パンチの独り言

(8月27日〜9月2日)
(寄り添う、欺瞞宰相、数合わせ、叱咤激励、どこ吹く風、薄める、危険地域)



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9月2日(日)−危険地域

 水害が起こる度に、老人施設が被害に遭い、心を痛めた人も、多いだろう。ここでも、触れたことがあるが、何故、こんな危険な場所に、設置されたのか、という疑問も、湧いていた。姥捨山でもあるまいが、老人を、捨てるとの風潮、などという、見解さえ思い当たる。
 社会的に、貢献してきた人々に、何ということかと、その冷遇に、悲哀を感じた人も、居たのではないか。設置の認可は、役所によるものだから、そこでの判断、とも言えるが、冷徹な判断、というより、無知ゆえのこと、とも思わされる、調査結果が、出されたようだ。大震災の後に、海岸近くに、住宅を建設することが、議論の中心となったが、水害とて、起きやすい地域と、そうでない所がある。水に関係するから、水辺近くや川の流域、などは当然で、時には、沼沢だった地域を、埋め立てなどで整備した、住宅地も、危険と見るべき、との意見もある。そこに、家を建てるかは、所有者の判断次第、と見れば、行政の責任が、問われることもないが、認可の有無が、初めにある、となれば、責任無しとも、言えないとなる。新興住宅地に関しては、地震の際も、被害甚大と、伝えられることもあり、無理な開発が、原因とも伝えられる。水害についても、同じことが言え、それまでは、荒れ果てた土地だったものを、開発業者が、整備する事で、住宅地の認可を、得ることができる。だが、そこが、明らかに危険な地域かどうかは、土地の長老に尋ねたり、土地の歴史を紐解けば、確かめられる。だが、肝心の役所は、書類手続きに、齟齬がなければ、認可するのが、当たり前となる。その結果、水害により、家屋のみか、人命まで、失われたとしたら、誰に、責任があるのか。その問いかけに、行政が、答えを出してくれる、とは限らない。そこに、疑問を投げかけた、調査結果について、さて、どんな反響があるか。暫く、様子を見る必要がありそうだ。

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9月1日(土)−薄める

 喉元過ぎれば、と言われるが、そんなものか、と思えてくる。直後は、病的と思いたくなる程に、極端な反応ばかりが、取り上げられていたが、結局、大きな変化が、起きることもなく、平穏な日々が、戻ってきた。それでも、現地では、まだ、厳しい状態が続く。
 原子炉自体の、処分に関しても、様々な問題が、山積している、と言われる。だが、周辺への汚染は、同じように、様々な問題を、引き起こしている。直後には、海への流出を、防ぐ為の手段として、凍らせた壁を、土中に築くという話が、度々、紹介されていたが、その後の経過は、あまり芳しいものでは、なかったようだ。たとえ、壁を使って、流出を防いだとしても、そこに留まった汚染物を、どう処理するかは、当然の問題として、検討されてきた。言葉は悪いが、手っ取り早い方法として、貯め込むことが、選択された結果、貯水槽が、次々に組み上げられた。だが、この手は、永遠には続かない。そろそろ、余地が無くなり、次の手立てが必要、との声が聞こえ始め、当然の策として、希釈後の廃棄、が紹介されるが、風評やら何やら、根拠のない反論が、例の如く、噴出し始める。非科学的な、非論理的な、心理戦法は、この問題の、最大の敵となるが、今回も、同じことが、繰り返されている。だが、放射性物質の扱いにおいて、希釈法は、最適の手段として、科学的にも証明がなされ、管理施設でも、繰り返し用いられていた。除去が困難と言われる、件の核種についても、同様な措置をすれば、廃棄可能となるとされる。元々、放射性物質は、濃縮より、希釈が、安全策とされ、検証も済んでいる。にも拘わらず、こんなことが繰り返されるのは、人間の心理という化け物に、まともに、取り組もうとする姿勢に、よるものであり、まさに、無駄な労力の典型、に思えてくる。

