パンチの独り言

(10月1日〜10月7日)
(耳障り、無駄な努力、施し、嘘の上塗り、軽蔑、手抜き、ゴミ捨て場)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



10月7日(日)−ゴミ捨て場

 早晩出てくる、と書いたものの、相変わらずの、無知な展開が、続いている。その中心を、担っているのは、件の人物から、不見識を揶揄された人々だが、上辺しか捉えない、と断じておきながら、舌足らずの指摘を、投げ掛けるのは、発言者の思惑なのだろうか。
 それでも、良識的な発言を、掲げる人々からは、既に、多数の指摘が、なされている。それを見つけて、捨てたものではない、と思う人もいるだろうが、現実には、ほんの一握りにすぎず、大多数は、不見識な人と同程度か、更に悪質な発言まで、垂れ流されている。9割は嘘、との発言は、論文に向けられたものだが、一連の流れの中で、教科書に書いてあることも、疑うべきとも、発言していたようだ。その二つを、結びつけて書き込むのは、とても良識とは呼べない。彼らの多くは、印象に残ったことを、十把一絡げに、まとめてしまう性癖があり、偏見に基づき、他人の発言さえ、歪曲することに、何の躊躇いも感じないのだろう。自らの意見を、強固にする為なら、作為や捏造などは、屁とも思わない。これこそが、9割の根源であり、多くは、結果に基づき、解釈を施す中で、自分の意見を表明するが、中には、有り得ない論理を、展開したり、時に、自分の考えの正当化に、捏造さえ、行う輩まで居る。とは言え、かの発言は、そちらではなく、単に、解釈の誤りが、多いことを、指摘しただけで、捏造による成果などという、ゴミに関しては、眼中にないだろう。誰もが、意見表明できる場は、確かに、多くの機会を、多くの人々に、与えたのだろうが、無尽蔵とも思える、貯蔵があったからこそ、実現できたに違いない。だが、嘗ての夢の島の如く、公共のゴミ捨て場が、できたからといって、勝手に捨て続けては、そのうち、崩壊してしまう。使い捨てが減り、処理方法が、変わったことで、あの場所も、別の使い方が、できるようになった。この意見表明の場も、そういう時が、やってくるのだろうか。

* * * * * * * *

10月6日(土)−手抜き

 喫緊の課題とは、すぐに解決せねばならない、重要なものを指す、と思う人は多い。だが、頻繁に使われる、この言葉は、実は、解決できないこと、を指すことの方が、遥かに多いようだ。つまり、喫緊などという表現は、ただの飾りに過ぎず、掛け声だけに終わる訳だ。
 何度も取り上げてきたから、その度に、少しずつ異なる話題となる。長年書き続けてきたから、そんなことも、度々起きるのだが、これもまた、喫緊と言われつつ、解決も出来ずに、いつも、表の一番上に、据えられるからだろう。そんなものは、幾らでもあるのだが、中でも、国を挙げて、取り組む姿勢を、示しているのに、何の成果も上げられない、人材育成は、まさに、喫緊であるにも拘わらず、効果的な手法が、見いだせないものだ。次々に繰り出される、珍奇とさえ思える、新手法は、鳴り物入りで、取り組まれるが、成果が得られぬままに、忘れ去られる運命にある。それどころか、新しい取組みが、始まる度に、新たな犠牲者が、続出するという事態に、至っているのだ。不慣れな教師と、戸惑う生徒の組み合わせで、こんな事態を招くのは、想像に難くない。目標が明確でも、道筋が見えないのでは、暗中模索となり、振り回された挙句、打ち捨てられるのが、関の山だろう。彼らを、犠牲者と呼ぶのは、確かに憚られるが、失敗の原因を、作った提案者の、机上の空論の、犠牲となったことに、変わりはない。人材育成は、学校に限られた話ではなく、社会全体が、取り組むべき事柄だが、何処も彼処も、失敗の連続で、役に立たない人間を、屑のように捨て去る。成果が得られず、新機軸が、また編み出され、それが繰り返される。無駄の連続だが、解決策は見つからない。一つだけ、確実な方法が、あるにはあるが、関係者が、忌避しているものがある。余計な手出しも、口出しも、しないという方法だ。各自の才能と意欲に期待し、そのまま放置する。放牧とも言われるが、何もしないのも、仕事の一つに違いない。

