パンチの独り言

(10月15日〜10月21日)
(一件落着、信じない、最年少記録、色眼鏡、知らぬまま、徹底検証、報われる)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



10月21日(日)−報われる

 あれ程に、停滞感や閉塞感が、強調される中、衰退が、如実となっても、誰も、動こうとしない。いつから、こんな状況になったのか。明るい未来を目指し、各自が、工夫を凝らしていたのは、世代交代という流れからは、遥か昔のことで、誰も覚えていないのか。
 中心となっていた人々は、既に、鬼籍に入ったか、昔の華々しい状況を、思い起こせないくらい、今の生活に、汲々としているのか。それにしても、これ程までに、緩んでしまったのは、何故か、と思う。しかし、そんなことに、思考の時間を、割くことは、無駄に違いない。周りが動かねば、自分が、動くしかないのだ。そんな思いで、慌ただしい毎日を、送っている人も居る。ところが、こちらでも、無駄ではなく、徒労に終わらされる、状況が、作られている。緩み、弛んだ人々が、自分の役目さえ、果たさぬような時代に、生き生きとし、様々な提案を、掲げながら、変革を、目論む人々は、周囲から、かけ離れた存在となるが、それだけでは、済まない状況が続く。動くことを、止めたように見える、人々の殆どが、横目で、活躍する人を眺めるのではなく、あれこれと、横槍を入れ、邪魔を繰り返す。目立つ存在を、排除すれば、我が身は、安泰とでも言うように、過激な妨害工作を、繰り広げるのだ。それでも、打開こそが、今必要な手立てであり、それを、決然と実行しなければ、停滞も閉塞も、打ち破ることができない、と信じる人は、腐った礫が、投げられ、敷かれる中を、突き進もうと努力する。たった一人でも、目標を定め、進まなければ、明るい未来は、見えてこない、と信じればこそ、のことだが、賛同者が出てこなければ、継続は見込めない。だが、彼らの多くは、説得する時間さえ、惜しいと思うから、行動を示すことで、皆の気持ちを変えようとする。その結果は、今の所、芳しくない。だが、ここで、立ち止まっては、折角の努力も、報われないままとなる。頑張らねば。

* * * * * * * *

10月20日(土)−徹底検証

 懲りない奴ら、とでも言うべきか、改竄が、繰り返し報道される度に、多くの人々は、不安を募らせる。素材の性能について、様々な形で、細工を施し、さも優秀なもので、あるが如くに、装ったとされる。装置にも、同じことがなされ、安全性を、保証したとされる。
 しかし、これら全ては、要求を満たさず、保証できない、ものとされた。それ自体は、明らかな犯罪であり、隠蔽の意図が、あろうがなかろうが、詐欺と同じものと、断じられる。馬鹿げているのは、それを使った建物の、価値が落ちるという話で、私利私欲を、カメラの前で、さらけ出すことに、恥を感じないのか。でも、と考えたことは、ないだろうか。保証できないからといって、震災時に、崩壊するかどうか、どうやって知るのかと。耐震設計において、不正が報じられた事件では、対象となった建物は、当然のこととして、取り壊された。その時も、書いたように思うが、折角の実証の機会を、何故逃すのか、不思議に感じる。机上の計算と、現実との差を、検証する機会は、あれ程大規模な形で、実験できることは、まず無い。だが、そんなことをすれば、計算の確かさが、良い方にも悪い方にも、暴かれてしまうから、困る所があったのか。これだけでなく、基準を下回った結果を、改竄することで、建物に使われた装置も、どんな問題を、生じるのか、確かめる必要は無いのか。これは、別に、彼らの犯罪を、矮小化しようとするものでなく、罪は罪として、大規模な実験として、どんな結果となるのか、確かめれば、という興味本位からのことだ。実験は、確かに行われただろうが、小規模なものを、大規模へと拡張させただけで、あれ程のもので、行った筈は無い。ただ、世界一の電波塔については、建築途中で、あの大地震があったことから、何かしらの結果が、得られたと思う。倒れなかったことも、含めて。

