恵まれない家庭。弱者保護が、強く叫ばれる中で、その対象は、ここに絞られている、と言っても過言ではない。片親だけの家庭、低収入の家庭、様々に、問題が指摘されるが、子供達の目標は、恵まれた家庭と、同じであるべき、と言われる。おかしくないか。
機会均等は、貧富の差だろうが、男女の差だろうが、全ての問題を、払拭するものと言われる。だが、その過程で、様々な問題が、表面化する度に、解決への糸口が、模索される。確かに、平等という観点から、機会均等を、目指すことが、成熟した社会の、課題の一つと見做されている。しかし、何もかもを、同じにすることが、本当に、正しいことなのか、不思議に思えることも多い。裕福な家庭では、子供達の進学に対して、金銭的な問題が、生じることは殆どない。一方、貧しい家庭では、金銭的な問題から、進学を諦めることが、多くあると言われる。機会を均等にする為に、学歴や資格の問題が、最大のものと扱われるが、実際には、真の実力は、それとは別の形で、人それぞれに、身に付けていくもの、とも言われる。これが事実なら、無理してでも、進学することは、必ずしも、いい結果を産むとは限らない。それより、その際の出費が、重しとなって、人生に伸し掛ることの方が、遥かに、大きな影響を及ぼす。それにより、選択の幅が、狭められ、無理が祟って、将来設計自体に、歪みが生じることも多い。だが、藁をも掴もうとする、人々にとっては、機会を手に入れることが、最優先とされ、将来の歪みを、考えに入れることなく、目の前の目標を、達成することだけが、目的となる。その結果、借金を背負い、一時的には、機会を手に入れたとしても、将来の道を、塞ぐことになる。こんな事例が、社会に溢れると、更なる支援により、機会均等を、という声が高まるが、いつまで続けようと言うのか。そろそろ、終わりにしては、と思う。
休みが欲しい、と思ったことが、あるだろうか。仕事に精を出し、課題を達成しようと、働き続ける。世の中では、度を過ごした場合について、様々に取り上げられるが、自分のこととして、考えてみると、そんな筈はない、と思えることが、多いのではないか。
嫌々では、気分は高まらず、疲れは、一段と強く感じられる。だから、仕事に身が入らない、となるらしいが、常にそうとは限らない。特に、好きで始めた仕事なら、意欲の点で、大きく違う筈で、それに、達成感が加われば、疲れを感じることさえ、無いとも言われる。それに比べ、社会問題として、取り上げられるものは、矢鱈に疲れ、体調を崩しても、休むことができない、という状況である。何が違うのか、については、簡単に理解できる。心の問題が、取り沙汰されるのも、こんなところに、気分の違いが、大きく反映されるからだ。にも拘らず、仕事の量や時間ばかりに、目を奪われ、肝心な問題に、目を向けることがない。まるで、奴隷の如く、働かされる人間には、そんな心の余裕は、できる筈もない、と言われることも多いが、何故、そんな事態に陥ったのか、考えようとする気はないらしい。少し考えれば、様々なことに、心の問題が、大きな影響を与えることが、理解できるが、それを制御する手立てを、持たない人ばかりが、こういう問題を、提起する場合に、取り上げられる。これでは、歪みがある中で、問題を、無理矢理解決しようと、無駄な努力をするしかない。もっと、簡単に、物事を捉え、何事にも、意欲を失わぬように、心がけるだけで、大抵の問題は、片付けられる。休みが欲しい、のは、誰しも、同じ状況にあるが、その時点の、追い込まれようが、かなり異なるようだ。もっと、楽しく働き、もっと、気楽に構えれば、何事も、簡単にできるのではないか。休みは、ご褒美の一つであり、それを楽しみたいものだ。
人材育成において、重要な課題の一つに、それを始める時期、があると言われる。早期教育、などと一括りにされるが、一部には、早ければ早い程いい、という認識があるようだ。それが、幼児教育から、果ては、胎児教育などにまで、及ぶこととなっていた。
