災害に面した時、どのように処すべきか、論じられている。確かに、被害を、最小に抑える為に、講じるべき手立ては、数多くあるに違いない。心の準備だけでなく、様々な備えが、必要との声が多く、災害が起こる度に、心を新たにして、見直すことが、肝心だろう。
だが、そんな思いを、打ち砕く程、甚大な被害を、生じる災害に面した時、人は、無力を感じるしかない。どんなに準備しても、これでは、という思いが過ぎり、無力感だけが、残される。でも、そうなのか。別の見方を、してみる必要は、ないのだろうか。例えば、夜中の災害では、避難の機会を、掴むことも難しい。特に、地震によるものでは、予期なく襲われるだけに、あらゆる準備が、始められない。先日の、裏山が崩れた住宅地の、画像が映し出された時、初めに過ぎった考えは、何故、こんな場所に、住んでいたのか、という疑問だ。同じように、液状化に襲われた、住宅地の姿も、何故、としか思えなかった。住む場所の選択は、誰もが自由にできる、とされる。条件を検討し、住環境を考慮することで、一時の住処だけでなく、終の住処さえも、決めていくのだ。だが、環境という要素で、利便性ばかりに、目を奪われていないか。上に挙げた二つの例は、危険より、便利を、優先させた選択、とも思える。崩れた山は、脆弱な地盤を、露わにしており、地震だけでなく、豪雨による災害の、可能性も考えられる。直前に、かなりの雨量があったことも、今回の惨事の、原因の一つかもしれない。だが、広大な農地の端に、住宅が集中する光景は、様々な要因によるものとはいえ、結果としては、不思議なものに映る。これまでの地震の後にも、今回程ではないが、液状化が起きたと伝えられる、住宅地の、凄まじい光景も、遠い昔の地形から、予想外とは、言い難いものとなる。災害以前に、未然に防ぐ手立てが、あることに、気付かねば、虎の子の財産ばかりか、命まで失うことになる。
工業大国からの転換を、図っているのだろうか。安価な労働力を、最大の利点として、その地位を築いた後、最先端技術を、前面に押し出すことに、成功することで、より高みへと伸し上がった。だが、その地位を、退いたのは、また、安価な労働力を、武器とする国の台頭だった。
同じ道を歩みつつ、同じ過ちは、繰り返さない、という戦略を、隣の大国が、取り始めたことで、折角築いた地位も、砂上の楼閣の如く、崩れ始めた。一部の最先端技術に関しては、まだ、頂点を譲る事態には、至っていないが、全体として見れば、後塵を拝する状況に、甘んじるしかないように思える。だから、という訳で、別の選択肢として、突如、持ち上げられたのが、観光大国への道、である。遥か極東の地、と呼ばれたのは、移動手段が、整っていない時代のことだが、今でも、学校で教わるのは、近代化前の状況だったり、文化理解も、誤解ばかりだったりする。画面で紹介されるのは、現代の姿だから、余りの格差に、驚くと共に、行ってみたい、という欲求が、現れるからだろう。訪れる外国人の数は、鰻上りとなり、世界最大の観光地を、目標として、更なる集客を、目指している。彼らの驚きは、単に、近代的な町並みだけでなく、そこに住む人々の、一種独特の心持ちなのだ。見ず知らずの外国人に、手を貸そうとする人の数は、驚く程多く、その支援は、有り難いだけでなく、度が過ぎると思える程らしい。気配りの国、などと呼ばれるのも、島国に住む中で、周囲との軋轢を、避ける為の手立てによるものであり、国の特質の一つとされる。だが、この伝統も、そろそろ、失われ始めている。配慮する人間を、排除し続ける、身勝手な人々が、大きな顔をするだけでなく、ある地位を占める事態に、気配りは、損にしかならない、と思う人は、増え続ける。無遠慮な発言が、あらゆる場で、聞かれるのも、国全体が、そうなっている証左だろう。
若者達との考えの違いを、問題視する声が、出ているらしい。政治の世界に対して、身勝手な考えの、現政権が、暴走を始めている、と見る向きは、老境に達し始めた人々に、目立つようだが、若者は、正反対の考えを持ち、現状維持を、望んでいると言う。何が違うのか。
