パンチの独り言

(9月17日〜9月23日)
(未知への旅、情報管理、奪い合い、続ける為、無関心、解説者、住んでいない)



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9月23日(日)−住んでいない

 大震災後、一時的に制御不能に、陥っていた、発電所の事故により、避難指示が出され、その後、事故が収束しても、帰還困難地域に、指定された町を、取り上げた番組を、編集したのは、出身者だった。復興への考えに、違いがあり、番組の内容は、町民には、受け入れ難かった。
 数々の批判に、晒された編集者は、どこに齟齬があるのか、明らかにしようと、別の番組を、企画した。居酒屋で、嘗ての同級生に、厳しく批判される、姿からは、戸惑いが、感じられた。住んでいない人間に、何がわかる、と罵られる姿には、同郷の誼みとは、全く異なる感覚が、滲み出ていた。確かに、そこに居ることが、全てに優先する、という考え方がある。だが、町議員に、なった同級生は、避難を機に、移住した人であり、その立場から、支援をしよう、と考えての立候補だった。それでも、遠くに住んだまま、何がわかるものか、という批判に、晒されれば、返す言葉は無い。廃炉に向けての作業に、当たる知り合いは、一度は辞めようとした、職に携わり続け、自分の役割と感じている。彼も、移住したものの、住民票は、そのままにし、それが、故郷との結び付きを、維持すると漏らす。どんな形にせよ、復興を、どう進めるかに、関わる手立ては、ある筈だが、編集者は、帰還町民との、違いを実感し始める。昔の姿を、取り戻すという復興と、新たな姿を、築き上げようとするものとは、明らかに違った結果を招く。だが、それらの思いには、同じ部分が、あるのではないか。だとしたら、そこにこそ、力を合わせられるのでは、という思いが、芽生え始めたようだ。これらの遣り取りを、眺めながら、この独り言を始めた直後に、書き記した話を、思い出した。イスラエルの混乱を、批判する外国人に、そこに住んでいない人に、何が言える、と言い返す人の姿を。

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9月22日(土)−解説者

 カフェ、と言っても、喫茶店ではない。10年程前から、都心で開かれるようになった、市民講演会、のようなもののことだ。カフェと呼ばれるのは、飲み物片手に、気楽に聴ける雰囲気が、作られているからで、小難しい科学の話題を、身近な存在に、しようとしている。
 世は、意思疎通の技術を、向上させようとする、動きが急になっており、それと相俟って、難解な科学の話題を、分かり易く説明する、機会を設ける動きへと、繋がったようだ。社会貢献を、謳う動きも加わり、専門家と呼ばれる人々が、次々に、登場することとなる。だが、研究最前線で、戦う人々には、たとえ、その為の資金が、税金によって賄われようとも、納税者の理解を、促そうとする、気持ちの余裕は、出てきにくい。そこで、引っ張り出されたのは、専ら、解説を生業とする、人々であり、多くは、元研究者だった。だが、経験豊かと雖も、分かり易さに、繋がるとは限らず、難しい話を、解きほぐすことが、できない場合も多かった。そこで、新たな人材、とばかりに、解説者の養成が、急務とされて、大学に、そんな講座を設ける所も、出てきたようだ。ただ、需要と供給の均衡は、すぐに保てる状況にはならず、俄か解説者では、真の理解に及ばず、表面的なものしか、達成できない場合が、目立つ結果となった。やはり、理解した上での、解説こそが、必要との声は、研究者だった人々への、要望の声となり、退職者の起用へと、繋がったのだろう。ただ、技術的な問題は、残ったままとなる。だから、少ない人材の奪い合いが、起き始めたのではないか。雨後の筍の如く、次々開設される、カフェの数は、今や膨大なものだろう。それほど、世間は、知識の獲得を、望んでいるのだ。だが、実態は、そこまで届いていない。やはり、餅は餅屋。退職者の、専門とした所を、話して貰いたい。

