に、被害が集中していた。そこには、効率とは違う、別の要素が、潜んでいた。施設の立地条件は、災害に遭うまで、論じられることが少なく、毎度お馴染みと言われても、劣悪な条件を、呑むしかない状況では、避けることは難しい。今回、そういう事例を、耳にすることがなかったのは、どんな原因があるのか、現時点ではわからないし、まだ、話題にさえ上らない状況では、多分、そんなことが、引き合いに出されることも、ないだろう。弱者保護を、声高に訴える人の多くが、こういう、本来の弱者に、目を向けず、仕立て上げた「似非弱者」を、担ぎ上げることに、躍起になるようでは、こういう本質的な問題は、解決に向かう筈もない。

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7月14日(土)−鵜呑み

 何故、鵜呑みにするのか。この謎を、解くのは、それ程には難しくない。受け手の問題だからだ。何事も、信じ込む性質で、その真偽を確かめることなく、飲み込むからなのだ。ただ、ここには、もう一つ、重要な要因がある。それは、鵜呑みにさせる、情報提供の手段にある。
 科学に対する信頼についても、様々に取り上げられるが、煮え切らない話しぶりに、苛立ちを覚える人が、最近は多い。それは、つまり、何事も、断定的に、伝えてくれることを、望んでいるからだ。あの可能性も、この可能性もある。とされては、こちらが判断せねばならず、面倒を感じるという訳だ。だが、どちらが、事実や、実情を、表しているかと問えば、それは、あらゆる可能性を示す、方にある。それが、好まれないからと、何事も、断定しようとすれば、時に、過ちを犯すことがある。それでも、信じ込み、鵜呑みにする人々からは、分かり易い方が、優先されて、一つや二つの間違いは、大目に見ようとする。これ自体が、大きな間違いであることは、明白なのだが、分かり易さを、優先する風潮は、改められることはない。間違った理解は、判断を誤ることへと繋がるが、それさえ、平然と見過ごすのだ。ここでも、本来なら、誤った判断の責任を、感じるべきなのだが、その責任を、分かり易い説明に、押し付けることで、自分は、何も悪くない、と結論付ける。何とも身勝手な判断だが、これが、当然のものと扱われ、保身に徹する人間は、安泰を続ける。しかし、それが、死に繋がる判断だと、何もならないこととなる。そうならない為にも、様々に情報を集め、それを元に、判断することを、繰り返していれば、本当の安泰となるだろう。情報不足の中で、断定を繰り返し、誤った道筋を、進み続ける人は、安易な選択を、続けていることに、気付くことはない。これが、鵜呑みの実態だろう。

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7月13日(金)−過信

 科学に対する、信頼ということについて、考える機会ではないか。災害が起こる度に、被害を抑える為に、様々に、科学的知識が、活用される。これ自体は、自分の命を守る為にも、重要なことの一つだから、信じて行う、ということが、必要となる。役に立っているのだ。
 だが、一方で、災害の後に、何故、そんなことが起きたのか、についての説明が、科学的な分析を基に、施される。こちらについては、一部に過ぎないかもしれないが、言い訳のように、響くことがある。ここでは、何故起きたのか、を論じているように見えて、被害に遭った人も、そうでない人も、何故、それに気付けなかったのか、という思いを交えて、説明に耳を傾けることが多い。特に、科学に信頼を寄せる程に、この傾向が強くなり、何故、事前に教えてくれなかったのか、という思いが、強まってくる。ただ、ここには、大きな誤解がある。科学は、確かに、学問的に、物事を突き詰めて考え、その真理を追究するものだが、明らかになるまでは、所詮、分析後に説明する、程度のものに過ぎないことだ。それを、今も、多くの科学者が、実践しているが、その過程で、恰も、全てが明らかになったかの如く、語ってしまう人が、多い点に問題がある。その事例に対して、どんなことが起きたかを、調べることによって、明らかになった事実があったとしても、同じ事実が、常に同じ結果を招くかの検証は、全く行われていない。ここでの説明は、そういう意味で、後付けの説明に過ぎず、また、予知や予想に、向けられたものではない。にも拘わらず、科学の価値を、強調しようとする人々からは、違う形の表現が、繰り返されるのだ。煮え切らない説明に、終始していた、原発事故後の状況に比べると、いかにも、信頼を勝ち得そうな状況だが、これはこれで、誤解に過ぎず、また、批判の対象となりそうだ。