この違いは、今に始まった事ではない。成長期が終わり、停滞から衰退へと、移り始めた頃に、将来への懸念が、悪くても、現状維持の方が、という考えに、結びついたと言われる。それから四半世紀を経て、その考えが、何の益も産まず、衰退の勢いを、止めることさえ、できなかったことが、明らかになりつつある。下り坂に入った時に、そこで、止まれば、下がることは、起こらずに済む、という考えが、間違っていたことは、明らかだが、だからと言って、何を始めればいいのか、戸惑うばかりで、動きが取れない、となっている。こんな態度の若者に、年寄りどもは、腹を立てている。しかし、だからと言って、何かを強制する訳でもなく、じっくりと諭す姿もない。ただ、不平不満を、口にするだけだ。そこには、相手を定めて、口煩く、意見を出すことが、いじめの一種として、社会から批判を受けてしまう、という懸念があるのだろう。結果、理解のある年長者として、打開策を授けようと、振る舞う人も居る。だが、これとて、動かぬ若者に、早晩、痺れを切らし、怒りを露わにするしかなくなる。だとしたら、もう、黙っておいた方が、いいのではないか。簡単に言えば、突き放す、ということだ。100年以上前に、話題となった小説の中で、漱石は、当時の高学歴の若者達の、悩みを著した。中で、彼は、世間から、忘れ去られるかの如く、隠遁生活にも似た、日々を送る人を、描いていた。よく似た状況だが、今と違うのは、余計な手出しがなく、放置していたことだろう。歴史は繰り返し、同じ状況なら、放っておくことだけが、唯一の手立てなのかもしれぬ。
昔取った杵柄、と言う程ではないが、記憶の片隅に、残っているものを、引き出された気分、の人も居るのではないか。健康食品の話は、平均寿命が、伸び続ける中で、重要なこととして、紹介されるようになった。その中で、ビタミン剤などの、サプリメントも、話題となる。
食品からでは、摂り切れないものを、補う存在として、サプリメント、栄養補助食品なるものが、ある。通常の食品なら、飛んでもない量を、食べなければ得られない量を、たった一粒の錠剤で、摂取できるという、触れ込みで、手軽な健康法として、盛んに取り上げられている。昔から、ビタミン剤として、多くの人が、手にしたものだが、最近は、それに加えて、新たな栄養を、含むものが、紹介されている。ビタミンは、体調を整え、不足による発病を、防ぐものとして、必要とされるが、それ以外にも、元々、体を作る材料として、食物から摂取していたものが、それ以外にも、体調に関連することが、紹介されて、摂取を促される。眠りを促す作用や、活動を高める作用など、人々の悩みに、応える形の機能が、並べ立てられるが、その中に、学校で習った単語が、出てくると、懐かしく思う人も、居るのではないか。アルギニンは、過去のものとなりつつあり、今は、オルニチンとシトルリンだそうだが、これらは、アミノ酸の一種と言われ、疲れが溜まった、現代人に、必要な栄養素、と紹介される。何処かで聞いたことが、と思った人は、嫌々ながら、習い覚えたことを、記憶の片隅に、仕舞い込んでいるのだ。高校生物で、遺伝子のことが、取り上げられたのは、半世紀程前からだが、その中で、実験事実として、紹介されたものの一つに、一つの酵素が、一つの遺伝子から、作られることを、証明した実験がある。それは、体内で起きる、一連の化学反応に関するもので、アミノ酸の名が連なり、上に挙げた三つが、並んでいたのだ。成る程、大切なものなのだろう。でも、反応で作られるのなら、一つで良さそうだが。
選択と集中、本来、基礎となるものが、確固たる状況の中、更に、どこに、新たな投資先を、見つけ出すか、という段階で、用いられる戦略だ。だが、この国の政策は、表向きは、そんなふりをしつつ、実際には、基礎に注ぎ込む予算にまで、影響を及ぼしてきた。
どこが違うのか。既に、明確になっているが、この戦略を、実行に移したのは、基礎的な配分を、削減する方針が、確定したからであり、その減少分を、補う為の手立てとして、本来の配分だけでなく、それに付随する予算を、該当する組織に、振り分けることで、用意されたものだ。だが、減少分に比べ、付随予算は、微々たるものであり、国の財政を預かる役所にとって、格好の節減策として、お気に入りのものだった。だが、基礎配分を、減らし続けた結果、組織の力は、はじめは徐々に、それが、いつの間にか、急速に減退することとなり、次代を担う人材の育成までもが、危ういものとなりつつある。本来、選択と集中は、研究への補助金にのみ、適用されるものだが、基礎の方は、教育機関の役割である、教育そのものに、割り振られるものだから、弱体化が、著しくなるのも、当然のことだ。更に、状況を悪化したのは、教育者の本来業務が、選択へと力を注ぐ中で、疎かになったことも、負の要因が、重複した結果、と言われる所以だろう。この中で、悪政を率いてきた連中は、懲りることなく、より良い選択を、するための手立てを、講じようとしている。彼らの愚かさは、自らの失政を、反省することなく、別の悪球を、投げようとすることで、検証なく、続けるばかりか、何の根拠もなしに、更なる愚行を、始めようとする所にある。基礎を、築くことは、簡単ではなく、一度、破壊したものを、修復することも、容易ではない。だが、ここまで落ちてしまったら、意を決して、それに励む必要がある。本当に、手遅れにならぬうちに。
