パンチの独り言

(10月8日〜10月14日)
(休めるぞ、黙れば、晴れの日、薄める、自力、言論の自由、議論抜き)



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10月14日(日)−議論抜き

 自らの意見を、どんなものでも、掲げることができる、というのが、自由というものだろう。それが、明らかな間違いなら、徹底的に糾弾されるべきで、その議論の過程で、過ちを認めざるをえない、場合も出てくる。それこそが、自由な議論であり、言論の自由なのだ。
 ところが、今の社会は、その看板を、掲げながら、同時に、弾圧を行うという、矛盾に満ちた空気に、包まれている。好悪で、判断を下すことは、多くの場面で、禁じられているが、自由こそは、それをも、上回るもの、と信じる向きは、勝手気儘な判断を、世論かの如く、掲げることで、圧力を行使している。嫌悪に基づく意見を、主張するにしても、その正当性が、認められれば、何処にも問題は生じない。だが、嫌悪のみで、根拠のない、非論理的な意見については、社会は、それを認めてはならない、となっている。それを根拠に、好き嫌いが、主体となる意見を、間違っていると、断じるのは、弾圧でしかない。議論の基となる、事柄について、互いの意見を、交わしてこそ、言論の自由が、保証される訳だが、嫌悪だから、という理由だけで、切り捨ててはいけない。同性の組み合わせが、生産性を損なう、という意見は、生物学的には、間違いではない。確かに、社会を支える形で、他の組み合わせが、作り出した子孫の、生存を保証することは、可能なことだが、同性ばかりで、異性のものがなくては、子は作れない。しかし、論壇では、一部の学問だけからの意見では、十分と見做されず、様々な要因を、考慮に入れよ、とされる。にしても、この所の経過は、弾圧でしかない。逆のことも、同様に起きつつあり、そちらは、非常識が、正当な意見とされる点で、問題視すべきと思う。受賞者の配偶者が、専業主婦であったことで、その環境が、成果を上げさせた、と解釈されては、科学者の婚姻関係が、制限されるとする、異常としか思えぬ意見が、まともかのように扱われているのは、弱者への偏見の、別の表現にしか見えない。根拠の異常さも含め、徹底的に議論すべきだろう。

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10月13日(土)−言論の自由

 正論を吐くから、嫌われるのだ、と言われて、なるほどな、と思う。だが、納得した訳でも、それを、受け容れる訳でも、ない。そんな腐った世の中だから、こんな風になっても、皆が勝手に、文句を並べ、私利私欲に、走っているのだ。情けない時代に、なったものだ。
 長い物に巻かれろ、とは、昔から、何度も耳にし、忠告や助言として、使われてきた。だが、間違ったことに、当然のこととして、賛同していては、組織も国も、腐っていくしかない。それに、勝ち馬に乗ることを、最優先にし、優勢な方に、加担することで、成功を手にしても、基盤が揺らいでは、安定を手に入れることも、本当の勝ちを手に入れることも、できなくなる。成長期には、小さな汚点を、残したとしても、全体として、多勢に与していれば、何の問題も起こさずに、成功を手に入れられた。だが、停滞期に入り、更に、衰退が目に入るようになると、そのまま、突っ走る車に、乗っているだけでは、崖からの転落という、憂き目に遭う。その中で、間違いを、放置するどころか、それにより、悪化の一途を、辿り続ける組織や国に、正論という苦言を、呈さねば、改善の機会を、得ることはできない。その中で、正論が忌み嫌われる時代となった。大衆も含め、大多数が、余裕を失い、日々の生活に、汲々とする時代に、無難こそが、唯一の手立て、と信じているのだ。それに加え、正論さえ、思いつけず、他人の意見に、見解さえ抱かぬ人々には、黙って、大勢に与することこそが、生き残る術となる。最近、極論を掲載し、その擁護論を展開した雑誌が、休刊という実質的廃刊の、憂き目に遭ったのは、弱者保護という刀で、言論弾圧を断行する、時代の象徴と見做せる。戦前の暗黒を、あれ程までに、批判した人々も含め、愚民政治という、多数決が、この結果を招いたとしたら、民主主義の敗北だろう。