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9月21日(金)−無関心

 叱ることが、難しい、と言われる。大人も子供も、自主性を尊重され、思いつきと言えども、それを阻害することは、過大な圧力と、認識されるからだ、と言われる。だが、実態は、違うのではないか。他人に、口出しすることが、憚られる、というのが、真実では。
 圧力かどうか、については、諸説紛々で、受け手の問題、とされる限り、真相は、明らかとならない。これ自体も、重要な問題だが、そこに至る道筋において、経過が、論じられないことに、不信感が、強まるだけとなる。特に、子供相手では、叱る行為の多くが、いけないこと、危ないこと、を指摘するのを、目的としており、それが、果たせなくなると、子育て自体が、難しいものとなる。また、その過程を、経験しないまま、大人になった人間に、どんな危険性があるか、強い懸念が残る。欠陥人間、と呼ぶのは、憚られるものの、そうとしか思えぬ人が、身近に居るかも、となると、不安が強まる。圧力をかけるのは、萎縮させるだけで、人格形成に、何の効果も、得られない、という意見も、よく聞くが、程度問題に過ぎず、これが強調され過ぎて、逆の立場に、萎縮が目立つのも、近年の特徴だろう。何れにしても、触らぬ神に祟りなし、との思いが、心を占める中では、誰も近づかず、誰も目を向けず、そのまま、放置され続ける。親子関係にまで、この影響が及ぶと、子育ては、崩壊することとなるが、今の世相は、そのことに、気付かぬふりを、続けている。暫く前に、小学生が同級生を、殺害した事件で、その猟奇性や異常性に、注目が集まったが、不明な動機だけでなく、結果の予測が、できないままに、成長を続ける子供が、最近は、目立つと言われる。大人の関わりが、希薄になるばかりで、こんな人間形成が、放置されるようでは、社会崩壊が、すぐそこにある、と言わざるを得ない。

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9月20日(木)−続ける為

 画期的なことが、達成されたとしても、それが、個人の力によるものだと、継続性は、期待できない。発見や発明であれば、それでも、成果が、次の段階への、道筋を決めるから、問題は起きないが、日常的なことは、継続性が不可欠で、誰もが、できることが、肝心だ。
 典型なのは、教育だろう。公教育において、誰が、教壇に立ったとしても、同質の教えが、保証される必要がある。だからこそ、その媒体となる、教科書に、検定制度が施され、一定の水準を、保つ仕組みが、整えられている。それさえ使えば、誰が、教えようとも、同じ水準が、保証されることになる。実は、殆ど意識されていないが、教科書は、誰かに教えられずとも、自力で、理解ができるような、書き方がされている。悪者扱いが、頻繁にされるが、検定には、水準保持の意味が、あるのだ。その中で、優秀な教員に、光を当てる動きは、昔から、行われてきた。確かに、その成果は、あるのだろうが、これでは、公教育を支えられず、真似ができない、特殊な能力に、注目したとしても、無意味と思われる。それより、誰もが、できるようなことに、もっと注目すべきで、その普及に、力を注ぐべきなのだ。にも拘わらず、当たり前過ぎることに、誰も、注意を傾けず、放置した結果、各自の力に、頼るだけの仕組みが、作り上げられ、崩壊が、止められずにいる。教育に限らず、こんな話が、山のようにあるが、どれもこれも、手付かずのまま、放置されており、改善の兆しが見えない。確かに、個人の力に頼れば、統一規格を、定める必要もなく、管理者達は、眺めるだけで、済むだろうし、自由が、確保できるだけに、魅力のある制度のように、見えてくる。だが、それが、崩壊を進めるなら、止める手立てを、講じなければならない。誰もができる、その視点を、取り戻す必要がある。

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9月19日(水)−奪い合い

 努力が報われた、と聞くと、誰もが、よかった、と思うのだろう。報酬というのは、その一つとして、考えられることが、多いようだ。成果主義、という仕組みも、同じ考え方に、基づくものと言われる。だが、この仕組み、重大な歪みを、孕んでいるのではないか。
 基礎となるものに、加える形で、成果を、反映するとすれば、問題は起きないが、努力がなければ、基礎を崩す、という形が、加わることで、重大な問題が、生じている。努力の有無で、報酬が、異なるという意味では、同じことに、思えるかもしれないが、実は、大きな違いがある。限られた予算で、この制度を実施すると、全体の配分を、変える形でしか、実現できない。となれば、成果が得られなければ、基礎となるものさえ、奪われることになり、時に、最低限のことが、実現不可能となる。こんな書き方では、机上の空論、と見做すだろうが、実は、現実に、起きていることなのだ。ふるさと納税、という制度に関して、見直しを検討する、との報道があったが、これは、まさに典型的な制度で、別の自治体に、税金を納めれば、居住地への、納税が免除される、ということで、得る所があれば、失う所が出てくる。納税者にとって、新たな負担を、避けながら、税収を増やそうとする動きが、急に高まったが、現実には、返礼品という名の、出費が嵩むことで、全体の税収が、目減りすることとなった。その上、居住地で得られる便益に、見合う税金を、納めぬ人が、増えてしまっては、制度欠陥と言うしかない。現代社会には、これと同じ失敗が、山積みとなり、歪みによる、不利益を被る人が、急増している。補助金制度にも、そんなものが目立ち、基礎配分を、削減する為の手立てとして、政府や自治体が、挙って導入している。詐欺としか、言い様のない制度を、見過ごしてはいけない。

