パンチの独り言

(8月20日〜8月26日)
(仁術、バラマキ、見ぬふり、偽善、差別意識、能力を測る、人の道)



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8月26日(日)−人の道

 読書好きかと問われれば、そうでもない、と答える。本が山積みになったのは、単に、暇潰しから、始まったことであり、三度の飯より、などと思ったことは、一度もない。その仕事は、それ程に暇なのか、と問われれば、やることさえ、やっていれば、暇だと答える。
 時間の使い方は、人それぞれだ。何事も、とことん考え、究極の答えを、導き出そう、と努力する人が、居る一方で、少しの考えで、答えに行き着き、それで十分、と満足する人も居る。長い歴史から見れば、どちらか一方が、正しい訳でもなく、単に、それぞれが、その場の答えとして、その後の歴史を、築いてきただけだ。それが、正しかったか、間違っていたかは、その場でわからないだけでなく、その後の歴史においても、判断がつかない。所詮、それだけのこと、と思ってしまえば、気楽に、構えるのも、一つと見做せる。だから、時間の使い方が、違っても、大差なし、と言えそうなのだ。その中で、週末は、新刊本の紹介が、盛んとなる。暇潰しとはいえ、その材料を、探す必要はあり、専ら、書評に頼る部分が大きい。だが、最近は、評判とは裏腹に、何ともつまらぬ代物が、紹介され、期待を裏切られる。若者達の理解力の減退に、憂慮する声が、続いているが、識者と呼ばれる人々も、同じ病に冒され、ゴミの山を、築いている。一方で、新刊本の広告も、週末を中心に並ぶが、こちらも、売れた数などを、示すことで、評判の高さを、誇示しようとする。だが、こちらも同じことで、中身のないものに、惹かれる人間の、数を誇るだけに過ぎない。まだ、その域ではないが、海の向こうの諜報機関の、非人道的な行為を、告発して話題となった、人物への取材を、行った人間も、公共放送の、人気番組で、捏造が繰り返された時期の、中心人物であり、悲惨な組み合わせ、と思えた。正しいことを、していれば、それが違法でも、構わぬとの考えに、国家が汚染される現状も、その告発が、違法であることも、矛盾に満ちた現代社会の象徴のようだが、こんな下らぬ行為に、目を奪われる人間共が、国の中枢をなすことこそが、一番の問題だろう。

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8月25日(土)−能力を測る

 連日、書いていることから、人でなし、と思う人も居るだろう。でも、その多くは、文章理解の力が劣り、自分の思い込みを、優先させて、他人の意見を、取り入れることが、殆ど出来ないのだと思う。だから、社会で大勢を占める意見に、流されているだけなのだ。
 そこから外れた意見に、聞く耳を持たない人々は、自分が、人道的な言動を放ち、人権擁護に賛同し、弱者保護を、優先させている、と信じているだろう。だが、今回のような遣り取りでは、そんな大層な考えなど、出てくる筈もなく、身勝手な考えを、周囲に押し付けているだけなのだ。障害者や少数派にとって、受け容れ難いことは、同じ能力なのに、障害の有無や少数派だからと、登用されない、という現状であり、その障壁を、取り除くべきとの意見も、その考えから、出ている。にも拘わらず、このところの騒ぎは、そこではなく、数の論理のみを、目標値として、定めたことから、起きているのに、まるで、人道や人権を、踏みにじる行為だから、と主張することには、強い違和感を抱く。だが、社会の論調は、それに異論を唱えず、正義の味方を、自認するような、意見が、次々に提出される。だが、本質的でない議論は、有益な何かを、産み出すことはなく、無駄な方策や、非常識な提案を、導き出そうとしている。その先頭に立っているのは、例の如く、自らの愚かさに、気付く気配も見せない、報道に携わる人々で、お上の愚行を、炙り出すことに、血道をあげるだけで、問題の解決どころか、何が問題か、ということにさえ、考えが至ることはない。所詮、その程度の能力しか、持ち合わせていない、人間共の集まりだから、こうなるのも、必然と言えるのだが、やはり、任用において、重視すべきは、能力であり、それ以外の要因を、持ち出すことには、意味がないと見るべきだろう。