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8月31日(金)−どこ吹く風

 指導者の問題は、これまでなら、被害を受けた選手達の、訴えに基づき、その常軌を逸した指導法が、暴かれていた。だが、今回のものは、そのやり方が、一段と進められ、被害者本人が、洗脳や恐怖により、萎縮している場合にも、対応する道を、示したものと見做されていた。
 身体的なものだけでなく、精神的なものを含む、体罰一般を、暴力の一つと見做すことで、不適切な指導を、現場から一掃しよう、という思いの、表れとも言われていたが、処分が決まった途端に、様相が一変することとなった。被害者とされた人物が、反論を提出したからだ。被害の訴えにより、調査がなされた結果、暴力を認定する場合と異なり、今回のものは、被害の有無を、訴えがなくとも、周囲が調査し、それが認定されれば、処分が行える、というものだったが、肝心の被害者自身が、その意識を有しなかった、となると、さて、どうしたものか、となったのである。ハラスメントにおいて、最も重要と言われたのは、被害者の感覚であり、それまでのいじめとも、一般社会で認識される暴力とも、異なるものと、散々、説明されてきた。今回は、それとは全く異なる、観点から、着手されたものであり、一部には、発生を未然に防ぐ、新手法と見做されていた。だが、以前からの観点からすれば、一種、勇み足となり兼ねぬもので、その指摘が、出始めていた。そこでは、被害者の感覚とは無関係に、暴力は暴力、と見做す考えが、披露されていたが、だったら、パワハラなどと、言わねばいい。暴力なら、その一言で、片付けていれば、こんな複雑なことは、起きなかっただろう。だが、事件は、そこに留まらず、関係者の圧力関係が、暴露されるに至り、泥仕合いを呈し始めた。元々、人それぞれの感覚を、優先させるやり方に、無理があるのに、そこに、余計な配慮が、入れられて、事態は、混迷の一途を辿る。結局は、どうでもいいことに、違いないのだが。

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8月30日(木)−叱咤激励

 指導者の価値の下落が、止まらないようだ。教員の資質の低下は、今更、取り上げる価値もないが、それとは別の、世界の話を、取り上げてみたい。運動能力の向上は、学校教育の枠を超え、より高い目標を、達成しようと、日々努力する人が、数え切れない程に、居ると言われる。
 だが、その現場の混乱が、収束する気配を、見せないのだ。一流を目指すのであれば、それに見合う努力が、不可欠と言われるが、そこには、自力のものだけでなく、周囲の支援という形のものが、存在している。特に、若年層では、自己分析も不十分で、指導者の役割が、大きいと言われる。だが、外からの力は、時に、圧力と化し、順位などの報酬が、見合うものとなれば、良しとされるが、見込みと異なる、結果しか得られないと、途端に、過度の圧力と、批判されることとなる。以前なら、少々の体罰は、許されるべき、という風潮があったが、例のハラスメントの考えから、不調を、誰かの責任と、転嫁してしまう、弱い心の持ち主達は、勇気ある行為、などと、囃し立てられ、英雄気取りで、声を上げ始めた。暴力は、許されるものではないが、叱咤激励の表れは、様々な形を成す場合がある。他人から見れば、非情な暴力でも、自分への愛の一つ、と思えば、耐えられる場合が、あるかもしれない。その区別は、簡単ではないが、そこに、利害が入ると、途端に、都合のいい解釈が、適用されて、加害者と被害者が、仕立て上げられる。結果、絶対的な権力の、持ち主として、批判された指導者は、その機会を奪われ、社会的に抹殺される。管理機関が、英断を下した、などとも伝えられるが、競技の世界は、結果が全てであり、指導者を、処分した結果が、悪い方に傾くと、突如として、正反対の意見が、登場する。何れにしても、実力に、精神的なものが含まれるだけに、簡単な問題ではない。外から、勝手なことを、言うだけの人々には、何の権利もないのだ。

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8月29日(水)−数合わせ

 お上に従う、という歴史を、歩んできたのに、肝心の国は、嘘に塗れた悪行を、暴かれ続けている。冷静に考えれば、無理筋に違いない、と思える施策を、強引に押し切ろうと、し続ける人々は、文字通り、馬脚を現し、自らの首を、絞め付ける、不正を行い続けていた。
 だが、この時ばかりと、権力側を、徹底批判しようとばかり、連日、不正の数々を、伝え続ける報道は、数字を掲げるだけで、問題の本質に、近づく気配さえ見せない。弱者を雇用すべき、という提言自体、何も間違っていないが、これ程までに、行政が、数値目標を掲げるなど、梃入れを必要としたのは、実態が、目標に沿わない事態が、起きているからだ。そこで、確固たる目標を掲げ、その達成ができなければ、罰を与えるとまで、決めてしまった。本質の理解より、目標の達成が、優先された結果、現場での問題点を、解析することなく、ただ、数字を示したのは、お上としては、上意下達としか、考えていなかったことを、表しているだろう。それが、まさか、自分の首を絞め、書類上の操作だけで、事が済むと考えがちな、現場の欠点を、露呈することになるとは、思っていなかったらしい。下々の者達が、指示に従わないのは、無知蒙昧や無能な為であり、能力さえあれば、目標達成は、簡単なのだ、とでも示そうと思ったのが、正反対の結果となり、自らの無能ぶりを、世に晒したのは、全く馬鹿げたことだろう。しかし、それを伝える報道も、連日、不正の数字を、伝えることで、権力側を、とっちめているとでも、思うからか、悦に入った様子で、自分達も、目標達成が、心許無いことには、触れる気配もない。何とも情けない状況であり、どちらも、猛省をすべきと思うが、原点に戻り、この施策の問題を、再点検する時期が、来ていることを、いかに愚かと雖も、口に出すべきだろう。これは、誤魔化しをした役所にも、通じる話であり、愚策を断行した責任を、認識した上で、再考を始めるべきなのだ。