* * * * * * * *

10月5日(金)−軽蔑

 望外の喜び、と見る向きもあろうが、どうも、望んだ通りのこと、にも見えてくる。ある学問分野において、評価の頂点とされる、賞の選考の結果が、発表されると、この国の人々は、突然、科学通となるらしい。だが、受賞者を、過剰に持ち上げる風潮は、恥晒しでは。
 我が事のように、喜ぶことに関しては、特に、触れる必要もない。そういう国民性、と見ればいいだけで、気にする必要もない。だが、彼の発言を、取り上げる姿勢には、毎度のことながら、呆れさせられる。開発した薬が、効果を表すとされた、病気の患者達が、藁をも掴むように、我も我もと、押し寄せるのは、ある意味仕方のないことだが、これも、報道内容の不備が、招いた人災と言える。癌と一括りにして、違いを説明してこなかったせいで、こんなことが起きるが、それを、科学に疎い人間に、理解させるのは、難しい。まして、それに襲われ、余命幾許もない、と宣告された末期患者には、そんな気持ちの余裕は、ある筈もない。だが、画期的とか、特効薬とか、良い点ばかりを、強調すれば、今の過剰反応が、起きることは、容易に予測できた。にも拘わらず、騒ぐばかりで、冷静さを失う気質は、今回も、有害な影響を、及ぼしてしまった。これと同じと思えるが、彼の発言として、著名雑誌に発表された、論文の9割は嘘、と伝えた件も、馬鹿げた騒ぎの一つ、となった。真意は、別の所にある、との解釈が、早晩、出されることと思うが、問題は、彼自身の発言内容に、あるのではないか。謙遜を、表に出すことで、それまでの、賞という獲物を、追い求める姿勢を、覆い隠した結果、この発言も、含意あるものとして、伝えられたが、実際には、舌足らずであり、誤解を招くものだった。ただ、彼の性格からすれば、それ自体も、意識的に発せられたもので、他を批判することで、自らを、際立たせようとする意図が、垣間見える。

* * * * * * * *

10月4日(木)−嘘の上塗り

 政に携わる人間は、狼少年の如く、大袈裟な表現を、好むらしい。ただ、あの童話では、そんなことを、繰り返した少年は、最後に、災難に襲われた、となるのだが、こちらの愚かな宰相は、果たして、どんな難事に、襲われるのだろうか。本人の弁によれば、あれらしいが。
 本当に現れた狼に、食われてしまった、という結末が、伝えられるが、元の話では、世話をしていた、羊達が食われた、ということのようだ。では、国難として、少子高齢化を、取り上げた話では、どんなことが、起きるのだろうか。嘘は、政治家にとっては、糧となるものであり、時と場所さえ選べば、方便と見做される。とまあ、こんなことを書けば、嘘は嘘に違いなく、その末路は、かの少年と、同じ運命と、断じる人も多い。社会保障費の膨張に、手の施しようが、ないとする意見に、同調する人も多いが、特に、選ばれたい人に、それが目立つのは、彼らの下卑な思惑が、潜んでいるからだろう。昨日も書いたように、支出が増えれば、収入を増やさねば、経済は成立しない。子供の数が減り、長生きできる時代には、収入を支えられず、支出ばかりが、嵩むことになる。という論理から、国難などという、馬鹿げた表現を、好んで使う宰相は、ここでも、知恵の無さを、露呈している。大決断として、税率を、上げたことを、自慢気に話すが、肝心の消費が、冷え込めば、元も子もなくなる。元から毟り取らねば、この窮地を、越えることが、出来ないことは、多くの国民が、自覚しているが、人気取りしか興味のない、愚かな人達は、別の見方に、取り憑かれている。少子問題を、解決する為の政策を、講じられない、知恵の無さだけでなく、収支の均衡を、保つ為の手立てを、探ることさえ、できない人間に、国の行く末を、預ける身として、確固たる自覚は、築かれている。それが、通じぬ社会は、病んでいるに違いない。

* * * * * * * *

10月3日(水)−施し

 ダニとか寄生虫とか、そんな呼び方をすると、猛烈な反応が、捲き起こるだろう。弱者を、罵倒するような、言動に対し、現代社会は、徹底的に、糾弾する空気がある。確かに、弱い者を、虐めるのは、ならないことだが、果たして、彼らは、弱いのだろうか。
 支援の仕組みを、徹底的に利用しようと、躍起になる人々が、これ程まで増えるとは、誰が、予想しただろう。毅然とした態度で、自立を謳うのが、人間としての尊厳である、と信じてきた人にとって、彼らの行状は、異様に映る。だが、権利主張に、明け暮れる人々は、それを、当たり前のこととして、胸を張って、持論を展開する。時には、恥ずかしさを、感じる人も居るようだが、周囲の応援に、貰えるものは、頂いておこう、という気になるらしい。そんなことが、積み重なって、入るより、出て行くものが、多くなっているが、国のやることに、破綻は起こらない。だが、その一方で、将来の負債を、これ以上増やすことは、ならないという主張も、聞こえてくる。だからと言って、ダニや寄生虫は、実入りが減ることに、納得する筈もなく、文句を並べた挙句、元通りの施しを、確保しようとする。これでは、何の始末も、できないことになる。借金が膨らんでも、それが、返済できる見込みがあれば、破綻することはない。家計で言えば、こんな仕組みは、当然のことであり、自己破産すれば、その後の人生は、裏道を歩むしかない。だが、国家予算は、そんなことを、気にする必要はない。人気を勝ち取るために、弱者救済だけでなく、国民から、毟り取るものを、いかに増やさないかが、肝心と思うのが、世の常と考えられる。これでは、衰退の一途を、辿るしかないのは、火を見るよりも明らかだが、見て見ぬ振りを続ける。誰に聞いても、増税しか、解決法はない、と言うのに、なぜ、いつまでも、同じことを続けるのか。愚かとしか、言えない。