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7月12日(木)−呼ばわり

 これ程頻繁に、それも、無配慮に、使われ続けると、そろそろ、不快に感じる人も、増えているのではないか。独り言でも、度々取り上げるが、「弱者」という言葉は、何か、特別な配慮を、表そうとする、思惑が見え隠れし、時に、差別に似た感覚さえ、覚えることがある。
 保護の対象として、ある括りを設けて、一部の人々に、光を当てる。時には、少数派を、際立たせることで、注目を集め、その意識を、根付かせようとの効果を狙う。だが、その一方で、明らかな差別が、仕向けられていることに、気付かぬ人が多い。彼らの多くは、弱者を口にすることで、自らの配慮を、表明している、と思い込むが、現実には、正反対の影響を、及ぼしている。弱者に寄り添うように、見せようとするが、実際には、相手を、下に置くことで、自分の優位性を、保とうとする。人権に関する、話題が巷に溢れるようになり、強弱の違いを、明確にすることで、擁護という感覚を、意識する訳だが、それが、現実には、差別を生じることに、全く気付かない。傲慢な心に、芽生える、保護という思いは、その多くが、身勝手なものに過ぎず、保護より、差別化が、心を占めているのだ。だが、風潮では、こういう人々が、暖かな人であり、その思いから生まれる、態度には、人間性が感じられる、と言われる。現実には、真っ黒な心から、勝手な都合で出てきた、考えに過ぎずとも、世間は、歓迎することになる。先日も、豪雨による災害を、防ぐ手立てとして、SNSを用いる話が、例の如く、禍々しく語られていたが、そこで、問題視されたのは、情報弱者、と呼ばれる人々だ。端末を、自在に使えず、時に、所有さえしていない状況を、表したものらしいが、ほっといてくれ、と思う人も、多いだろう。公共的な情報伝達では、以前から、防災無線などが、使われてきたが、問題山積と言われ、それに代わる仕組みとして、十分に普及した端末を、利用しようという訳だ。だが、依然として、そんなものには関心がなく、無用の長物など、手にしたくない人も多い。勝手に、彼らを、「弱者」と呼ぶ連中には、傲慢さしか、感じられないのだ。

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7月11日(水)−ハズレ

 選択と集中、袖が短くなるにつれ、こんな政策が、好まれるようになった。潤沢な予算が、あろうがなかろうが、先行きが明らかなものであれば、当然の方策だが、全てに、適用できると思い込んだのが、間違いの始まりだろう。言葉は悪いが、博打に似たものには、不向きなのだ。
 どうなるのか、先行きが見えぬ中では、どれも可能性があり、無理に選ぶことは、外れ籤を、引くことに繋がる。折角、選んだのに、それが、期待に反して、成果を上げられないと、選ぶ側が、責任を負わされる。博打は、一発、大きな当たりを求める場合に、よく使われるから、この事例の場合には、当てはまらないかもしれないが、兎に角、全体に、満遍なく、ばら撒くことにこそ、意味が出てくる。だが、一度、選択に味を占めると、ばら撒きは、出鱈目に思え、その責任を、負わされるように、思えてくる。ところが、選択により、折角の当たり籤を、外した時の方が、遥かに明確な、責任が出てくることに、この類の人々は、気付けない。それほど、能力が低下したのも、選択する立場に、居座ることで、権限を手にしたと、思い込むことに、原因の殆どがある。能力の無い人ほど、その権利を振り翳し、強権的な行動に出る。これが続けば、まるで、権力を手にした、気分を味わえ、それが、実際に、誤った判断さえ、押し通す行動へと、繋がるのだ。これが長く続き、ばら撒きとは全く異なる、誤った選択と集中が、繰り返されたことで、空振りが続いたことが、現時点の批判に、繋がっているのだが、その根本的な欠陥に、誰も目を向けない。これは、選択が、条件の一つとされ、それを経ないと、何事も始まらない、とされるからだ。無能な人間が、蠢く世界では、無駄金の、ばら撒きが続く。今こそ、本来の、ばら撒きに立ち返り、小さな可能性も、逃さぬ努力が、必要なのだ。