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10月12日(金)−自力

 人を育てることの、難しさが、問われている。育成の手法では、事細かに、全てを教え込む、という方法が、好まれているが、全てとは何か、という問題が、立ちはだかっている。用意した教科書の、中身を全て、と考えればいい、では、中身が増え続けては、となる。
 大人が、自分の知る所を、次の世代に、語り継いでいく、という考えが、基本だったのだが、多様化する時代に、知らないことが増え、足らない部分を、補う必要が出てきた。知っているなら、簡単に教えられるが、知らないことには、自信が持てない、となるのは、ごく普通の感覚だろう。だが、今、現場で起きていることは、まさに、そんな状況にある。専門的な教育を、受けてきたのだから、時代の変化に、即した対応も、可能になるはず、という考えが、成立していないのだ。専門家たる人間が、こんな状態では、先を見通せないが、これを、一朝一夕に、変更することは、おそらく不可能だろう。となれば、別の所に、期待するしかない。教える側に、頼れなければ、教わる側に、期待する訳だ。知りたいという意欲が、満たされることへの喜びが、更なる意欲へと、結び付くと言われるが、現場での実践は、芳しい状態とは、言えないようだ。手取り足取り、教え込むのは、ある程度の圧力を、かけるだけで、何とかなるが、自主性に任せると、何も起きないどころか、低下の一途を辿ることまで、起きかねない。競争原理を、導入すれば、という考えも、勝ち負けが決して仕舞えば、逆転しようとする意欲は、減退してしまう。安定した時代には、一発逆転など、面倒なだけなのだ。だから、現状維持が精々で、努力は無駄、という考えが浸透している。さて、この問題、どう解決すべきか。全体を考えずに、一部のみを、相手にすれば、いいだけのことだ。差別と見る向きもあろうが、それが結果なのだから。

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10月11日(木)−薄める

 騒ぎ立てる一方で、忘れっぽいのが、大衆の常のようだ。生き死にに関わるかの如く、凄まじい勢いで、捲し立てていた、あの連中は、今、どこに潜むのか。それとも、別の標的を見つけ、そちらに、全力を向けているのか。何れにしても、役立たずに違いない。
 原発が停止し、制御が利かなくなったことで、放射性物質が、膨大な量、漏れ出てしまった。直後の、急変に関しては、制御不能であり、環境への悪影響は、誰が見ても、明らかなものだった。しかし、その後の経過は、騒ぎ立てる人々を除けば、それなりの制御下にあり、汚染された環境も、徐々に、危険な状態を、脱することができている。しかし、原子炉自体は、依然として、制御不能だから、核反応によって、生成される放射性物質は、漏れ続けている。処理装置が、設置されることで、ある程度、除去できるようになったものの、ある物質に関しては、現在の技術では、除去不能とされる。その問題に、再び、炎上騒ぎを、起こそうとする、人々が居るようだが、これまでの知見では、この物質については、希釈することにより、環境への影響を、低減させる処置が、安全なものとされている。事故直後から、希釈については、この独り言を含め、何度も指摘する意見が、出ていたが、処理量を減らそうと、濃縮を優先する方策に、呆れるしかなかった。今回も、他の放射性物質が、手順の誤りから、処理後に残存していることが、報道され、例の如く、問題視されたが、これも含め、処理水を、希釈して、環境に廃棄すれば、影響は殆ど起こらない。この報道でも、漁業者から、風評被害の意見が、出ているとあったが、これとて、騒ぎを大きくしたい人々への、意見と見るべきだろう。十分な希釈により、濃縮の悪影響は、起きないのだから。

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10月10日(水)−晴れの日

 前に書いたように、連休にすることを、優先したことで、本来の日は、その任を外された。今では、記念の日を、定めた理由さえ、振り返られなくなっている。一部の勝手な都合で、こんなことが、起きたとしても、庶民は、休みが増えたり、連続することに喜ぶ。
 近年、歴史を、軽んじる傾向を、憂慮する声が、強くなっているが、同じ人々が、極端な動きの、中心となっているようだ。利便性を優先する、という、ある意味、庶民受けのいい仕事を、進める一方で、それとは、全く異なる観点から、過去の歴史に、学ぶことの、大切さを、強調する。前者では、それぞれの祝日が、制定された背景を、敢えて無視することで、決まった月日から、何週目の月曜日、という定め方に、変更してしまう。背景は、歴史上の事柄の一つに、違いないが、それより、休みが続けば、都合がいいというのだろう。だが、これでは、踏み躙られた歴史を、後世に遺すことは、難しくなる。その一方で、過去を継承し、成功も失敗も、歴史から学ぶことを、主張する。顔の向きを、変えるくらいの気楽さで、使い分けているらしい。身勝手な連中が、暗躍している訳だが、庶民にとっては、別の理由で、喜ばしい変更に見えるようだ。さて、今日も、嘗ては、体育の日とされていた。決めた理由は、前の五輪の開会式の日、だったからだが、その日を、開会式と決めた理由にも、触れるべきだろう。肝心の日が、雨になっては台無しと、晴れの特異日が、選ばれたのだ。思惑通り、晴天で迎えられた、開会式は、焼け跡から、奇跡の回復を遂げた、国の、都市の晴れ姿を、全世界に送り届けた。それを記念して定められた休日は、運動会に最適の日となったが、今では、そんな理由は、忘れ去られ、別の日に開催される。時に、雨が降ると、何故、と思うが、仕方ないことだ。

