公僕とは、公衆に奉仕する者、という意味とある。そのまま、受け止める人の数の方が、遥かに多いと思うが、歪曲した見方を、する人々は、文字の持つ意味から、「しもべ」と見做し、隷属する者、と受け取るらしい。自由が保証されるにしても、勝手過ぎるのでは。
彼らにも、人権がある、との主張に、誰も、反論するつもりはない。何故なら、明らかな曲解を、施した上で、論理を展開する、だけなのだから。命令に従うかどうかは、別にして、公の利益を、追い求める為に、滅私奉公する存在、と考える人は、多いだろう。だが、この所、頻発する不祥事には、そのような雰囲気は、微塵も感じられない。公より、個を重視し、その利益を求めた結果、不祥事へと繋がり、処分を受ける。結果だけ見れば、一般大衆と、何も変わらず、公僕としての姿は、消し飛んでいる。驚くべきは、下部組織に対し、様々な文書が、配布される中で、禁止事項として、明記された事柄を、見事に、実行している点であり、末端と、中核の、違いを、解釈に採り入れたのか、とさえ思える。金銭の授受だけでなく、接待などの便宜に対し、徹底的に避ける必要を、明記した通達は、一体、誰が出したものか。組織の頂点を占める人々が、「そう思わなかった」と呟いた、となれば、恥の上塗り、以外に何と言える。SNSでの発言への注意も、同様に、通達されていたが、この所、話題にしている本の著者は、在任中の、匿名発言を、堂々と記している。それも、政治的なものとなれば、厚顔無恥としか、受け止められない。今一度、公僕としての役割を、自覚すべきと、思う人も多いだろう。しかし、こんな連中が、教育行政を、捻じ曲げ続け、それを、政治家の責任に、転嫁して、私服を肥やすようでは、そんな自覚は、生まれる筈もない。宰相批判も、愚者が愚者を、嗤うようにしか見えない。悪貨は、世に溢れてしまったのか。
注意を払うとは、どういうことか。注意深さとは、どんなものか。そんなことに、注目したことは、ないだろうか。がさつな行動が、叱責される時、不注意と言われることは、多々ある。だが、そんな人間にとって、何が注意で、何が不注意か、区別がつかないようだ。
誰かを見張る時、何かを観察する時、誰もが、それに注目し続け、目を逸らさないように、心掛ける。がさつと呼ばれる人の行動は、これとは、全く異なるのだろうか。実は、そうでもないだろう。そんな人でも、見張ったり、観察する時には、目を逸らさず、集中する。だから、意識した行動で、そんなことが、起きることは少ない。では、どんな時に、不注意が、問題になるのか。見張りや観察で、注意を払うのは、当然のことだろう。そこでさえ、ちゃんとできない、となれば、欠陥ありとされる。ただ、最近、話題になっている、そんな人々は、殆ど、症状名を付けられ、分類されている。何とか症候群、と呼ばれる人々は、心や頭の問題を、抱えている者として、他とは区別される。だが、がさつは、それとは違うようだ。病気ではないが、問題を抱えている、とされる人々は、様々な不注意が、発覚することで、周囲の信頼を、得られずに居る。では、どうしたらいいのか。これが、簡単に解決できれば、苦労はしない。多くは、意識することで、間違いを、犯さぬように、努めるようだが、実際には、集中力が、途切れた所で、何かが起きる。となれば、集中力を、長続きさせるには、となるが、そんなことを続けても、おそらく、改善は見込めない。誰でも、意識と無意識の時間が、存在する訳で、それを避けることは、無理難題なのだ。だとしたら、どうすればいい。まあ、無理は無理、と諦めることだ。ただ、不注意の原因は、見つける努力は、続けよう。大事に至らぬ前に、だ。
研究水準の低下、が危惧されており、その原因の一つに、不適切な予算配分が、挙げられている。本来、自由な活動を、保証する為に、最低限の予算を、確保することが、必要とされるが、実際には、そこさえ削られ、動きが取れない、とされるのだ。効率化の功罪だろう。