辞めた人間は、前居た所に関する、意見は出さないもの、と、昔は決まっていた。後進に、任せたのだから、という意図かと思ったが、どうも、そうではないらしい。国の役所の場合、意見を出せば、内情を漏らすことに、なりかねず、守秘義務違反、と見做されかねないからだ。
では、何故、最近は、苦言を含め、様々に意見を、連ねるのだろうか。義務については、変化はなく、破れば、罰を受けるだろうが、現実には、大したものでは、ないらしい。それより、世論の後押しが、心強い為か、事実を並べれば、罰せられるより、評価される、となっている。だから、官僚の頂点にあった人々さえ、嘗て勤めた役所の、問題点を指摘し始めた。学校の認可に関して、話題になった元次官は、様々な圧力下で、本来の業務が、妨げられたとさえ、指摘したことから、政府を挙げて、人格攻撃にも似た、妨害を受けた。今回のものは、それに比べれば、遥かに軽く、大した影響を、及ぼすように見えないが、発言者自身は、今ある問題を、勇気を持って、指摘したと考えたようだ。国立大学は、この国の学問水準を、保つだけでなく、輝かしい文化を、維持する為に、大きな役割を、果たしている。にも関わらず、法人化後の、予算削減が著しく、成長はおろか、維持さえ困難な状況に、陥っている、との悲鳴が、当の大学から、発せられていたが、肝心の役所は、海の向こうの大学運営が、こちらにも適用可能との考えから、衰退の数字が、明らかになっても、削減の方針を、保ち続けている。財務に当たる役所が、全省庁に、圧力をかける中で、抜け駆けは許されないが、今回の意見は、海の向こうとこちらで、事情が大きく異なることを、改めて指摘し、施策変更を、訴えたものだ。嘗て、監督官庁の長だった人間の意見は、重く受け止めるべきだろうが、何故、在任中に、声をあげなかったのか、不思議に思う。多分、言える状況にない、というのが理由だろうが、それでは、行政は、悪くしかならない。勇気を示すなら、もっと早くすべきだった。
任せるのは、信頼があるから、とか、自立を促す為、とか、場合ごとに、理由は様々だろう。だが、最近話題になるのは、一度任せたのに、注文をつけたり、指示を与えたりと、口に出す人が、増えていることだ。極端な場合、任せた人間を、解任することまである。
間違いは、正さねばならない、と考えれば、ごく当然の措置だろうが、振り回された人間には、たまったものではない。自分のやり方で、と言われたからこそ、自分流を、押し通したのに、それが効果を、出せなかったとして、任を解かれたのでは、泥を塗られただけで、恥をかかされた、とさえ思う人もいるだろう。だが、組織を第一に考えれば、こんなやり方も、仕方ないとの風潮は、強まるばかりに思える。特に、弱者保護は、訴えても、組織の長たる人間は、権力を有するのだから、保護の対象にならない、となる。だが、これは、勝手な解釈に過ぎない。強者とされた人間が、その権力を、奪われれば、弱者に転じる訳で、転落の事実を、無視するのは、身勝手が過ぎる。国の運営においても、任せるとの考えが、中核を成すようだが、裏事情を無視しては、正当な判断は下せない。護送船団方式、などと揶揄された、運営方法は、目標達成に向けて、補助金の配分などを、操作することで、国全体が、邁進するものだった。私企業と雖も、国の繁栄に向けて、協力を、強いられる制度だが、結果として、収益が上がるから、問題は起きなかった。しかし、今では、このやり方を、実行に移す力さえ、国は持ち合わせていない。理由は、袖が無いからで、予算削減が、急速に進んだ結果、各企業が、それぞれの力で、努力を続ける、となったからだ。だが、任せた筈が、施策などと称して、口を出し続ける国に対し、不信感は強まり続ける。お上の口出し、と言えば、それまでだが、懐具合は、惨憺たるものだ。実は、悪政によるものとはいえ、自らの首を絞める、減税政策が、大元にある。崩れた均衡は、簡単には、戻りそうもない。