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8月28日(火)−欺瞞宰相

 仲間内の、頂点を決める、手続きが進められている。互選、という制度だから、資格さえあれば、誰でもなれる筈の地位だが、派閥などという、前世の遺物に、縛られている人間共が、互いに選び合う、などというのは、絵に描いた餅、に過ぎず、政でなく、お祭り騒ぎなのだ。
 勝手に、騒いでいるだけなら、誰も、心配する必要ない。仲間内で、決めるだけで、仲間内に、通用する、力関係を、表しているだけだからだ。だが、それが、一国の宰相と、同じ意味となる、となれば、話は、大きく違ってくる。間接選挙にせよ、ある過程を踏んで、国民が、選ぼうとするのとは、大きく異なり、多勢を占める仲間達が、代表を決めれば、それが、国の代表となる、という仕組みだから、直接的な関係は、何もない、と思いたくなるのも、無理もない。だが、この仕組みさえ、勝手な都合で、変更を押し切り、自分の時代を、長引かせようとした挙句、今回の節目を、迎えることとなった。仲間からは、派閥の原理を頼りに、支援を得ても、その他大勢からは、不人気だった、前回の反省から、大衆目当ての動きが、始まっているが、これがまた、今の世相を、そのままに反映し、誤魔化しの数値で、成果を主張するのでは、信頼を得ることは、できないだろう。まるで、省庁だけの責任と、どこ吹く風を、決め込む姿勢にも、あの人物の、人徳の無さが、如実に表れており、政を、任せる価値は、無いに等しい。にも拘わらず、当人は、その資格ありと、勝手な思い込みを、抱き続けているから、少々の不祥事は、自分ではなく、他人の不徳の、致す所と言い切る。その、無責任体質が、あらゆる決め事において、取り返しのつかない、失敗へと繋がることも、ほぼ確実と、なる中では、皆が、心配するけれど、政権側では、誰も、心配していないらしい。この辺りに、庶民に寄り添うという、姿勢が、実は、まやかしに過ぎない、ことを、示している。

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8月27日(月)−寄り添う

 公共放送の偏重が、際立っている。政治的な中立は、公共のものだろうが、利潤追求のものだろうが、当然のこととされるが、一部の政党への、肩入れを批判され、今度は、逆の立場からの、意見ばかりが目立ち始めた。平衡感覚の無さは、この国の欠点とはいえ、だ。
 ある組織に、与するような、言動は、批判されるのが、当然だが、その一方で、逆の立場になれば、問題ない、という訳ではない。だが、批判的な視点を、重視する姿勢が、殊更に、評価される風潮に、乗りさえすればいい、とはいかない。だから、現状を眺める限り、例の公共放送の、政治色の強い、報道姿勢を、評価することには、強い抵抗を覚える。しかし、公共性を強調する為に、権力を批判する姿勢を、貫くことは、公共性も、中立性も、全て失うこととなる。にも拘わらず、何故、あれ程に、批判的な伝え方を、選んでいるのだろうか。現経営陣の、ある考えに、基づく転向と、思われるのだが、極端に走ることで、批判をかわそうとする戦略は、何事につけ、失敗への道を、邁進することとなる。まさか、それさえ、気付かぬ訳でも、あるまいが、論調は、強まるばかりで、それが、視聴者の賛同を、得る手立てだ、と信じているかの如く、思えてくる。どうにも、止まりそうにないが、本来なら、愚かな政治家が、以前口走ったように、認可を預かる機関から、厳しい指摘が、出されたとしても、それを、圧力と感じる人は、少なくなっているのではないか。それ程、極端に走るから、皆からの信頼は、既に、失われていると思えるが、当人達は、気付く気配も見せず、暴走を続けている。世論を味方に、とは、政治家に、よく聞かれる話だが、あの放送局も、そんな気分で、走り続けているのかもしれない。しかし、報道とは、そういう位置からではなく、あくまでも、中立を保つべきものなのだ。

(since 2002/4/3)