酷暑の中、一時の憩いを求めて、公園に立ち寄った。木陰は、周囲より、数℃低く、直射日光に、晒されないだけでも、有難く感じられる。しかし、酷暑たる状況は、こんな所にも、現れていた。数℃低くても、猛暑日の基準に、達しているようにさえ、感じられた。
暑さから逃れよう、という思いで、訪れていた、親子連れや、犬を連れた人々の、姿も目についたが、異様な光景も、目に飛び込んできた。街中同様、手にした端末を、覗き込み、指で操作する姿が、矢鱈に目についたのだ。おそらく、数年前に、世界的な流行を見せた、ゲームに興じていたのだろうが、この暑さの中、室外で、わざわざ興じる程の、価値があるのだろうか。それにしても、親子連れも、年配の人々も、互いに、会話をすることなく、画面に目を奪われる姿に、異様という印象しか、感じられない。何故、こんな社会に、なってしまったのか。心配とか、不安とか、そんな声ばかり、報道では、取り上げられるが、だから、その解消に、ということでもあるまい。彼らの口から出る、心配や不安には、何の根拠もなく、ゲームの盛り上がり同様に、他の人が口にするから、という程度の、根拠しかないだろう。それを、殊更に取り上げる世相は、まさに、流行に乗ることだけが、日々の生活の目的、ということだけだ。こんな時代に、自分独自を貫くことは、難しいことのように、思う人が多いけれど、実際には、他人の目を、気にするばかりの、生活に比べたら、ずっと気楽なものなのだ。公園を、散策するのも、これほどの酷暑の中では、やはり、危険が伴うから、無理にとは言わないが、こんなこと一つでも、自分なりの生き方を、実践するものとして、大切にしていけば、いいのだろう。心配も不安も、身勝手な考えによるものであり、少し、考えを巡らせば、解決できる。その時間を持つ為の、ゆとりの時間を、見つけよう。
他人のことに、口出しすることは、田舎の悪弊として、取り上げられ、都会との違いが、際立っていた。それも、もう昔のことか、誰も彼もが、他人事に首を突っ込み、あれこれと、批判を浴びせる。自分のことは、棚に上げて、批判ばかりを繰り返せば、楽なものだ。
それにしても、干渉を嫌い、近所付き合いを、避けていた時代と、何が変わったというのか。最大の要因は、顔が見えない、という状況だろう。匿名性を、手に入れた途端に、周囲に向かって、矢を放ち続ける人が、増えてきた。顔を会わせる度に、相手のことを、気にした時代と違い、端末を相手に、好き放題のことを、書きつらねるのであれば、人付き合いとは違い、口出しに、躊躇することもない。だが、命綱の匿名性は、彼らが信じる程、確かなものではない。度を越せば、正体を探られ、時に、罰を受けることとなる。今は、その意味では、過渡期にあり、匿名性を謳歌する人間には、好都合の時期だろう。だが、それを楽しめるのも、暫くの間に、限られそうだ。徐々に、包囲網が狭められ、罠を仕掛けることも、行われ始めた。その中で、攻撃を仕掛ければ、その主は、すぐに特定されるようになる。知ろうと知るまいと、勝手な発言を続ける人間は、その蜜の味に、浸りきることになる。だが、攻撃も、度を過ごせば、違法行為と見做され、厳しい罰が、課せられることになる。顔が見えるか、見えないかで、態度を一変させる人間は、こういう変化には、鈍いものと決まっているが、法律で罰せられるより、ネット上での集中砲火の方が、厳しいものとなり得る。社会的に抹殺されるとなれば、自分の地位も、場所も、失うこととなるが、その懸念を、抱くような人間は、こんな愚行に、手を染めることはない。そろそろ、やめにしておけば、と思う。
個人では、問題を起こさないのに、集団となると、大きな問題を起こす。集団心理、などと言われる、行動様式だが、この国の人々に、これが、ぴたりとはまると言われる。先の戦争に、突き進んだ時も、良識ある人々が、突然、熱狂に酔い痴れ、暴挙に走ったと言われる。
