パンチの独り言

(7月16日〜7月22日)
(独り善がり、独裁化、前言撤回、注目度、恥知らず、騙り部、文字)



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7月22日(日)−文字

 文明において、発展の起点となったのは、何だろうか。様々な意見が、あるだろうが、歴史を学ぶ中で、必ず取り上げられるのは、文字の発明だ。言葉の発明は、ずっと以前にあり、意思疎通においては、それで十分と、考えられた時代もあったろう。しかし、足らない部分があった。
 この国でも、大昔、国の歴史を伝える為に、口伝が用いられ、記憶力の優れた人々が、その任に当たっていた。記録でなく、記憶に頼る場合、何かのきっかけで、変わったものは、元には戻らない。これは、伝言の遊びを、思い出せば、すぐに分かることだ。それを防ぐ為に、当時は、おそらく、複数人による口伝で、誤りを減らす工夫が、なされていたのだろう。しかし、それでも、多くの史実が、失われたのではないか。海の向こうから、文字が伝えられ、それを用いることで、記録を始めたから、その後は、間違いが減ったと言われるが、それでも、写し違いなど、人為的な間違いは、何度も起きたに違いない。何れにしても、口伝に比べれば、書物による伝承は、遥かに、正確なものだと言える。これほど、明白なことでも、まるで、心に染み付いたかの如く、口伝えを、絶対のもののように、扱おうとする。今更、検証するまでもなく、誤りが増えるのは、当然のことだし、徐々に、数が減り続ける、経験者によるものとなれば、偏りは、それに従い、増え続けて、最後には、全く異なるものが、事実だったかのように、残されることになる。こうなってから、慌てて、記録を始めても、時既に遅し、である。何故、いつまでも、こんなに不確かな、生き証人に頼るのか。このまま行けば、個人批判が、強まるばかりで、社会の歪みは、是正されそうにない。さっさと、口伝を忘れ、文書による記録に、励むべきだろう。手遅れとなっては、事実を語ることは、不可能になるのだから。

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7月21日(土)−騙り部

 語り部の高齢化が、問題となっている。という報道に、違和感を抱かないのか。歪曲が、極まる度に、そんな思いを、抱くのだが、社会は、全く異なる感覚を、持っているらしい。この背景には、経験者だからこそ、語れることがある、という思い込みがあるのだが。
 皆が、同等に発言できる、機会が与えられ、貧富などの差別なしに、意見を発することが、できるようになった。ありがたい時代、とも言えるが、一方で、他人の意見に対し、誹謗中傷にも似た、批判が集中することも、急激な勢いで、増えている。その論法の一つに、経験してないのに、何を偉そうに、というものがあり、根拠として、経験者の語り部こそが、真実を語る権利がある、という考えがある。だが、慰安婦問題や、虐殺事件などの、経験者たる人間が、語った話は、まさに騙りであり、事実の歪曲を、身勝手な考えに基づき、施したものが、持て囃されることで、更に、極端に走った結果となる。経験者と雖も、記憶の確かさは、人それぞれであり、各自の経験からも、意図的な歪曲が、無意識の定着となることが、明らかではないか。それを、偉そうに、ではないものの、皆が、奉ることで、事実ではないことまで、語り伝えることになる。個人の感覚は、確かに重要な部分もあろうが、それが、歪曲の原因となり、客観ではなく、主観に基づき、勝手な解釈さえ、許されるとなれば、事実を伝える目的は、達成できなくなる。何故、文書として残し、それを伝えようとしないのか、不思議に思う。未だに、その存在を、尊重しようとする、風潮に関しては、明白な過ちであると、強調すべきだろう。最近も、特攻兵の話が、実しやかに、伝えられていたが、個人的見解に過ぎず、誤謬に溢れた意見でしかない。こんなものを、後生大事に、抱えようとする、語り部制度に対し、異論を、突き付けるべきだ。