一時の熱は冷めたようだが、依然として、早い方が、という思いは、社会全体に満ちている。だが、どの位、早めるかという問題と共に、何をどう教えるか、という問題が、大きく立ちはだかっているようだ。特に、面白いと思えるのは、施策として、取り上げようとする場合、掛け声が重要となり、そこに、確かな形が、あるかのように、扱われることだろう。子供なりに、何かに疑問を抱き、興味を持ち始めることと、早期教育として、ある疑問を抱かせ、興味を持たせることで、何が、どう変わるのか、誰も、検証していない。幼稚な考えに基づき、浅はかな考えに、到達することは、子供なりの、できることと言えるだろう。だが、それを、舞台を整え、高尚な考えに導き、深慮へと到達させれば、育成に向けての、効率的な手立て、となると考える訳だ。素晴らしい施策、と持ち上げる向きもあるが、舞台を整えようとも、素材に、その準備が整ってなければ、学習発表会の劇の如く、形だけの模倣で、何も身に付けられない、仕組みができただけ、となるだけだ。こんな茶番が、何度も繰り返され、その度に、その場にいた児童・生徒達は、新たな試みの、材料となっただけで、振り回された挙句、何も身に付かなかった、となった。その責任は、十分な検討も無しに、試みに手を出す、行政にあるのだが、彼らは、失敗の次は、新たな試み、としか考えていない。その結果、失敗の上に、更なる失敗が、重ねられ、答えを導けない。早めに始めれば、という考えを、捨てない限り、この愚行が、無くなることはない。
自分の思いが、伝わらずに、苛立ちを、覚えた経験は、ないだろうか。人前で、話す機会を与えられ、必死で説明しているのに、何故か、理解されずに、悔しい思いをした、ことはないだろうか。順序立てて、内容を説明し、何も漏れていない筈なのに、首を傾げられてしまう。
これらを、意思疎通の能力、と括り、それを習得するのに、様々な努力を続ける。しかし、多くの人々が、挫折を感じ、何故、理解されないのか、という思いに沈む。彼らに対し、救いとなるべき、指南書は、世に溢れているが、その殆どが、役に立たず、問題は、解決されぬままに、放置される。当事者にとって、何とも辛い時間が、流れるけれども、如何ともし難い、となっているようだ。まずは、単純な問題として、伝えるべきことへの、理解不足が、あるように感じられる。指南書では、伝え方の伝授が、主体となっており、何を伝えるべきか、を論じることは、全くと言っていい程にない。そのため、伝え方を試すだけで、自分の理解が、不足していることに、気付くことはない。これでは、何も起きないのは、当然のことだが、その点を、指摘されることは、指南書を読んだり、講習会に参加しても、経験できないから、気付かされることなく、同じことを、繰り返すだけとなる。実は、この手の人々が、大多数を占めるのではないか。一番の問題は、理解に対する考え方で、書いてあることを、口に出しさえすれば、それが説明となる、と思い込むことにより、肝心の理解は、棚上げにされている。これに気付かぬ人々が、悩みに沈んでいたとしても、そこから、助け出すことは、簡単ではない。気付かぬ人に、気付かせる手立ては、実は、殆どないからだ。理解の程度を、確認する手立てを、身に付けさせることこそが、人材育成において、肝心なのだが、そこに、目を向けない人が、多すぎる。小手先の技術を、磨くことに腐心するばかりでは、何も解決しない。
人に寄り添うことが、如何に大切かが、強調される。その為には、感情や心理を、理解する必要がある、とも言われる。だが、これが、強まり過ぎた結果、強い歪みが、世の中を、壊し始めているように見える。実は、こんなことは、今に始まったことではなく、昔から問題だった。
論理とは、互いに理解する為の、唯一の手立てなのだが、それより、感情を優先させる風潮が、歴史的には、常にこの世界を、侵し続けている。他人との関係を、保ちたいと願えば、感情を害する行為を、避けねばならない。正しいことを、そのままに、主張することが、相手の気分を害するとなれば、不満が残ろうとも、納得せねばならない。子供の頃から、こんなやり方を、強制された結果、非論理的でも、強い感情をぶつける意見が、罷り通ることとなる。こんな書き方をすれば、それはおかしい、と思う人間が、実は、感情に訴える話に、同調するのだから、困ったものだ。昨日の、「最低の番組」の中での訴えは、被爆二世と言った途端に、感染らないのか、とされたことが、衝撃だったとのことだが、遺伝にせよ、感染にせよ、科学的根拠のないままに、そういう発言をする、無知な人間に対して、何の反論も示さないことこそが、重大な問題であることを、何故、指摘しないのか、と思う。