現代の解釈は、このようになされるが、正しいかの、検証は難しい。戦後間もなくから、占領軍の中での、この手の解釈が、そのまま残ったようで、自分独自の、解釈の結果ではない。外から見ると、明白に見えることも、内側からは、近過ぎるからか、ぼやけてしまうようだ。だが、上からの命令に、素直に従う風潮は、今でも、強く残っている。これが、集団行動の暴走へと、繋がるかどうかは、不確かだから、確定できないだけだろう。この状況で、自由を、どう使うかについては、様々な意見がある。仮想世界での、道具の使い方は、まさに、この状況にある。庶民達は、問題が起きる度に、制限を強いられることを、望んでいるように見える。限られた中で、自由を謳歌することに、慣れているからだろう。だが、仮想世界は、その成り立ちから、自己規制を、中心教義として、発展してきたから、基本的に、公権力の介入を、受け容れない。外からやってきたものだけに、自分達の思いが、そのまま反映されることはなく、自由は、謳歌するものに違いないが、度が過ぎたとしても、それを制限したり、それによって、罪に問うことも、不可能と言われる。だから、と考えるのは、この国の特徴かもしれず、制限を望む声は、高まっているが、世界的には、その傾向はない。その為、違法行為が、蔓延することになるが、それが、問題を起こすとしたら、自ら、それを未然に防ぐ、手立てを講じるのが、筋というものだ。その気もなく、勝手な言動を続ければ、何が起きるか、見極めねばならない。
教育の荒廃、何度も耳にするが、何が問題で、何が原因なのか、今一つ、はっきりしない。水準が、下がり続けている、と言われるが、基準は、時代の変遷に従い、徐々に変化しており、比較対象とは、できないようだ。一方、課題は、数え切れぬ程あり、問題山積、と言われる。
どうにも、焦点が定まらぬ、問題の数々に、批評家でなくとも、次々に、問題の核心を捉え、解決策を提案しようとする。だが、どれも、的外れのままで、解決策は、実際には、手当たり次第に、講じられるだけで、失敗の山が、築かれ続けている。それも、ただの失敗なら、まだしも、犠牲となるのは、その時、教育を受けている子供達で、その傷は、長く残ることさえある。根本解決には、程遠い状況にあるが、対策が、功を奏しないままでは、手の施しようがない、となっているようだ。課題の多さに、現場からは、悲鳴が聞こえる、などと伝えられるが、中でも、皆が総じて挙げるのは、子供に教える、という本来の業務ではなく、それに付随する、業務の多さにこそ、問題があるという。例えば、子供が家に帰っても、その頃には、まだ、先生達の業務は続き、日々の記録などを、残す必要がある。課外活動も、諸悪の根源のように、取り上げられるが、勝ち負けを、最優先としていた時代と違い、様々な配慮が、要求される中では、負荷となることも多い。これらの問題は、誰もが掲げるものだが、実は、本質から外れたものばかりだ。教育そのものに、問題があるからこそ、荒廃などと言われるのであって、それ以外の問題は、時間の使い方、に関する問題に過ぎない。ただ、それが、授業内容の向上への努力を、奪うものとなっている、という主張もある。にしても、本来の能力が、不足している人材に、どんな対策がとられているのか。そこにこそ、問題があるのではないか。問題のすり替えに、騙されてはいけない。
放談が、幕を閉じる、こととなった。おそらく、反応は鈍いのだろうが、歴史ある番組が、終了することに対して、報道関係は、漏れなく伝えているようだ。年寄りの戯言に、誰も、耳を傾けなくなった、ということなのか。日々流れる報道からは、違う様相が見える。
社会的な地位からは、引退したものの、苦言を呈すことで、存在感を示す、という人々が、文字通り、言いたい放題を、続けてきた番組だが、長く続けば、司会者は、交代するしかなく、姿勢が変わるのも、やむなしとされた。大きく変わったのは、過激な姿勢であり、最高学府の現役教授が、放つ言葉には、無難との評価が、付き纏っていた。政治家も、精一杯の演技なのか、月並みな意見でも、激しい口調で放つことで、放言の様相を、見せるに止まっていた。所詮、安定した政治の中では、過激な言動も、相手にされずに終わる。そんな世相で、袋小路に入ってしまった番組は、幕を降ろすしかなかったのだろう。だが、世間は、依然として、過激な言動をする人が、人気を集める。ただ、その実態は、言動の中身にあるのではなく、人そのものにあり、あの人の発言だから、と信じ込む人が多い。結局、言論の吟味において、内容をきちんと理解し、批判的な分析を繰り返す、そんなやり方が、取られなくなったことに、問題の本質が、あるのだろう。信頼に値する人間、かどうかにこそ、判断基準がある、という考えに、厳しい批判を、浴びせかける、という番組の趣旨は、殆ど顧みられなくなり、戯言が、流れている、位の調子で、聞き流すのが、精々なのだろう。週末の早朝に、重要な情報が、流れてきたのも、今は昔、そんなものに、気をつけずとも、政権は安泰で、勝手気儘な政治は、止まる所を知らないのだ。