それを補う為と称して、記事にされていたのは、起業化という手立てだ。外から入らなければ、内で編み出すしかない、ということか、研究成果を種として、そこから、収入の糧を、育てようとする動きだ。実用化が、見込めるような成果であれば、これを端緒として、企業との協力や、場合によっては、独自の産業を、起こそうとするもので、これから得られた収益を、新たな研究活動に、注ぎ込もうとする。これによって、自立しようという訳で、一部のものについては、既に、実行されている。これを、更に推し進めれば、予算の更なる削減にも、対応できる、との期待が抱かれている。だが、大規模の大学では、多彩な研究活動が行われ、その成果の中には、実用化が、見込めるものも、見出せるだろうが、小規模の所では、多様性が限られ、実用の種さえ、見出し難い場合が、殆どだろう。時には、研究より、教育に力を入れ、学問の水準を、保つことこそが、最大の目的という所も、あるだろう。そこでも、一律に、予算が削減され、圧力は、強まり続けている。今回の事例を、華々しく、伝えることは、ある程度の意味を、持つに違いないが、問題の本質を、覆い隠すことに、繋がる場合があり、気をつける必要がある。最低限さえ、賄い切れない程、財政が逼迫する中で、どんな工夫が必要か、と思案に暮れる訳だが、本質から言えば、確保こそが、唯一の手段であり、それを、死守する必要があることは、明白なのだ。その問題から、目を逸らそうとする動きが、この報道にあるとしたら、困ったものだ。
卑怯者、という文字が、頭を過る。そんな感覚が、最近、増えていると思う。そんな話題に、触れる機会が、確かに増えており、伝えられる内容とは、明らかに異なる、印象を受ける。この違いは、弱者と括られる人々に対する、感覚の違いから、来るもののようだ。
親方と呼ばれる立場を、自ら退こうとして、皆の前で、話し始めた、嘗ての大横綱に、無敵を誇った、力強い姿は、一切感じられなかった。弱腰とか、弱気とか、そんな表現さえ、使われるようでは、弟子の指導も、覚束ないだろう。哀れな姿は、強者ではなく、弱者を思わせ、筋書き通りの展開に、進み始めたように見える。だが、こちらには、責任放棄、業務不履行、という印象しか、与えない。もうすぐ読み終わる、本の著者も、引責辞任と、官邸からの批判に、晒されていた直後は、まさに、弱い立場にある人間として、同情されてさえいた。その後、宰相とその妻の、嘗ての行状が、暴かれ始めると、途端に内情を暴露し、英雄視する声まで、出てくるようになった。だが、これまで読んだ中身からは、全く別の印象を受けている。公務員であった当時から、独自の考えを持ち、それを抱きつつ、国の方針に従うことで、責任を果たしていた、との意見は、独自のものでも、異常なものでもない。だが、それを、退職後に、吐露することにより、加担した責任を、逃れようとする態度には、卑怯以外の言葉が、浮かばなかった。守秘義務は、公務に当たる人間には、当然課されるものだが、職を退いた後も、適用されるのではないか。辞めさせられたから、その義務は、解かれる筈、とでも言いたいのか。だとしても、人の道を、踏み外したことに、変わりはない。はしたない程に、正当性を主張する人物が、子供達の教育に携わる、人々の上に立っていたことに、驚くばかりとなる。同じことが、嘗ての横綱にも、当てはまると思う。弱者なら、何を言っても許される、という図式は、そろそろ、切り捨てるべきだろう。
言論弾圧、などと書いたら、大袈裟な、と批判されるだろうか。だが、自由な意見を、掲げることができる権利を、侵されていることは、事実だろう。それが、更に、経営企業による、廃刊の決断に、結び付いたとなれば、明らかな圧力の結果であり、弾圧に違いないのだ。
この場は、訪ねる人もおらず、閑散としているから、懸念の必要は、無いだろうが、多くの人々が、行き交う場で、こんな意見が、掲げられれば、まさに、炎上となる、に違いない。これでは、上に書いたことと、同じことだ。まさに、弾圧であり、人権侵害の一つ、と見做すべき行為なのだ。怒りに任せて、相手の存在そのものまでも、否定する意見を、吐き続ける人の、心理を理解することは、不可能だ。何故なら、彼らは、正義感から、その暴力を、行っているのであり、世論は、その後押しをしている。こんな状況で、弾圧された側は、加害者と断じられ、被害者救済の名の下に、弾圧が、行われている。廃刊、という結果が、導かれたから、暴力行為と、見做すべきというのではなく、初めから、相手の意見が、誰かを傷つけたから、という理由を盾にして、言葉の暴力、としか言えない程に、強い圧力を、掛け続ける人々の、正当化はできず、暴言という意味では、立場の違いがあるだけで、何の変わりもない、とするべきなのだ。自由な選択を、それが導く結果から、批判した意見は、確かに、人々の自由を、奪うことになる。だが、そこで展開された論理は、学問上の解釈からは、当然のものに過ぎない。それを、否定することは、同じ論理からは、不可能であり、受け容れるべきことだ。だからこそ、批判は、別の所へ向き、馬鹿げた論争に、巻き込もうとする。非論理的な行為は、まさに、弾圧に繋がる。しかし、廃刊に追い込んだことは、彼らの勝利、と見做されるだろう。だからこそ、弾圧なのだ。
