言葉は、伝達の道具である。意思疎通の為に、道具を、使いこなすことは、不可欠となるが、どんな道具を、使うかも、重要な問題となる、と言われる。それが、どの言語を使うか、という主張に結び付く。母語では不十分だから、他国の言語を、学ぼうとする動きに、繋がる。
特に、世界共通言語の一つと言われる、英語の学習は、戦後からずっと、一大問題として、捉えられ続けてきた。だが、解決への道は、未だに、見えて来ない。確かに、流暢に使いこなす人を、羨望の眼差しで、見つめる人が多いが、そこに至る道筋は、殆ど見えていない。学校教育で、一律に、学んでいるのに、何故、このような差が、生まれるのか、見えていないからだ。だが、個人それぞれに、独自の努力を、積み重ねることで、羨ましがられる、水準に達しているといたら、学校だけでは、不十分となり、別の機会を、手に入れる必要がある。それを、実行に移す人も居るが、何か、足りないことがある、と感じる人が、増えている。道具が揃っていても、肝心なものが、足りないと感じるが、それが、何かに気付かない人が、多いのだ。意思疎通の道具に、目が向くだけで、肝心の中身に、誰も注意を払わない。ただ、下らないことを、喋り続けているだけで、議論を始めよう、という気持ちが出てこない。では、議論の中身を、考える必要が出てきた時に、どんな道具が、必要となるのか。こちらの議論は、殆どなされていない。実は、言葉が、必要になることに、変わりはない。ただ、相手が居ることではなく、自身の頭の中で、組み立てるための言語であり、それは、母語となる場合が殆どだ。しかし、意思疎通の道具の習得に、目を奪われる人々は、肝心なことに、気付かないらしい。そろそろ、この問題に、立ち返る必要があるだろう。どこから始めるのか、問題に思えるが、やはり、議論、話し合いなど、材料を用意させることからだろう。それも、母語で。
友達が居ない、という悩みを、抱える人や、友達を失いたくない、という悩みを、抱える人が、世の中には、溢れている、と言われる。仮想空間を通して、人と繋がることが、現実世界のものより、重要と考える子供が、急激に増え始め、他人との関係性が、難しくなる。
目の前に立つ、人との会話を、楽しむよりも、SNSを通して、多くの人々との、会話を楽しむ方が、楽しい、というより、重要である、と考えるのが、若者の主体となることで、それに馴染めぬ子供は、排除の対象となる。だが、個人間の関係より、集団の中の関係は、より多くの友達を、失うことになるから、その憂き目に遭いたくない、と思うのが、自然なのかもしれない。こんな話題を取り上げた、本が出版されたのが、10年程前と、紹介されていたが、記憶に残るその本を、読んだのは、4年程前のことだ。印象には残っているが、その寄り添う姿勢に、今一つ共感を得られなかった。それが、今また、話題になっている、と報じていた。趣旨は変わらず、悩みは、当時話題になったことと、同じままである。だが、学校で紹介され、手に取り易い新書の形だから、多くの若者が、手にしている、と伝えていたが、真意が伝わるのか、疑問に思う。何故なら、身勝手な考えを、持つ若者達に、寄り添うのは、結局、勝手な解釈を、許すだけであり、単純には、逃避に走らせるだけに見える。では、どうすればいいのか。これは、一つのきっかけに過ぎず、ここから、どこに向かうかが、実際には、肝心となる。それを、どのように進めるかは、人それぞれで、その方法を、示すことは、難しい。それを見つけるのは、やはり、個人の課題となる。では、どうやって、という疑問は、自分で、解決しなければ、何ともならない。それを、教えてくれるのは、誰でもない、自分自身なのではないか。それに気付いてこそ、次の展開が望める。さて、どうする。
意見は、色々とあるだろうが、それでも、変化が起き、いつまでも、同じままに、捨て置くことはできない。変わった部分に関して、それぞれに、対応を変えたり、受け入れたりと、これも様々だが、いい方に向けようと思えば、それなりの、努力が必要となる。