傑出した才能に、どこが違うのか、と思ったことは、誰にもあるだろう。その違いを、解明する為と称して、天才とか、偉人と呼ばれた人の、脳を保存する動きがあった。今は無理でも、将来、その違いを、明らかにすることができる、と信じて。そんな話題なのだろう。
人類史上、最大の天才、などと呼ぶこと自体、異様に思えるが、当人達は、大真面目なようだ。その天才の脳を、遺族の許可を得て、保存することになった。だが、研究の発達が、不十分な時代では、手を付けることさえ、躊躇われたようだ。その後も、興味を抱いた一部の研究者が、手を出したが、何の成果も、得られなかったと言われる。そんな遣り取りの中で、肝心の試料の散逸が、問題となり始めたが、解決の糸口が、見出せなかった、とされる。そこに、番組の企画から、明確な目標を掲げ、関係者の発掘が、行われ始めた、と伝えられる。問題視されたのは、研究者の独占欲であり、手にした貴重な試料を、返却しようとしない、心理について、述べられていたが、まるで、昆虫に夢中になる、子供のような振る舞いに、強い違和感を覚えた。一方で、研究の進展への期待についても、強い疑念を抱かされた。確かに、当時と比べれば、大きな発展があった、と言えるに違いない。だが、だからと言って、天才の理由が、明らかになる、との期待には、愚かさしか、感じられない。それが、明らかになる、とは思えないだけでなく、それで、何をしたいのか、と思った。なぜ、こんな下らない研究に、人は血道をあげるのか。全く、理解できないものだ。天才の由縁は、ある才能が、傑出していただけで、それが、何か一つの原因に、よるものとは、言える筈もない。遺伝子や脳の構造に、原因を求めるのは、各人の勝手な期待だが、それで、何が進むと思うのか。愚の骨頂としか思えない。
どんなに促しても、重い腰を、上げない人々に対して、苛立ちを隠せぬ人は、次々と、極端な表現を、編み出し続けている。それにしても、非常識な人間を、標的とした表現は、常識的な人間には、衝撃的に響くのではないか。全ての人を、動かす為とはいえ、度が過ぎるのでは。
腰の重い人の、行動様式を見る限り、まともに相手をすること自体、無駄に思えてくる。危機が迫っている、という形で、警告を与えても、誰も動こうとしない。そこには、根拠のない、自信が見え隠れし、論理の欠片もないだけに、説得という様式は、功を奏しない、と言われる。先日の災害においても、ダムの緊急放水に対して、批判の声が、高まりかけていたが、その裏で、避難した人の割合が、余りにも少なかった為に、警告に対応もしないまま、被害を声高に訴えるのは、身勝手過ぎるとの批判が、起き始めている。それでも、毎度お馴染みの、このような勝手な論理を、押し通そうとする人の数は、減る気配を見せない。では、どうすれば、と悩んだ挙句に、編み出されたのが、今のやり方だ。脅しにも似た、というより、脅しそのものとしか、思えない表現を、冷静な伝達が、行われる中に、織り込むようにすることで、皆の認識を、変えられるのではないか、という期待があるのは、すぐに分かるが、これまでに、何度も、手を替え品を替えて、続けられてきた、やり方は、悉く失敗に終わった。だからこそ、表現が、変えられ続けており、上がらぬ効果に、焦りの色が濃くなるに従い、表現は、非常識とも思える水準を、超え始めている。恐怖を植え付ければ、動かざるを得なくなる、との見込みは、これまで同様に、失われつつあり、またぞろ、極端な表現を、探し求めることになる。だが、これらの蛮行の陰で、心に傷を負う人が、増え続けたとして、誰が、その責任を負うというのか。責任回避の言葉が、突き刺さる人間も、居るのでは。