これは、論理が蔑ろにされ、それを振り翳す人間を、傲慢と見做す風潮に、根があるように思う。論理的な話をする人間は、知識があり、知恵があるのだが、それができない人間は、妬みや恨みから、そういう人間は、血も涙もない、と揶揄する。この馬鹿馬鹿しさに、正しい反応を、示せない人間にこそ、大きな問題がある。しかし、多数派は、問題人間の方なのだ。だからこそ、科学的な考え方を、身に付けさせようと、教育現場は、努力を続けているように見えるが、実際には、それに当たる人間が、その能力を持たないのだから、問題の根は深い。
最低の番組に、怒りさえ、覚えてしまった。夏のこの時期、毎年恒例で、取り上げられる話題がある。唯一の、という言葉が、何度も使われ、その独自性を、声高に訴える。経験こそが、重要であり、それがなければ、発言権さえ、持ち得ない、とでも言いたげに。
その中で、既に、確定された事実に、暴かれていない真実が、隠されているかの如く、番組の主旨は、繰り返し、訴えていた。しかし、番組の宣伝でも、番組表の謳い文句でも、盛んに強調された、確定を、転覆させるような、新発見は、どこにも示されず、結局、将来への期待、などという、狂気に満ちた姿勢が、示されただけだった。被害者を、特別視する姿勢も、性懲りも無く、強調される中で、どんな事実が、明らかにされるのか、という期待は、見事に裏切られた。だが、これは、ある意味、当然のことだ。研究によって、明らかにされたことから、根拠のない妄言でしかないことに、確実性が隠されているかのように、見せかけただけなのだから。更に、その中で、発言する、被爆二世と呼ばれる人々の、狂気としか思えぬ、主張の数々に、編集者は、一体全体、何を伝えようと意図したのか。更には、狂った言葉を、並べることで、何が伝わると考えたのか。論理の欠片も、感じられない、言葉の数々は、近年、急速に目立ち始めた、被害者でありさえすれば、どんな狂言も、押し通せるという世相に、後押しされるとでもいうのか。あまりのことに、怒りを覚えた。中でも、異常が見つかれば、怖いと感じるが、何も異常がないとなれば、原爆の危険性がなくなるので、困るとの妄言には、驚きしか感じなかった。こんな言葉を、発した人間だけでなく、それを、公共電波に乗せて、流す人間にも、驚くばかりだ。
厳しい暑さに、原因を求める声は、相変わらず大きいようだ。何でも、原因や理由を、求める人が居るが、何故だろうか。想定外、予想外のことが、起きた時に、そんな意見が、様々に論じられるが、知ろうとする目的に、話題が移ると、殆どの場合、静かになってしまう。
知りたいからと、欲望が理由であり、目的がある訳ではない、とする。だが、尋ねられれば、それに答えねばならない人が居る。そこで、情報を集め、それらを分析し、解説を施す。だが、その頃には、尋ねた本人は、もう、そんなことは、どうでもいい、となっている。要するに、無駄な努力が、行われたことになる。しかし、市民からの要求には、応える必要がある、という世相があり、拒絶したり、無駄なことと断じては、立場自体を、失うことになりかねない。では、どんなやり方がいいのか。簡単には、原因不明、とすることが、一つの方法となる。これもまた、厳しい批判に晒される、可能性があるが、それでも、押し黙ったり、多くの原因を、出鱈目に並べるよりは、ずっとましなのではないか。一方、これほど厳しくなると、被害を受ける人々が、出てくるのは、当然のことだろう。となると、ここでもまた、市民からの批判が、集中することが多い。被害者が出るのは、猛暑が直接的な原因とはいえ、それを避ける手立てを、講じなかった組織の問題が、指摘され、厳しい批判に晒されるのだ。これを当然のこととする世相は、かなり異常な状況にあり、被害者保護の考えが、極端化した結果が、ここにも反映されていると思われる。そこで、唯一の答えとして、導き出されたのは、何もかも、やらない、という選択だ。これにより、組織の責任は、回避されることになり、何が起きても、各個人の問題に、帰結される。保身と言えば、その通りだが、ある種の狂気に触れる中では、致し方なし、となるのだろうか。