何度も書いてきたことを、今更のように、大事のように、取り上げている。劣悪化した、報道の特徴の一つだが、数多ある深刻な問題に、突然気付いたかの如く、取り上げるのだが、問題の本質に、迫ることができないままに、鶏のように、三歩進んだら、忘れ去ってしまう。
次に、思い出した時には、以前のことを、思い出すことなく、初めて気付いた、という態度に出る。これを、何度も、繰り返すだけで、一時の騒ぎを、大きくする。大切なことは、問題の解決なのだが、掘り下げることなく、繰り返される愚行では、問題点の本質も、その解決方法も、見出せる筈もない。これが、庶民が抱える問題なら、非論理的で、感情的な問題として、切り捨てることも、できるだろうが、国の存亡に関わる問題として、大きく取り上げるとなれば、論理的な分析こそが、優先されるべきだろう。しかし、そうなっていないことは、上辺しか捉えない、報道の主旨から、すぐに分かることだ。長年に渡り、問題点を指摘してきた人間には、今更という点だけでなく、今だに、的外れな指摘を、繰り返す姿勢に、呆れるばかりだろう。研究の質も量も、激減しているとの指摘に、実は、実情把握が、全然できていないとの指摘が、返されることはない。新興国の、ゴミのような研究の数々が、急増することで、分母が変化した事が、こちらの状況を示す、割合にも、影響することに、気付かぬ程の無能ぶりに、呆れたとしても、報道への影響はない。その一方で、諸悪の根源の如く、選択と集中に、批判を集める姿勢も、何をすべきか、という肝心な点に、目が向かないことに、呆れるだけとなる。批判の多くは、実は、別の選択と集中を、したいだけの人々からのもので、根本解決に程遠く、耳を傾ける価値もない。選択も、集中も、やめるべきで、バラマキこそが、唯一の解決策だが、それに気付くだけの能力も、それを訴えるだけの勇気も、ないのだから。
刑の執行が、行われた。大臣によっては、在任期間に、一度も行わないらしいが、今回は、数から言えば、かなり例外的ではないか。四半世紀ほど前に、起きた事件の犯人達は、その後の裁判が、総じて長くかかったが、極刑を望む世論に、後押しされた判決が出た。
だが、世論からのみでは、感情論にしかならない。人の罪の重さを、測る手立てには、様々な方法があるが、特に、人の命を奪う行為には、その意思の有無と、行為の残忍さが、判断の基準となる。特に、団体組織による、大量殺人という、特異な事件だっただけに、それまでの、単独、あるいは、複数といえども、数人による犯行とは異なり、役割分担も含め、様々な要素が、入り混じった、複雑な様相を呈していた。だが、裁判の結果は、主要な犯人の、ほぼ全てが、同じ極刑とされ、今回、二度に分けられたとはいえ、集中的に執行された。この点も、興味を引く事柄だったらしく、多くの人々が、意見を述べている。それは、庶民といえども、同じ状況にあり、同じ扱いに対して、異論を唱える人もいるらしい。実行犯にも、様々な違いがあるらしく、死者の数の違いを、その一つと、捉える向きもある。だが、同じ毒物を用い、集団の中で、実行した点からすれば、結果の異なりは、大した意味を持たない、と言うべきだろう。指示された通りに、実行に移したとしても、そこに巧拙の違いがあり、結果の違いに結びついた、と言われる。だが、意識の点からすれば、予想された結果は、同じであり、犯行の心理として、何の違いもなかっただろう。となれば、同じ刑を、言い渡されたとしても、何の不思議もない。また、全てに対し、命令を下した人物との、違いについて、論じる人もいるが、こちらも、極刑に値する、罪の重さという点で、判断すれば、その異常性は、十分にそれに見合うものだ。罪と罰、という観点から、判断する為には、この手続きが、不可欠なのだから。
社会貢献、この響きに、振り回される人々は、増えることはあっても、減ることはなさそうだ。災害が起きれば、各地から駆けつける人々。彼らは、本当に、困っている人の姿を、目にした途端に、居ても立っても居られず、現地に駆けつけるのだそうだ。助けが必要、との思いで。
