パンチの独り言

(8月13日〜8月19日)
(安易に走る、役立たず、脅し文句、無縁、我を張る、無駄遣い、気の緩み)



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8月19日(日)−気の緩み

 一人の配置を惜しんだ為に、日々数千人の配置を、強いられることとなった。これも効率の一つであり、現代社会が苦しまされる、論理なのだろう。効率化、というお題目に、振り回される現場は、汚名返上とばかり、逮捕劇が続くが、まさか、誤認とならないのか。
 見張りもつけず、設備も外して、効率を優先させた、とでも言うのだろうか。世間的に見れば、効率を、過度に追い求めた結果、犯罪者を、野に放つことになった、となるが、おそらく、現場では、そんなお題目ではなく、単に、日々の面倒を、省きたかった、という程度の、低い水準の考えしか、なかったのだろう。自分達が、相手をしているのは、社会の敵であり、それを取り除くことが、社会における、自らの役割、との認識も、全くなかったに違いない。仕事に、優劣や貴賎がある、との考えは、平等社会では、あってはならぬこと、との認識が、強まり続けているが、犯罪は、社会秩序を乱す、最も大きな要因であり、それを取り締まるだけでなく、未然に防ぐことこそが、彼らに課された役割である。だが、特別公務員との括りが、何の為であり、特別扱いの理由さえ、思い描けぬ人々が、現場で、普通の会社員同様、緩んだ態度や油断に満ちた日常を、送り続けている。その中では、面倒を省き、念をおす習慣は、すっかり忘れ去られた。他山の石としてでなく、自らの状況を、見直すくらいの、姿勢が必要となるが、さて、緩んだ気持ちは、どう変化するのか。おそらく、何も起こらず、今のまま、同じ姿勢が続くのだ。例の府警は、数々の前歴から、悪い評判が、定着している。人物調査を経て、希望通りの職に就けた若者の、希望に満ちた気持ちは、ほんの数日で踏みにじられ、周囲の色に、染められる。大都市を抱える組織では、どこも同じ状況と言われる。田舎から、都会に出ることを、望んだ人々の夢は、別の形で実現する。今回の事件も、そんな背景から、生まれたものなのか。

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8月18日(土)−無駄遣い

 理科離れが、問題視されてから、どれ程の時間が、経過しているのか。これまでに、様々な試みが、なされているが、うまくいった、という話は、とんと聞いたことがない。それ程に深刻なのか、それとも、これまでの試みが、悉く、的外れだった、ということなのか。
 教育においては、本来、長い目で見る必要があり、即席や促成で、効果が上がるものは、無いと言われる。だが、問題視するのは、喫緊の課題だからで、その解決には、些かの猶予もならぬ、と指摘される。その中で、大慌てで用意された、施策の多くは、一部の要求は満足させても、全てを満たすことは、無理だったようだ。継続は力なり、とばかりに、一度始めた施策の中には、長く続いているものもあり、高い評価を、受けているとも伝えられる。それは、理科離れの根本を、解決しようとするのではなく、理科に基づく知識を、職業へと結びつける為の、筋道をつけようとするものだ。スーパーサイエンスハイスクールは、次世代の科学者を、育てる施策として、鳴り物入りで始められ、その後も継続されている、珍しい事例だろう。だが、成果自体は、期待程でなく、失敗作とも称される。高校生に、科学の心を、芽生させようという試みも、実社会との結び付きを、強調し過ぎる余り、逆に、現実離れすることが、多くなり、その上、基礎を築くより前に、形を整えようとすることで、見栄えだけで、中身のない研究が、乱立することとなっている。社会問題を、正面から取り上げる試みも、その多くが、身勝手な論理の羅列で、科学的な探究とは、程遠いものになる。こんな中途半端な姿勢を、育てることが、施策の目的だったとしたら、大間違いでしかない。本質の理解より、見栄えを求めた結果、こんな茶番が、進められているとしたら、金も人も、大無駄遣いにしかならない。