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7月20日(金)−恥知らず

 無責任な発言。この問題が、急激に拡大している。責任ある立場からのものは、言うまでもなく、何の責任も、負っていない筈の、一介の庶民までもが、勝手な発言を繰り返す。高度成長期に、取り沙汰されていた、無責任男の、再来とでも言うのか。早晩、崩れ始めそうだ。
 ああ言えば〇〇、と言われた、新興宗教の代表者の、言いたい放題は、まさに、時代を映し出すもの、となっていた。責任を、果たすべき人々が、他人に、責任を押し付け、逃げ回ることで、業績不振や、政策失敗の、原因さえも、不鮮明にすることが続き、責任さえも、持たせてもらえぬ、庶民達の不満は、嘗てない程に、高まる中、言質を取られようとも、その責任さえ、棚に上げるような、発言を繰り返す人物は、一時、人気が集まったようだ。だが、所詮、嘘の上塗りに過ぎず、検証せずとも、無責任の極み、と断じることができた。それに似た、状況にあるとの指摘に、成る程、と思ったのが、海の向こうの大統領の、勝手気儘な、無責任発言と、前言撤回に関する話題である。言い間違えた、などと、その場でなく、相手の居ない場所で、訂正するのは、明らかに、相手への配慮からの、発言に違いなく、独立機関の、仕事に口出しするのは、任命権を有する立場として、あるまじき行為である。前者は、肝っ玉の座らぬ、小心者の発言、としか思えぬもので、後者は、その失着を、誤魔化す為のもの、との指摘は、まさに、独裁的な経営者の、得意技とも言えるものだろう。こんな茶番を、繰り返すのは、無責任の極みであり、世界最大の国を、操る力を、有する人間の、やることではない。こんな当然を、受け入れる気配さえなく、相変わらず、手にした端末からの、発信を、自慰行為のように、続ける人間に、いつまで、付き合わねばならないのか、無責任になれぬ人には、辛い時なのだろう。

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7月19日(木)−注目度

 話題性の高いものを、選択した結果、日の当たらないものが、出てくるのは止むを得ない。だが、情報化社会の常として、話題性の有無が、その後の展開に、響くとなれば、誰もが、注目を集めたいと願う。当然の権利を、手に入れる為の手立てとして、注目度が、重要となる。
 朗報であれば、誰もが、諸手を挙げて、賛成することだろうが、この手の問題が、生じているのは、明らかに、悪い知らせである。被害の大きさを、競い合うような、注目度争いは、被害に遭った人々への、同情に似た感情を、起こさせることから始まる。しかし、他人の窮地を、眺めることは、必ずしも、楽しいことではない。大きな損害を、殊更に強調する風潮では、こんな光景は、ごく当たり前のものに、過ぎないのだが、被災者達に、寄り添おうとする人々の心には、大きな傷を残すこともある。それが、次に降ってくる、災害から、身を守る為の、情報を与えるのだから、と言われても、これ程強い印象を、受ける必要はない、と思う。一方で、競い合いは、情報の露出度へと、転換されるが、こちらについても、以前のように、公共電波に乗せることが、唯一の手段であったのと違い、今は、各自が、独自の道筋で、露出を心掛ける場合が、増えている。その仕組みに、自分も参加している、との自覚を持てば、手を貸してやろう、という気も起こり、賛成票を投じたり、改めて、自分の世界の中で、取り上げることとなる。これにより、注目度を増せば、投稿者の思惑は、達成されたとなり、それが、支援へと結び付くから、良いことずくめ、に思えてくる。しかし、この戦いは、それ程単純なものでは、ないらしい。推すことに、躍起になれば、他を、引き摺り下ろすことに、繋がることもある。被害の大きさを、競い合うことには、何の意味もなく、それが、過熱化すれば、別の問題が、生じるだろう。所詮、欲求の表れに過ぎず、何の意味も持たないのに。

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7月18日(水)−前言撤回

 ある意味、勝手なものだと思う。供給電力が、ある政策的な理由から、制限を受け、それを克服する為に、節電対策を、大々的に講じてきた。ところが、それが、命の危険へと、結びつけられた途端に、それまでの厳しい制限は、いとも容易く、取り除かれてしまった。
 命より、大切なものはない。との意見も、こういう機会に、よく聞こえてくるが、果たして、どうだろうか。本当に、電力需給が、崩れてしまい、各地で、停電が起きたとしたら、次は、どんなことが起きるのか。心配性、と揶揄されるかもしれないが、元々、そういう意味で、節電を主張していたのだ。突然、供給が止められ、命の危険に、晒されたとしたら、それは、重大な事故となる。だから、未然に防ぐことが、最優先とされ、厳しい制限が、設けられていた。設定温度の調節も、不快と感じる点を、境目として、行ってきたが、命の危険が、問われ始めた途端に、別の表現が、使われ始める。これを身勝手と呼ばずに、居られようか。命より大切なものはない、という趣旨で、犯罪者の釈放を、決断した宰相は、その後、大事件が起きた時に、厳しい批判に晒された。それでも、その決断は、間違っていない、との姿勢を崩さず、別の責任を、取る考えさえある、とも伝えられたが、政治家の責任感には、特殊な事情が、絡むようだ。では、今回の熱波の中の、遣り取りに関しては、どうだろうか。無能な政治家が、暴言を吐くまでもなく、社会全体に、勝手な発言が、繰り返される。物事の軽重には、どこに基準を置くか、という問題が、常に付きまとう。だから、昨日と今日で、正反対の扱いをしたとしても、それは、仕方ないこと、と片付けられるが、この傾向は、節電に限らず、世間全般に、広がり続けている。自分中心の考えが、罷り通る中では、それが常識を逸脱しようとも、何の問題もない、という訳だ。