* * * * * * * *

10月2日(火)−無駄な努力

 近頃の若いもんは、と嘆く声は、いつの時代にも、聞かれてきた。だが、最近は、それに、異論を唱える声が、多くなっている、と言われる。自分の頃に比べれば、ずっとまし、などというものだが、果たして、そうだろうか。叱責しない大人の、無責任な発言なのではないか。
 優しい大人が増え、窮屈や圧力を、感じることが、少なくなったようだ。自由な環境で、のびのびと過ごすことが、才能を開花させるのに、大いに役立つ、などと言われるが、正の面だけを、捉えているのではないか。一部の、目立つ存在の陰で、多くの、放置された存在が、だらだらと、怠惰な生活を送る。見たくないものに、目を向けなければ、偶に出てくる、優秀と見做せる人間に、賞賛の声を、送ることで、満足を得られる。何も施さず、邪魔もしない環境が、彼らを育てた、と思えば、自分の手柄と見えるが、所詮、何の関与もないだけで、つまりは、手を出さなかったことが、手柄となる訳で、皮肉な結果でしかない。反発する力を、備えることなく、ただ、素直に育った連中を、放置すれば、それだけのことだ。子育て放棄の親と、何ら変わらぬ状況を、喜ぶようでは、将来の展望は、開けそうにない。その中で、意欲を失くした人々は、叱られることも、責任を問われることもなく、弛んだゴムの如く、だらけたままで、社会への貢献には、程遠い状態となる。本当に、このままで、いいのだろうか。才能もなく、努力もしない人間に、何ができるのか。こんな疑問に、適切な答えを、掲げることのできる人間は、おそらく、こんな時代にも、地道な努力を、続けているだろう。ただ、社会は、こんな人々を、評価する余裕さえ、失くしつつある。無駄な努力、という言葉を、投げつけながら。

* * * * * * * *

10月1日(月)−耳障り

 耳障りな言葉として、おそらく、多くの賛同を得られるのは、「そうですね」だろう。運動選手や、嘗てそうだった人が、ほぼ毎回、発する言葉で、同意を表すならまだしも、どうも、ただ単に、初めの言葉、としての意味しか、持たないらしい。聞いていないのでは。
 これに限らず、皆一様に、同じ言葉を、発するのを見ると、国民性の表れ、などと思えてくる。無難な言動、のつもりかもしれないが、一番を目指すべき競技者が、戦いの場を、離れた途端に、無難を求めるのは、愚の骨頂と思える。一方、報道の世界でも、こんな横並びが、最近は、特に目立っている。災害が、起きた時の、伝え方には、その特徴が、如実に表れている。最大級とか、過去にないとか、発信源は、それを担う役所だろうが、警告を与えようと、躍起になる姿に、哀れさえ感じられる。大層なことを、と思うかもしれないが、毎年、新しい表現が、登場するのは、まさに、そのことを、表しているのだ。空振りに終わった過去を、反省した上で、より効果的な表現を、という思いが表れ、自らの不明を、詫びるような態度、と見えてくる。それを、無思慮に伝える報道機関も、この点からは、反省の態度を、表していると見える。まるで、戦いに臨むかの如く、強風や豪雨に荒れる中で、状況を伝える姿は、どこまで、無理が可能かを、試しているように見えた。本来、安全な環境で、原稿を読むだけの、役割と考えて、花形の職を、目指した人々は、突然の荒業に、恐怖を抱きつつ、仕事と割り切っていた。だが、労災とまで、認定される中では、派手な演出は、無駄なものと断じられ、突然、「安全な場所から」という言葉を、添えて伝え始めた。本来、避難の対象となる地域からの、報道であれば、安全でない筈で、おかしな状況に見える。それでも、言葉を添えれば、いいだろうとの演出なのだ。

(since 2002/4/3)