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8月17日(金)−我を張る

 生まれた時から、そこにあった、というものは、驚く程沢山ある。そこにあるのが、当たり前であり、何の疑問も抱かず、日々暮らすことが、多い。空気のような存在、などとも言われるが、それを始めたのが、誰であろうが、そこにあるものに、何の違いがあるのか。
 数多ある中で、この国の人々にとって、最も重要なものは、憲法かもしれない。しかし、その内容に通じている人は、あまり居ない。子供の頃に、肝心と思われる部分について、触れたことがあっても、全体を理解し、覚えている人は、一握りに限られる。職業上の理由から、そういう知識を、持たざるを得ない人も居るが、それもほんの一部に過ぎない。だが、これについて、論じる必要を、説いて廻る人が居る。彼らの掲げる理由の一つは、その成り立ちにあり、自分達で考えたものは、占領者に却下され、彼らが編んだものが、押し付けられた、という点だ。当時、その状況を、甘んじて受け入れた政治家の中には、ほとぼりが冷めた頃に、改めて編み直せば、としていた人も居たようだ。だが、それから半世紀以上も、時が経ち、誰も手をつけぬままに、その存在が続いた。戦後生まれの多くは、その成立の後に、生を受けた人々であり、既にそこにあった、存在に対して、自分達が、という観点を、持ち込もうとする気は、あまりない。にも拘わらず、愚かな宰相は、自らも、その括りに入るのに、自分達を強調し、自衛に必要となる、武力の行使を、正当化しようとしている。と言っても、これは、解釈の問題に過ぎず、当人達は、それ自体が目的でもなく、そんな改正を、望んでいる訳ではない、と説く。真偽は兎も角、自分達で考えた、という点は、それ以降に生まれた人々には、無関係であり、意味を持たない。長く続いた平和は、世界情勢によるとはいえ、この条文による所も大きい。我を通す所ではない。

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8月16日(木)−無縁

 墓の問題は、どう考えるべきものか。無縁墓、と聞いても、ピンとこないものだが、無縁仏とは別に、嘗ては、縁者が訪れていたのに、いつの間にか、忘れ去られ、誰も見向きもしなくなり、そのままに、朽ちてしまったものが、そう呼ばれるのだそうな。
 何処から運ばれたのか、誰のものなのかを、知る人も居ない石が、並んでいる。地域によっては、かなりの割合で、そんなものが、放置される所もある、という。だが、死者の魂が、漂うとも言われ、簡単に、整理することも、できない。寺に属するものならば、名簿を頼りに、持ち主の確認を、とることもできる。そこから、整理が始められる。これは、最近、問題化している、廃屋の相続と、似た状況にある。縁もゆかりもあるが、そこに出向いたこともなく、縁者も、全て姿を消し、そこに、相続すべき家屋や土地が、存在することさえ、知る由も無い。まして、彼岸や盆の日に、参る墓の存在は、無いものと伝えられ、そんな風習さえ、忘れ去られている。そんな時代に、世の中は、効率を追い求め、面倒を、全て省こうとしている。先祖を参ることも、淡い記憶として、残されていた時代では、既に無く、全てが、忘れ去られてしまった。おそらく、画面に映し出される、墓石の列を、眺めていても、何の感慨も抱かぬ人の方が、遥かに増えたのだろう。こんな話題を、取り上げたとしても、社会問題として、扱われることも無く、書類上の手続きが、整えさえすれば、何の問題も無く、新たなことが始められる。自らの存在は、過去があってこそであり、先祖が居たからこそ、今があるのだ、という考えは、もう、何処にも残っていないのだろうか。今の効率が、全てであり、それを満たしてこそ、将来が見えてくる、と信じる人には、過去は、過ぎ去ったことであり、何の意味も持たない、となる。宗教的なことが、難しい時代なのだ。

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8月15日(水)−脅し文句

 自然災害が起こる度に、何故、被害者は、避難をしなかったのか、という問題が、論じられる。甚大な災害が、起こると予想されるから、それを伝えようと、当局は躍起になる。だが、その意図は、伝わらず、聞き流した人々の一部が、被害者となり、財産を失うどころか、命の危機さえも。
 亡くなった人々から、意見を聞くことは、できないが、親戚や友人から、批判の声が出ることがある。危険性を、もっと正確に、伝えて貰えば、躊躇なく避難をして、命の危機だけでも、避けられたのに、ということだ。確かに、人によっては、警告の度合いにより、判断を変えることもあるだろう。だから、もっと強く、ということで、脅迫にも似た表現が、毎度お馴染みの如く、頻用されるのだが、それに触れた時の反応は、人それぞれとなる。時に、過剰反応を示し、萎縮反応となって、動けなくなる人も居る。それによって、別の問題が生じたとしても、警告を発した側の責任が、問われることはない。その為か、また、何度も起きる災害の為か、度を越した警告が、発せられるのだが、どうにも、被害が減ることは少ない。確かに、一度や二度は、警告に従い、避難を決断することもあるが、空振りに終わったことで、次は、面倒さが先に立ち、躊躇することになる。狼少年の話ではないが、何度も起きる内に、皆が慣れてしまい、反応を示さなくなることは多い。その中で、本当の災害が起きれば、被害が広がるのも当然だろう。これを防ぐ手立ては、実はないのだろう。面倒を感じず、何度も空振りを繰り返す。それを果たしてこそ、肝心な時に、危機を逃れることが、できる。こうなると、脅しの強さが、肝心なのではなく、それをどう受け取るかが、肝心だとわかる。世の中には、脅迫にも似た、警告が溢れているが、そうすることによって、効果が得られるという解釈は、外れているようだ。