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7月17日(火)−独裁化

 国名に、人民とか民主とかが、入っている国に、独裁国家が多いのは、何故だろうか。謳い文句を、並べることで、実態を誤魔化そう、という意図が、入っているのだろうか。それとも、基本的には、それを目指す形で、実態が、大きく乖離してしまった、結果なのだろうか。
 こんな意見が、民主主義国家から、独裁国家に、突き付けられていたのは、昔のことかもしれない。今、人々の力が、発揮されることで、支えられている国家でさえ、独裁に向かって、邁進しているように見える。選ばれし者達の、選挙という、形式的な手続きで、独裁を確立しようとする、国家に関しては、議論の余地さえなく、身勝手な振る舞いが、国際社会でも、目に余る程になりつつあるが、一度築いた、経済的優位は、あらゆることが、思い通りになる事態を、築きつつある。一方、社会とか共産とか、そういう言葉を捨てて、民主主義に、鞍替えしたように見える国家も、名ばかりの選挙で、国全体を誤魔化すことで、独裁体制を、完成させつつある。自由な社会が、手に入ったと思ったのも束の間、今や、独裁体制を、確実なものとする為に、圧政が、実施されていると、国の内外から、批判がぶつけられる。こんな騒動を、対岸の火事と見ていた、自由国家の代表でさえ、愚かな国民が、目先の利益ばかりを、追い求め、そこに、魅力的な政策として、極端な振る舞いを、誇示する候補へ、期待を向けた結果、まさに、独裁へと、向かい始める事態を、見せ始めてきた。こんなことを書いても、杞憂と、一笑に付されるだろうが、客観的に眺めれば、まさに、独裁的な言動が、続いており、このままだと、自らの地位を、確保する為の、協力体制を、築き始めるのではないか。ここまで来ると、現状維持を目指しても、体制の転換を、妨げることが、難しくなりそうだ。となれば、各国が、大きな力を使い、独裁者の排除を、目指さぬ限り、この傾きを、戻すことができなくなる。大戦への突入が、起きた時代の、再来になりかねない。

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7月16日(月)−独り善がり

 お手軽な発信装置、無名な人々にとっては、絶好の機会を与えるもののようだが、高い地位にある人にとっては、負の面の方が、目立っている。海の向こうの大統領は、就任以前から、独善的な発言の場として、大いに活用していたが、最高の地位を得ても、依然として続けている。
 だが、その効果は、どれ程のものか。負の影響は、大いに発揮されているが、それにより、利益が得られる雰囲気は、全く感じられない。先の選挙では、公務に携わる人間の、メール交換による、情報漏洩が、重大な違反と、攻撃手段として、用いられていたが、では、はじめから、公に向けての発言には、その懸念は、感じられないのだろうか。国家機密に関する、情報漏洩は、諜報活動にのみ、関係するものではない。国家の頂点に、君臨する人間とて、情報の管理は、厳しく制限される。それを、習慣化したことだからと、勝手な振る舞いが、許される筈はないのだ。独善的な性格からして、誰かの検閲を、通しているものと思えず、勝手なものとの解釈だけが、一人歩きしている。海のこちら側は、そんな深刻な話題ではないが、愚かさばかり、目立つ行動が、横行している。今まさに、災害が起きる最中に、飲み食いの騒ぎを、起こしていたことが、この便利な発信装置により、世界中を駆け巡った。と言っても、彼らの愚鈍振りは、今更指摘するまでもなく、国外では、殆ど問題視されず、他国からの信頼は、既に、失われたとも見える。一方で、国内は、どれ程に愚かでも、弱みを握ろうと、躍起になる人々から、痛烈な批判を受け続ける。漏らした人間への批判が、仲間内では、高まっているだろうが、外からの批判は、そこではなく、騒ぎにこそ、向けられている。所詮、その程度の劣悪な人間を、自分が選んでしまった、とばかりに、反省するならまだしも、今回の批判は、ただ、的に当てたい、という気持ちからのものだ。いつもの如く、早晩、忘れ去られるのだろう。

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