中には、過去に、自身が災害に見舞われ、その時、駆けつけた人々に、助けられた経験を、持つ人も居る。互助的精神、とでも呼ぶべきか、時に、微笑ましくも、映るものだ。だが、世の中は、綺麗な話ばかりではない。様々な思惑から、貢献せざるを得なくなる人も居る。どの位の割合か、知る術はないが、その典型と思えるのは、学校教育における、貢献の評価だろう。成績に、直接反映されるものや、自分の評価を、高めようと、書類に認めるものもある。自分の意思で、参加することにこそ、社会貢献の意味が、あるとの見方からすれば、他人の評価を気にして、自分にとって、有利になるから、という理由で、行うべきものではない。同じことが、組織ぐるみの活動にも、あるのではないか。社会的地位を保つ為に、貢献を、一つの手段と考えるのは、当然のことに違いない。だが、それに、駆り出される人々は、必ずしも、自らの意思ではなく、組織の都合に、振り回されているだけだ。これらの点が、この制度が、外からやってきた時に、抱いた違和感の一つだろう。自分がやりたいように、という、ある意味、安定した立場にある人の、行為の一つだったものが、社会の中での、立場を保つ為に、という目的が、添えられた途端に、姿を変えてしまった。その結果、皆が挙って、動き回る社会となり、互いに助け合うこととなった。だが、その実態は、本来の姿とは、全く異なるものであり、捻じ曲げられた結果、となっている。だが、一度ついた勢いは、簡単には無くならない。いつまで、走り続けるのか、それも、周囲を見回しながら。
派手な見世物、人気を誇る人物に、有り勝ちなもので、注目を集めれば、集める程に、自己満足が、達成される。その上、人気を保つことができれば、更に、好都合のもの、となるのだろう。それにしても、世界中で、こんなことばかり、行われているとは、何という時代か。
元々、独裁者が、得意とするものだが、現代では、その地位を、手に入れてなくとも、そういった演出を、することによって、人気を長続きさせ、地位に留まる時間を、長引かせる。先の大戦で、ある国を率いた、政治家は、絶大な人気を、誇っていた。演説が、得意という評判は、その通りだったらしく、聴衆は、彼の言葉に、酔い痴れていた、と伝えられる。だが、現実には、中身のある話ではなく、ハリボテに似た、宣言が並んでいただけで、だからこそ、大衆の夢を、膨らますことが、簡単にできたのだと言われている。現在に戻り、口先だけの約束を、並べ立てることで、地位を手に入れた政治家達は、その人気を、保つ為だけに、様々に、派手な見世物を、演じ続けている。ある国の、軍事強化を、阻止する為と称して、首脳同士の直接会談を、行ったことは、高い評価を得たとも、伝えられるものの、徐々に明らかとなる、実態の数々は、予想通りの言葉と共に、彼らの間の約束は、破られるべき運命に、あったことを、強く印象づけた。だが、この展開は、まさに、予想通りであり、国の運命をかけた筈の、一世一代の大芝居は、所詮、嘘に固められた国の、真の姿を、確認させるものとなっただけだ。こんな国が、すぐそばにあるだけで、不安に感じる人が、多いのかもしれないが、このまま、滅びていくのを、横目で見るだけで、終わりそうに思える。三代続いた、とも言われるが、一代で築いた、大店を潰すのに、かかる時間と見れば、あの国の運命は、それに似た状況にあるのだ。
機が熟していない、との判断だった、と言われる。一方で、熟し過ぎた人材は、そろそろ腐り始めているが、人材の宝庫を、誇った集団も、代わりが居ないとばかり、制度改革に乗り出す始末で、自己崩壊を、起こし始めている。こんな連中に、政を任せるようでは、未来は暗い。
熟さずとの判断の一つに、敗者に終わることへの、懸念があると伝えられる。それも、僅差の敗退ならまだしも、下位に終わっては、ケチがつく、ということらしい。始めから、負けが決まっているのに、乗り出しては、自尊心が傷つく、ということだろうが、そんな気弱な人間に、任せたい、と思う人は居ない。今回の決断で、かの人物の、将来は決まった、と言えるだろう。一方で、我関せずとばかり、出馬に意欲を見せる人物には、人気が集まるだろう。勝算はなく、これという、画期的な政策が、浮かんでいる訳でもない。でも、やる気だけは、見せている。そんな人物に、期待を抱く人が、増えているのは、衆愚政治の典型なのだが、築き上げた仕組みが、崩れ始めることで、腐敗が目立ち始めた、現宰相に、期待は膨らむ筈もない。ただ、世界的な傾向として、現有勢力が、維持されるとなれば、こちらでも、という非常識も、通用することとなる。独裁へと走る人々が、これ程の台頭を見せるとなれば、止めるのは、困難だと言われる。制度改革も、その一環として、行われたと考えれば、対岸の火事どころか、こちらも、かなりの燃え広がりが、あると言わねばならない。このまま、現状維持こそが、安心の鍵と見做せば、そのままに進むだろう。となれば、歪みは増すばかりで、修復不能に、陥ることは、ほぼ確実に思える。だとしても、戦争を始めれば、済む事だ、と思っている人に、本当に、任せたいと思うか。代表たる人々に、そんな深慮は、できそうにない。