今、足らないものを、補う。これだけを、聞けば、当然、との反応が、返ってくるだろう。だが、それが、教育現場でのこと、となると、どうだろうか。今、大人達の世界で、足らないものを、子供達に、教え込もうとする。これを、当然のこと、と呼べる人は、居るだろうか。
子供の教育では、成長の過程で、必要なことを、一つ一つ、伝えていくことが、行われる。これは、大人は、皆全てが、持っているものを、過程の中で、積み重ねるように、築かせていく、というものだ。だが、いつの頃か、安定した時代が、長く続く中で、他人より、先手を打たせようと、親が、子供に、早まった教育を、施すというやり方が、広がり始めた。習っていない子供より、習った子供の方が、同じ事柄に関して、有利に働くことは、明らかだろう。それを実践したのが、早期教育、と呼ばれる動きで、本来、習うべき年齢ではなく、先駆けて、教えることで、一歩先を、進むことができる。だが、進む速度は、人それぞれであり、早めに出発しても、結局、追いつかれる場合が多い。その為、皆が習うことなら、時期の違いは、大した影響を、及ぼさない、と思われた。ところが、大人達も知らないことを、子供達に、という動きが、次々に起こり始め、混乱が広がっている。例えば、英語は、その典型であり、自分達の不足を、子供達に、補わせようとするが、無理が多いようだ。特に、教える側の、能力不足が、指摘されており、この問題を、解決する手立ては、未だに、見出せないままだ。そこに、新たな試みと、プログラミング、という技術を、習得させようとする動きが、加わってきた。ここでも、大人が、知らない世界を、子供に、という図式が、際立っているが、どう教えるのか、手探り状態にある、と言われる。確かなことを、確実に教えるのでは、駄目だと言われたのは、いつからなのだろう。
昨日の話は、相互理解の問題、と見做すことができる。互いの主張が、擦れ違う時、それが、理解の問題と見るか、それとも、別の要因と見るかで、実は、大きな違いが生じる。理解不足であれば、それを補う為の、手立てを講じれば、済む話だが、他の要因となれば。
様々な思惑が、飛び交う中で、理解の問題とする為には、互いの信頼が、必要となる。だが、信頼が得られぬままに、自分の思いと、異なる展開を、押し付けられたら、相手を、敵と見做すことも、起きる訳だ。それにより、僅かに残る信頼さえ、失われてしまえば、話をすることさえ、儘ならぬ状況となる。番組の企画では、失われかけた関係を、築き直そうとする意図が、表面に現れていた。同郷の誼みと、簡単に片付けることは、前の番組で、困難な状況に、追い込まれた。それを、どう元に戻すかが、企画の根幹となるものだったろう。しかし、言葉は、激しくないものの、町民からの反応は、総じて、厳しいものとなっていた。それでも、話を続ければ、何かしらのきっかけが、作り出せると信じ、取材を続けていたが、結局、緒に就いた、所までだったようだ。決別という、最悪の展開は、何とか脱したものの、これでは、互いの信頼が、強まったとは、言えない状況である。次の企画で、その後の展開は、報告されるのだろうが、果たして、どうなるのか。これは、被災者、被害者と呼ばれる人々と、それ以外の人々との間での、葛藤の一つとなる。しかし、立場の違いを、いかに理解しようとしても、それが、明確なままでは、結局、間に築かれた壁は、取り除くことが、難しくなる。立場の違いを、取り除かない限り、次の段階へと、進むことは、不可能なのではないか。加害者と被害者、被災者とそうでない者、その違いは、歴然としているだけに、棚に上げることは、難しく感じられる。だが、それを行えば、何か、違うことが、起せると思う。