だが、それまでなら、流れに任せて、それに乗ることだけを、考えれば良かったが、こういう大きな変化が、起きてしまうと、どちらに向かえばいいのか、という点も含め、自分達で、どうすべきかを、考える必要が出てくる。そんな見方で、現状を眺めると、うまく進んでいる面と、そうでない面が、やはり混在しているように、見えてくる。はじめの計画に、固執するあまり、変化に合わせることなく、徐々に、問題が露呈する所もあり、どれほど重要な考えでも、修正をすべきものが、多いことに、気付かされる。危機に瀕したのだから、それに備えるべき、という考えも、当初は、多くの賛同を得ていたが、その後の展開から、危機への備えが、実は、その後の回復に、妨げとなることが、明らかになりつつある。それでも、絶対条件として、設けられたものに、反対を唱えるのは、勇気だけでなく、かなりの熱意が、必要となる。場当たり的な意見では、目標に向けて、邁進する人々を、説得することは、難しいだけに、論理性も含め、内容を充実させ、説得力のあるものを、作り上げる必要がある。だが、本当に必要なことは、一度決めたからと言って、その後の議論を、排除することなく、話し合いを続ける、ということではないか。人間の考えは、どれ程深く行ったとしても、所詮、その場の思いつきに過ぎず、足らない部分が多くある。それを補う為に、時に立ち止まり、考え直すことを含めた、見直しを徹底することが、必要不可欠となる。だが、現状はどうか、かなり心配な状況に、見えている。
複雑な心境、と言えば、そうかもしれない。復興を願う気持ちと、被災地であり続けることには、心理的には、大きな乖離がある、と言われる。元に戻れば、何事も、無かったの如く、感じられるから、それでは、被害を受けた、という心情は、蔑ろにされ、温かさを失う、となる。
だが、これは、矛盾以外の何物でもない。元に戻らなくても、別の形になったとしても、悲惨な状況から、脱するわけで、特に、眼に映る光景では、歴然とした差が生まれる。そこから、訴えるものは、ほぼ全て消失し、目新しい街並みが、あるだけとなる。被災の記録が、無くなるというのは、人によっては、失った人々を、忘れ去ることと、同じように感じられ、再び、辛い思いをするかもしれない。しかし、いつまでも、同じ状態では、人は生き続けることが、できないだろう。記録を残す為に、映像や文書の形で、保存するのも、語り部を置き、起こった事実を、そのままに、伝えようとするのも、それぞれ、手法の一つとなる。全体としては、それで、殆どのことが、片付くわけだが、個人的な心情は、その個人が伝えねば、早晩失われてしまう。また、周囲の、個人への反応も、被災という事実が、抜け落ちるのは、時間の問題であり、それが、辛いという声を、漏らす人々も多く居る。だが、これは、矛盾に満ちた状況であり、それを、放置していては、別の問題が、生じてしまう。では、どうしたらいいのか。単純には、被災という事実は、記録として残し、それを、記憶として、残るかどうかについては、個人の自由に、任せるしかない。ただ、そこで、その個人が、権利を主張し、被災者であることを、望んだ場合には、どんな対応が、必要となるのか。おそらく、それについては、記録の一部として、残すことはできても、認定を与えるのは、無理があるだろう。原状復帰が、原則の考えだけに、それが手に入ったら、それまでのことなのだ。そこからは、やはり、個人の問題となる。
どちらを取るか、迷っているのだろうか。だが、選択の目的が、どちらが、より有利となるか、ということだと、当人以外には、どこか釈然としない、感覚が残る。もう済んだこと、と思っていたのに、戦後70年を超えてもなお、どちらを取るかが、問題となるのに、驚かされる。
人類史上初めての、大量被曝という経験は、一握りの人間ではなく、多数の人々が、関わることで、その影響を、被曝者本人のものだけでなく、子孫へのものまでを、見極める機会を与えてきた。研究上は、確率でしか、物を言えない状況とはいえ、多数のデータに基づく、ある意味、確かなものを、示してきたが、人々の感覚は、被爆者だけでなく、何の関わりもない、周囲の人間を巻き込み、複雑な様相を呈していた。だが、これまでの積み重ねから、結論は導かれた、と思えたのに、今更の如く、蒸し返すような、話が出されている。その目的は、関係者にとって、何が有利となるかを、決めようとするもので、科学的な証拠に基づくより、感覚的なもの、心理的なものが、優先される中で、議論は、あらぬ方に向かっている、ように見える。感情に走れば、不確かな結論しか、導けないと思うのは、冷たい感情を、持つと言われる、科学者なのだろうが、一体全体、何を導きたいのか、この議論の目的が、全く見えていない、と断言したくなる。