緊急という言葉が、流れてきて、待ち望む人々に、何かが、与えられることが、わかってくる。しかし、実態は、杜撰なものばかりで、近年の政治家の、頭の悪さ、芸の無さが、見えるだけだ。見世物を、自覚した上での、政策決定なのだが、どこが、緊急なのかと。
報道が騒ぎ立てるのに対し、更に、騒ぎを大きくしようと、舞台を整えた上で、自慢気に、宣言する姿は、まるで、一世一代の大芝居、のように思えてくる。今回の緊急は、大きく、二つあったようだが、片方は、実質的な救済として、重要なものであるのに対し、もう一方は、非常識な程に、大きくなった騒ぎに、油を注ぐかの如く、馬鹿騒ぎが、勢いを増している。水害を、如何に大きなものだったか、指定しないと、あらゆることが始まらぬと、宣言をすることが、儀式として必要なら、それをさっさと行えばいい。だが、それとて、もう何日も経過して、現場からは、様々な悲鳴が聞こえる中で、視察に訪れる訳でもなく、何を、どう調べたのか、指定までにかかる時間に、批判が、集まりそうだ。それでも、特別扱いが、声高に訴えられれば、被災者からの不満が、抑えられると思っているのだろう。とは言え、これにより、優遇措置が取られれば、気になるものが、一つは減る。それだけで、十分だろう、という思惑が、感じられる程に、政治家達の傲慢さは、際立っている。その点において、同じに見えるのは、猛暑への対策を、緊急という言葉を添えて、宣言する長官の姿だ。夏休み中に、冷房環境を整える、という宣言には、いかにも、国民の要望に応えた、緊急の決断、という空気が、込められていたが、実態とそぐわぬ、ものに思える。今すぐに、との弁には、別の意図が、見える筈だが、実際には、本当に必要な所が、何処なのかが、見えていない。まあ、自分は、快適な空間で、のうのうと暮らすだけだから、気付ける筈もない。
携帯端末が、普及したことで、何が、一番大きく変わったか。人それぞれに、回答は、異なるに違いない。だが、多くの票を集めそうなのは、不明なことを、調べるのが、簡単になった、ということだろう。誰かが、一言発する度に、端末に入力し、意味を調べる人が、増えた。
知らないことを、調べることは、何も、悪いことではない。また、これにより、大きく変わった部分がある。それは、記憶に頼り、不確かな意見を、出すよりも、確かな記録に、頼ることで、自分の意見も、確かなものに、しようとする動きに、繋がっている。だが、これにより、確かになった筈の意見は、その殆どが、そこに書いてあったものを、読むだけのものになり、個別の、多様な意見は、立ち消えと、なってしまった。誰もが、何かに頼り、確実性を求めるが故に、同じ意見が、並ぶことになる。これほど、つまらないものは、ないのではないか。それより、自分で考えることを、放棄した人間に、何かを任せることに、危機感を覚える人も、多いだろう。無難とは、誰かが書いたことに、従うものであり、その誰かが、極端な意見の持ち主だと、無難どころか、かなりの難を含む、とんでもない意見が、世に溢れることになる。検索の仕組みにも、危険性を増大させる、強い傾向があり、記憶より、記録に頼る、という考えにも、実は、大きな問題がある事を、示している。では、不確かな記憶に、戻るべきか、と問われれば、大多数は、否と答えるだろう。ここで問題となっているのは、実は、記録そのものではなく、その媒体にこそ、大きな問題がある。誰もが、加われる仕組みでは、自由闊達な活動が、保証されるとされているが、実は、正反対の状況となり、間違ったものが、蔓延することになった。これでは、失敗としか言えない。まずは、検閲ではなくとも、正しいものが、掲げられるように、仕組み自体を、整え直す必要がある。その上で、記録を確かめつつ、自分なりの、意見をまとめる力を、養うべきなのだ。