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7月10日(火)−災害の時代

 繁栄下の、拡大政策から、戦争へと突き進み、敗戦後は、どん底を味わった上で、高度成長へと、結び付く。激動の時代、と称された年号は、手短に言えば、こんな流れだったのだろう。一つ欠けているとすれば、それは、成長の涯に、膨らんだ経済が、弾け飛んだことだ。
 まさに、そこで、崩御により、年号が変わった。では、次に来た年号は、どんな時代と呼ばれるのか。生前退位を、表明する中で、そろそろ、そういったまとめが、始められようとしている。誰もが思い浮かべるのは、災害の時代、という呼称ではないか。今も、「最悪」という言葉が、紙面を賑わしているが、各地で起きた水害は、数え切れぬ程あり、被害の大きさも、様々だった。その中で、今回のものは、広範囲に及び、各地で、死者不明者の数が、増え続けている。それだけでなく、大震災も、二つ起きたとくれば、この呼び名が、当てはまっている、となるだろう。退位を決意された、原因の一つに、災害地の訪問という、重い役目のことが、あると言われるが、まさに、途切れることなく起きる、災害と、それを忘れぬように、と願う住民に、寄り添う形での存在は、国民各自が、思うより、遥かに重い負担を、課せられている、と言えるのかもしれない。歴史は繰り返す、と言われるものの、これ程、同じような被害が、繰り返されることに、被害に遭わなかった人々は、首を傾げるに違いない。歴史に学ぶとは、同じことを、繰り返さないことを、表しているが、現実には、たとえ学んだとしても、別の事柄に過ぎず、目の前で起きつつあることは、それとは違う、という考えが、頭を過るという。その結果、自分は違う、という思いが、学んだ筈の事柄を、頭から追い出すことになる。まさかとか、そんな筈はないとか、こんな思いが過り、経験が活かされない。結局、生き延びる術は、何事にも、危険を感じる心に、あるのだろう。

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7月9日(月)−知る権利

 事件の真相解明、という話題が、論じられる中で、海の向こうからやってきた、プロファイリング、を引き合いに出す、人達が居る。犯罪の傾向から、犯人の特徴を、炙り出す方法で、データ解析の一種、と見做されている。真相は、その為に必要、という訳だ。
 確かに、全てが、情報解析に使われるなら、より詳細に渡る、分析も可能となる。だが、異常な事件の、異常な心理までも、そのリストに、加える必要があるのか。その点に、議論が及ぶことは、殆ど無い。情報解析に関わる人々は、全てを収集することに、全力を挙げるからで、一つでも、漏れていることで、解析の欠陥が、露呈するのではないか、という恐れを抱く。だが、ここで重要となるのは、何かが不足することで、結果が、どう左右されるのか、という分析であり、そこに、力を入れる必要がある。ところが、それより、全てを、という要求が、優先される状況にある。確かに、足らない状況を、想定することは、無駄に思えるかもしれないが、科学的な立場から言えば、全てが明らかになる、という状況は、達成不可能なものであり、得られた中で、如何に全力を尽くすのか、にこそ、問題があるとなる。人間が関わるものには、そういう状況を、当てはめることが少なく、兎に角、努力を重ねれば、全てを、引き出せると信じているようだ。でも、自身のことを含め、人間のやることに、完璧はあり得ない。特に、その場の心理状態、などという代物は、その後の展開で、どうにでも、変化し易いものと言われる。だとしたら、そんな危ういものに、頼らねばならない状況を、避ける手立てを講じる必要がある。ここまでは、真相究明、と呼ばれる動きに、加担する、一部の考えに対する、反論だが、やはり、一番肝心となるのは、野次馬根性への、断固たる姿勢なのではないか。知りたいから、は、理由にはならないのだから。

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