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8月24日(金)−差別意識

 人道的な措置、と当事者達は、主張する。だが、小手先のことで、人の道が、築ける筈もない。まして、人権が、などと、無駄なことを、掲げる人々に、正しい道が、拓ける筈もない。もうそろそろ、無駄、の一言で、全てを、片付けたらどうか、と思う。
 能力主義が、台頭するに従い、劣る者達は、捨て去られる恐怖に、苛まれることとなった。だが、そんな主義主張が、世の中で、持て囃される、ずっと前から、能力の高さにより、人の価値は、見極められていた。ただ、一つの大きな違いが、そこにあったことに、気付いた人は、実は少ない。能力を、一つの物差しで、測ろうとするのは、当然の成り行きなのだが、たった一つのものだけで、全てを、判断しようとする動きこそが、能力主義と呼ばれる暴挙の、中核だったのだ。自分に、都合のいい尺度を、適用することで、能力を、大きく見せようとする、人々にとって、能力主義は、誠に、都合のいい制度だったが、組織にとっては、多様な能力こそが、重視すべきものであり、様々な事態に、備える為に、不可欠なものの筈が、一つだけで評価を下した為に、早晩、馬脚を現すこととなった。経済停滞から、衰退期に入ることで、この仕組みの、脆弱性が、露わになったが、その時点で、問題視されたのは、それまでに、捨て去られてきた、人々への、手当てという点だ。これが、弱者保護と括られるもので、性別の扱いや障害者の問題に、突然、光が当てられることに、なった。結果は、既に明白となっており、失敗の連続を、隠蔽するような、数値目標の設定も、差別を解消するどころか、別の差別を、新たに創出する、きっかけを与えただけで、人権も人道も、手に入らない、どこか遠くに、追いやる結果となった。だから、と言いたいのだが、不正などという、瑣末な問題に、目を奪われても、何の解決も、得られないのだ。

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8月23日(木)−偽善

 弱者保護や機会均等を、批判すると、まるで、人非人の如く、総攻撃の矢に、曝されかねない。人権を、侵す言動との、批判が向けられるが、そんな意図は、全く無いし、保護や均等こそ、実は、人権を、根元から覆すような、掛け声であることに、本人は気付いていない。
 能力に応じて、報酬が支払われる。資本主義では、当然の仕組みだが、そのままでは、差別が放置されるから、保護や均等を、法律で整備しなければ、と結論付けられる。だが、その制度により、逆差別が、横行することに対し、人権擁護の立場から、仕方ないこと、と看過する態度には、結局、保護も均等も、擁護さえも、存在しないことに、当人達は、気付く気配さえ見せない。だからこそ、意を決して、批判の声を上げるが、そこに、人権派達は、一斉攻撃を、仕掛けることとなる。だが、現場の状況を、一瞥するだけで、この制度の根本問題が、露呈することは、制度自体の欠陥、と言わざるを得ない、ということを、如実に表しているのだ。だからこそ、他人に対して、理解を示すかのような、偽善的な制度を、推進することに、異論を唱えているのだ。にも拘わらず、論理的に考えずに、反射的に、攻撃を仕掛ける人間は、実は、本質を理解しようとする気も、その能力さえも、持っていないということだ。こんなことが、ある期間推進されたが、効果が得られなかったからと、更に高い数値を目標と定め、官庁自ら、推進しようと、始めてみたものの、現実は、甘くなかったのである。だからこそ、不正が横行し、それが、全体にまで、広がってしまった訳だ。営利追求せねばならない、企業であれば、状況は、更に深刻なものだ。だからこそ、少しでも、異常に見えた、社員達に、障害者認定を迫り、別の面で、人権侵害にあたる、命令を下してきた。それこそが、実態を、表しているものなのに、擁護を掲げて、愚行が繰り返された結果が、霞ヶ関を襲っている。

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8月22日(水)−見ぬふり

 監督すべき役所が、起こした不祥事に、憤りを感じた人も、呆れた人も、居ただろう。だが、これは、本当に、そこに問題があるのか。そちらに、目を向ける人は、全く居ない。いつもながら、見識の無さが、目立つだけでなく、本質を見抜く能力も、失われている。
 障害者に、働く場を与える為に、その法律は、制定されたのだろう。だが、それを押し付けられた現場は、能力の有無と無関係に、決められた数の人を、雇い入れねばならなくなった。利潤追求を、最優先とする中で、こんな不条理は、あり得ないとの声も、聞こえてくるが、それを、覆い隠すように、例の如くの、弱者保護が、声高に訴えられる。損して得とれ、とばかりに、補助金頼みの策を、講じる企業もあり、そこに、新たな不正が、行われていた。だが、役所は、逆の立場から、こうあるべき、という姿勢を示す必要がある。つまり、利潤追求は、考える必要がなく、仕事を与えて、数を揃えすれば、法律に定められた規則を、遵守することが、可能であると、あるべき姿を、誇示することができる筈なのだ。ところが、あろうことか、その連中が、障害を持たぬ人間を、その範疇にあると、拡大解釈した上で、必要数を確保した、ということだ。制度を定めた人々が、法破りをするのは、いかに傲慢な連中とはいえ、耳を疑うしかないし、正しい運用法を、示すことが、当然である筈が、真逆のことを、平然と行ったこと自体、公僕たる人間に、あるまじき行為、と糾弾されるべきことだ。特に、監督官庁自らが、好き放題の解釈を、適用したとなっては、世も末と、言わざるを得ない状況にある。だが、真の問題は、そこにはない、と思う。障害者雇用も、機会均等も、絵に描いた餅どころか、明らかな誤謬に基づく、考え方が、端緒となっており、根本から、過ちと断ずべき政策なのだ。不正を追及するより、そちらに目を向けたらどうか。