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10月9日(火)−黙れば

 国民性からすると、ごく当然の成り行きかもしれない。しかし、この状況、明らかにおかしい、と思う。無難な発言を、続けることで、日々の生活を、安穏にしたい、という願いが、あるにしても、間違いを、間違いとせず、誤りを、誤りとしないのでは、悪くなるだけだ。
 攻撃的な批判が、当然の世界を、放置しているのは、実は、この矛盾の裏返し、なのではないか。誰もが、好き放題に、発言できる場で、面が割れる懸念が、殆どないのであれば、あることないこと、言いたい放題が、できるのに対し、会議の場や、面を晒しての場では、何事も、無難に済まそうとする。責任を、回避しようとする、風潮が、全体を占める中では、こうなるのは、当然のことだが、その一方で、自らの将来について、不満を漏らし、不安に苛まれる。そうならば、改善の為の意見を、提示すべきだろうし、誤りを、指摘すべきだろう。だが、その気配は、全く見えない。将来への提言という、肝心なことさえ、手を出さないのだから、自分と無関係な事柄に、口を出さねばいいのに、そちらには、何かを言いたいのだろう。ネット上の報道に対する、コメントの場は、相変わらずの賑わいを、見せている。だが、その多くは、存在を示そうとするものの、中身のないものばかりで、閲覧の価値は、認められない。にも拘わらず、賛否の表明に、精を出す人々の数は、これもまた相変わらずの状態にある。ここ一番で、実力を出せない人物に、期待を裏切られたにも拘わらず、慰めにも似た意見や、期待を抱き続けようとする意見を、並べる人々には、他人を、批判することへの嫌悪が、感じられる。確かに、その競技での、力から言えば、件の人物を、上回れないに決まっている。だが、精神的な弱さや、不安定な状況に対しては、一般人でさえ、上回れる人が、居るに違いない。だったら、もっと厳しく、批判すればいいのに、と思うが、世の中は、そちらを、忌み嫌う風潮に、満ち溢れている。それなら、将来への不安も、忘れてしまえばいい。

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10月8日(月)−休めるぞ

 休みは、有難いもの、とは限らない。毎日、同じ仕事に、勤めている人には、1日休めて、確かに助かるだろうが、曜日ごとに、違うことを、しなければならない人には、ある曜日が、決まって休みになるのは、困るのだ。特に、月曜日については、評判が悪い。
 祝日が、週末と重なる時、休みを損した、という気分を、解消する為か、次に来る月曜を、振替として、連休を実現する。子供達を含め、大人も、長く休めることに、不満が出ることは、少ないだろう。だが、子供が通う、学校に関しては、これは困ったことになる。時間割は、曜日ごとに決められ、それにより、年間の授業時間数を、確保しているからだ。そこに、月曜だけが、何度も休みとなると、数が足らなくなる。その上、連休達成という目的だけで、月曜を祝日に指定する制度が、導入されては、更なる減少に、泣き面に蜂、となるだけだ。別の曜日で、埋めあわせるなど、現場が工夫を、強いられているが、その程度では、焼け石に水、でしかない。変更は、年毎に異なり、決まりがある訳ではないから、事は更にややこしい。埋め合わせに過ぎず、本来の曜日とは、違う日に、授業を行えば、時間数は確かに確保できるが、一週間毎に、行うべきことが、数日しか、間を空けずにしなければならず、宿題などにも、影響を及ぼしかねない。更に、本来の曜日に、行う筈だった授業も、間隔が乱されて、やりにくくなる。そんなこんなの、大混乱が、現場で起きていても、皆は、休めるという有難さに、口出すのは、憚られる訳だ。これもまた、お上のすること、下々が、文句を並べても、通じる筈はない。結局、下々は、与えられるものが、多くなれば、喜ぶという図式、なのだろう。

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