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9月18日(火)−情報管理

 管理の問題が、様々に論じられるが、何が基本なのか、触れられることは少ない。技術的な事柄を、取り上げることが、根本であるとの解釈が、屡々持ち出されるが、どうにも、的外れの感が否めない。小手先の対策で、全てが解決するとする、意見は、信用できない。
 皆が自由に、意見を発することが、できる仕組みについて、賛成の声が、大部分だろうが、それが、いつの間にか、改竄され、他人の名を騙って、好き放題を書き散らす、人々が居るらしい。それが、公的な機関に及べば、鵜呑みにする人の数は、一気に増すだろう。今の所、大衆を騙そうとするものより、単に、改竄によって、業務を妨害する目的の方が、遥かに多くあるから、逆に言えば、被害は少ないように見える。しかし、サイトの改竄が、できるのは、管理者に限られているから、それが可能であれば、全ての情報を、手にすることが可能で、それが、別の犯罪に結び付くことも、十分にあり得る。だからこそ、管理の問題が、これ程までに、強調されるのだが、組織として、その認識があるかは、怪しいもののようだ。任せる、という考えは、ここでも、大きな割合を占め、一部の管理者が、全てを、担当せねばならない。一方で、外部委託も、日常的に行われており、管理責任さえ、外に任せるのでは、あまりに無責任だろう。これが、情報漏洩に繋がれば、責任がどこにあるのか、明確なのだが、そこまで、考えが及ばないのか、多くの組織が、委託に頼りきっている。その結果、攻撃対象となり、様々な被害が、伝えられるが、その責任を問う声は、あまり大きくはない。実際に、被害が出てから、考えればいいという意見は、管理という業務からすれば、明らかな間違いだが、どうも、そう考えているようにしか見えない。要するに、情報管理そのものへの、理解がない、という状態なのだろう。

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9月17日(月)−未知への旅

 通じない、というのは、確かに、不安なのだろう。電車に乗り込んできた、外国人は、駅に止まる度に、目的地かどうか、確かめようとする。しかし、駅名表示は、すぐには、見つからない。その中で、不安感は、強まり続ける。自分達には、わからない違いが、そこにある。
 言語の違いは、こんな所に、現れてくる。外国を、旅行してみれば、理解できることだが、目に入る言葉と違い、耳に入る言葉は、その場で掴めなければ、理解に及ぶことはない。電車で見た外国人は、まさに、その状態にあったのだろう。車内放送では、駅名を伝えているが、そこに注意が及ばない。母語であれば、すぐにわかるものが、外国語となると、途端に、困難が伴う。たとえ、言葉として、理解していても、話の流れの中で、それが、使われると、聞き取ることができないのだ。これは、自分の経験としても、わかる部分がある。理解できる言語と、そうでない言語で、母語以外でも、状況が異なってくる。一部しか聞き取れなくても、話の流れに、ついていければ、そこに嵌め込まれた、駅名を聞き取ることができる。情報伝達、意思疎通、こんなことに、様々な要素が、関わっていることが、よくわかる話だろう。それにしても、こんな状態でも、見知らぬ土地を、旅したいと思う。人間の欲望は、不思議なものだ。新たな刺激を求め、未知を求めるのだ。それを知ることで、別の自分を、作り上げることが、できると思う。だからこそ、金と時間を、かけてでも、旅に出かけるのだ。本当は、言葉が通じれば、もっと楽しいことが、あるのではないか。そう思う人々は、知らない言葉を、習得しようと、努力を積み重ねる。意思疎通の道具として、言語を習得する、という意識には、何の違いもないが、学校で習うこととは、目的が明らかに違う。ここに、習得の秘訣が、あるのかもしれない。さて、どうすべきなのか。

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