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8月21日(火)−バラマキ

 資金の分配に、競争が採り入れられた理由は、二つある、と言われる。一つには、この所、何度も取り上げている、効率の問題がある。これを、主体と見做す動きが、強かったが、それは、二つ目の理由を、隠蔽する為の、役所の戦略、だったのではないだろうか。
 無駄な金を、減らしたい、と願うのは、財布を預かる役目からすれば、当然の論理だろう。だが、真理を探ろう、と目論む人々にとって、確実な道はなく、多くの無駄の挙句に、一つの当たりを、手に入れられれば、御の字、くらいのつもりで、日々取り組んでいる。これでは、無駄を省こう、と狙う人々には、文字通り、無駄なこと、と映る。そこで、二つ目の理由を、先に出すことにした。つまり、それぞれの組織に、毎年分配される、運営費と名付けられた資金を、徐々に、減らすことを、政策として、明確にしたのだ。組織に対して、袖を、毎年短くする、と通達した訳で、運営側は、減額分を、どう工面するのかを、一大命題として、受け取らされた。しかし、末端では、そんな事情は、理解の及ばぬ所にある。研究の継続に、競争が必要との要求に、どう応えたらいいのか、見えぬままに、取り組み始めた。だが、彼らにとっての無駄は、それに費やす時間と、競争に勝てる内容を、強いられることにあり、それにより、水準が、急速に低下することに、気付かされることとなる。これに気付いた人々が、様々に批判の声を上げ、失策を、厳しく追及するが、では、どんな代案があるのか、示す気配はない。研究は、競争下でこそ、意味を持つ、と信じる人々は、あの賞の受賞者でさえ、競争を排する提案を、示せない。この為体では、研究水準低下の問題は、解決の糸口さえ、掴めないだろう。資金獲得の競争が、元凶なら、それを排除すればいい。研究自体は、競争を当然とするものだとしても、その資金獲得が、競争を当然とするとは、ならないのが、真っ当な論理なのだから。

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8月20日(月)−仁術

 周囲を眺め、金より大切なものがある、と学んできた世代には、全く理解できない事態だろう。最近は、意欲より金、とでも言わんばかりの状況が、様々に伝えられる。先立つものがないから、あれができない、とか、金さえあれば、何でもできるのに、とか。
 中でも、海の向こうから流れてきた情報には、呆れるばかりとなるが、おそらく、世間は、正反対の反応を示すのだろう。ある有名大学の医学部で、学費の免除が、学生全員に伝えられた、との報道に、その理由が添えられ、驚きは、何重にも膨らんだ。自立が当然で、親への依存なしに、進学をする為に、借金をすることも、当然という土地柄も、景気後退の余波で、返す為の糧となるべき、収入の道を、絶たれてしまった人が、急増している状況に、進学を諦める人が、出ていると伝えられていた。その点、手に職をつける学部では、収入への心配は、ないと思うのは、世間知らず、と呼ばれるのだろう。遥かに大きな借金の額に、職の中でも、実入りのいいものを、選ぼうとする傾向が、強まり続け、診療科によっては、不人気に拍車がかかる、と言われていたらしい。今回の英断は、それに向けてのもの、との説明に、医は仁術、との解釈は、宗教の違いだけでなく、時代の趨勢として、とうの昔に、捨てられたものとなった、と思い知らされた。だが、改めて考えるのは、本当に、皆が、そう思っているのか、ということだ。事実かの如く、扱われる話題だが、医師の中には、全く違う考えを、持つ人間が居るに違いない。そう信じたい、と思う人も、多いだろう。先日の、入試の性差別においても、致し方なし、との意見が、多かったのは、性による、診療科選択の問題や妊娠・出産による問題、などの背景があったからだ。英断の影響を、見極められるのは、短くとも10年は、必要となるだろう。

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