ここでも、弱者や被害者が、特別扱いにされ、それを優先することで、確かさが、危うくなることにさえ、違和感を抱かぬ人が多い。生物を相手にすれば、例外は常に存在し、それを含めた上で、全体として、どのような傾向があるかを、論じる必要がある。だが、確率的な話を、忌み嫌い、寄り添いという、感情に基づく行動を、賛美する風潮の中では、そんなものは、的外れであり、非人間的な言動と、断じられる。にしても、被害者と括られる人は、影響が残っていることを、望むのか、それとも、何もないことを、望むのか。前者であれば、異常を抱え、それを子孫にまで、残すことになる。ここの心理が、理解できない。
右とか左とか、考え方の違いで、極端に分類されるらしいが、その基準は、はっきりしない部分もある。その為、人によっては、何がどう違うのか、全く理解できないまま、どちらか、極端な方に、分けられることに、疑問を抱く。だが、分類する側は、明確な違いがある、と言う。
これとよく似たことが、意見交換の場でも、起きているようだ。極端な意見を、互いに出し合い、主張を繰り返すばかりで、歩み寄ることがない。結論は、どちらか、極端なものになるだけで、互いの意見を、吟味しながら、より良い結論を、導こうとする姿勢は、見られない。だからこそ、右か左か、立場を、明確にすればいい、となるのだろう。そういう分類でなくとも、二つの極端な意見の、どちらに与するかで、態度が明確になり、それを貫くことが、互いに、決められている。こんな議論を、繰り返している状況で、何を、目指しているのか、全く見えてこない。自分の意見が、採用されれば、それが勝利であり、その後の優勢を、手に入れられる。だが、それが、最善策であったかは、その後の展開により、賛成した人々は、いい結果が得られるように、努力を続けるが、反対した人々は、事ある毎に、批判を続け、問題点を指摘する。そこには、改善を繰り返し、より良くしようとする意図は、全く無く、逆に、失敗へと結びつくように、導こうとする。同じ組織に属しながら、こういう状況に、陥るのは、元々の体制が、誤った形になっているからで、根本から考え直さなければ、是正は見込めない。なのに、罵り合いを、続けるだけの人々に、その資格はない。だが、今や、世界中が、そんな状況にあるのではないか。議論好きの人々が、徹底的に議論を尽くし、より良い結論を目指す、という、論争が、盛んだった時代と違い、今は、賛否を問うばかりで、話し合いが、起きそうにない。
弱者とか、少数派とか、言い方は、色々とあるだろうが、最近は、強弱の関係が、引っ繰り返ったのでは、と思えることが多い。確かに、地位としては、弱い立場にあるし、数の上でも、少ない方なのに、何故か、皆の支援を得て、強い立場や多数派に、勝つことができる。
皆の賛同が、得られる状況に、見えるだろうか。一部には、その通りなのだろうが、どうも、度を過ごし、極端な事例となる場合が、極端に増えている。そんな状態では、却って、逆の状況を招き、強弱の関係が、逆転してしまう。それまでの状況から、良い状態になった、と思う人も居るだろうが、強い弱い、という関係は、まだ残っているのだ。そのままでは、強いと弱いの立場の交代があっても、その違いは、歴然と残るのだ。何故、こんな風にしか、ならないのか、と問うてみても、その答えを、見い出すことは難しい。今回、目にした事例も、性差別という表現が、使われることで、耳目を集め、それと戦うことを、高らかに宣言した人物に、賞賛の拍手が、送られていた。だが、その解釈自体に、疑問を抱く人間には、これらの行動に、首を傾げるしかない。理解できる部分もあるが、拡大解釈が適用され、論理性に乏しい主張に、何か、大切なものが、欠けている気がする。その一方で、筋書き通りの展開は、情報伝達に携わる人間にとって、理解し易いものに映り、それが、万雷の拍手、に繋がったものと思える。だが、それは、身勝手な解釈に過ぎず、真の意味での論理には、結び付かないものとなる。その結果、賛同が得られているように見えて、その実、中身のない議論へと、結び付くだけとなる。個人の解釈は、それぞれに属するものであり、他人と共有できるとは限らない。しかし、話題性を集めれば、それが可能となるとの思いが、誤った解釈に、終わってしまったようだ。