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8月14日(火)−役立たず

 効率、と言えば、これも、効率の一つだろう。何をやらせても、無難にこなす人が居る一方で、何をやらせても、できない人が居る。後者は、まさに効率の悪い人間であり、社会のお荷物、にもなっている。だが、彼らにも、生きる権利がある、とでも言うのか、擁護する意見が出る。
 しかし、程度の問題として、これが、扱われることがある。ある程度までは、容認され、大目に見ることが、行われる。だが、枠を超えた途端に、厳しい目が向けられる。この転換は、どこで行われるのか。人それぞれに、設定した線が異なり、傍目から見ると、何が違うのか、と考えたくなる。社会全体として見ても、こういう違いに、違和感を覚えることがあるが、一方で、組織内で、同じようなことが起きると、小さな社会だけに、手当の仕方により、結果が異なってくることがある。嘗て、右肩上がりの経済、と言われた時代には、少々の失敗には、目を瞑り、組織で支える仕組みが、出来上がっていた。しかし、停滞が始まると、それまでの、大目に見る雰囲気は、なくなってしまい、失敗にも、厳しい目が向けられるようになった。今となっては、嘗ての仕組みは、効率の悪さばかりが、目立つものとされ、その場の効率だけでなく、人を育てる上にも、無駄なものと見做されている。その結果、嘗て、大目に見られながら、年功序列に、助けられながら、出世していた人は、社会のお荷物と、扱われている。社会的な地位は、それなりのものを、手に入れたとしても、今や、お荷物と化した人々は、巷に溢れているのではないか。その中で、別の話題として、効率が取り沙汰されると、気になることも、あるのだろうか。それとも、自分の力を、評価することにも、的外れが著しく、そんなことさえ、気になることはない、のだろうか。

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8月13日(月)−安易に走る

 人を、効率によって、区別するやり方は、猛反対の反応を、引き出したようだ。分かり易さが、最優先される、世相において、この区別の仕方は、如何にも、安易な考えに、基づくものと見做されるが、一方で、平等という考えに、相反するものと、見做されたようだ。
 平等という考えには、大きな欠陥がある、と見る向きからは、効率による区別の方が、遥かに合理的に見えるだろう。だが、人権と絡めて、平等を論じる人々にとって、効率の違いで、人を区別することは、まさに差別と映るようだ。だからこそ、発言直後から、多くの人々が、躍起になって、反論を書き記している。だが、考えを巡らすことなく、不用意な発言をした主の、真意を推し量ることなく、反射的に、反論を掲げるのも、どうかと思える部分が多い。発言主は、分かり易さを、追い求めた結果として、次世代を産めるかどうかが、生き物としての効率に、関わるものとして、重大な問題となり得る、と考えたようだ。しかし、人間の生き物としての役割は、他にもある筈、と信じる上に、何事にも、平等な扱いを示すことこそが、人権擁護において、最重要となる、と考えた結果、反射的に、厳しい批判をぶつけたのだろう。だが、生物学的に考えれば、生産能力は、最も重要なものであり、それを失った途端に、種としての存続は、叶わぬものとなる。そこまで、深慮を巡らせた訳ではなく、ただ単に、分かり易いから、という理由で、効率を引き合いに出した結果、猛反対が始まったとすれば、軽率の謗りを、受けるべきこととなる。それにしても、互いに、十分な考えも巡らせず、罵り合いが続くようでは、この社会は、壊れてしまうだろう。では、どうすれば、それを防げるのか。単純には、気軽な道具に振り回されず、互いに、考えを十分に巡らした上で、意見交換をすべきなのだ。考えるべき時が、来ている。

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