* * * * * * * *

10月19日(金)−知らぬまま

 新しいものに、飛びつく人々は、どんな期待を、抱いているのだろう。それとも、期待も見込みも、何も無いままに、ただ、飛びついているだけなのか。そういう行動様式を、用いない人にとって、この心理は、理解不能となる。それが、成功に繋がるかは、無関係なのだ。
 実は、水準以上の、見極めの能力を、備えた人間にとっては、初めて見るものは、特別ではない。経験に基づき、対象の特徴を、捉える力があれば、誇大広告や事実誤認も、見破るのは、簡単なことだ。だが、その力のない人々が、何にでも、飛びつく姿を見ると、無謀としか思えない。そこに、独特な心理が加わり、失敗を繰り返すと、懲りない人々は、自らの不明を嘆くより、他人の行為や、社会の問題に、責任を転嫁する。安定した時代には、過ちを犯した人々にも、対応できる余裕があり、彼らの救済に、手間をかける人が出てくる。救いの手は、確かに、地獄に仏と思えるだろうが、当人達には、救われること以外に、何の役にも立たない。多くの場合、一時の助けにしかならず、反省さえしない人間は、自身どころか、周囲にまで、悪影響を及ぼしかねない。そろそろ、こんな無駄は、止めたらどうか。過ちを犯した人間は、懲らしめるべきであり、自らの不明を、反省すべきなのだ。無知は、何よりも強い、とも言われるが、知らないことを、詫びることなく、愚行を続ければ、破滅へと進むしかない。その運命を、自分で手に取った人間に、助けの手を出すのは、間違いでしかない。判断力は、無知では育めないし、無知を恥じなければ、一念発起もない。ただ、飛びつく人々の無知と、成長過程での未知とは、明らかな違いがある。無知のままで居るのと、未知から既知へと変貌するのとは、違いは、歴然としている。だが、気付かぬ人が、多い世の中は、破滅へと向かうしかないのかも。

* * * * * * * *

10月18日(木)−色眼鏡

 騙される人が、世の中に、溢れている。高齢者が、被害に遭うことが、多いようだが、何故と思える話が、あまりにも多い。何処に問題があるのか、様々に取り上げられるが、騙されない為に、必要な対策を講じても、詐欺師達は、すぐに新手を、繰り出してくる。
 この手の犯罪には、被害者が抱く、心理が、強く影響している。投資話に、騙される人の殆どは、将来への不安を、口にして、なけなしの資金を、儲け話に注ぎ込む。だが、所詮、濡れ手に粟の運用など、この世に存在しない。うまい話に、騙されるだけで、甘い汁を、吸われるだけとなる。そんな事件は、度々起きており、問題点が、指摘されるが、自分だけは違う、という心理は、全ての助言を、排除する程に強い。家族への心配も、この犯罪の成否を、左右する程に強い。子や孫の窮地に、手を差し伸べたいとの、心情を、逆手に取る詐欺師には、格好の標的となる。だが、何度騙されても、また、被害に遭う人には、経験が活かされないのは、何故なのか。理解し難いものの一つに、数えられるが、実は、高齢者に限らず、そんな人が、世に溢れているのではないか。若者達の選択に、社会は期待を抱き、次代を担う人材の、発掘に力を入れる。だが、与えられた機会の、見極めに関して、彼らの判断は、豊かな経験を持ち、用心深い筈の高齢者が、騙される事例と、よく似た傾向を示す。自分だけは違う、という心理は、屡々見られるものだが、それに加え、未知のものへの過剰な期待は、確認を怠る被害者の、典型的な心理を、映し出している。既知のものには、過少評価を下し、未知に対しては、期待を込めて、過大評価を与える。失敗の原因は、そこにあるにも関わらず、何度も同じことを繰り返す。短所だけを選び出し、長所を認めない姿勢は、この心理の基礎となっており、知っているものは、悪い点ばかりを見て、知らないものは、過度な期待に基づく、良い点を並べる。こんな人々は、将来も、そんな道を歩み続ける。

* * * * * * * *

10月17日(水)−最年少記録

 偶には、いい話を取り上げよう。盤上の戦い、と言えば、この国では、将棋や囲碁の話、となるのだが、世界的には、チェスとなる。歴史あるものは、これくらいだが、新たに作られたものとして、一世を風靡したのは、オセロだろう。この国発祥とも言われるものだ。
 そんな背景もあり、世界大会が始まった頃は、優勝者も、この国出身者に、限られていた。これまでの歴史でも、大多数は、そうなっており、国民性との関わりなどを、理由に挙げる人もいる。だが、そんなことは、ないのではないか。所詮戦いであり、先を読む力を、競うものだから、その力の優劣が、結果に結びつく。最近は、初めに挙げた、長い歴史を誇るものでさえ、機械に勝てなくなっているが、限られた手数と、その選択の少なさから、おそらく、機械優勢となったのは、オセロが、最初だったのではないか。とはいえ、人間同士の戦いは、依然として続いており、今回は、最年少の優勝者が出た、と報じられた。これ自体も、素晴らしい話だろうが、そこに、後日談が、届けられた。開催地からの飛行機の中で、機長が、優勝者の同乗を、告げたそうだが、話は、それで、終わらなかった。優勝を祝う言葉に継いで、聞こえてきたのは、それまでの最年少記録は、機長自身が、35年ほど前に記録したもので、それが、今回、久しぶりに破られた、とするものだった。当然、機内は、驚きに満たされ、何たる偶然、とばかりに、祝福の声が、高まっただろう。強い子供が、その後、どんな人生を歩むのか、誰もが、気になる所だろうが、こんな偶然により、いち早く、伝えられたことは、大変喜ばしいことだろう。強いから、それを専門とし、職業とする人もいるのが、歴史ある競技の常だが、オセロに関しては、そこまでの普及は、まだできていないし、現実に、そんな組織はない。でも、他の才能で、頑張れば、いいのだろうし、今回の話は、そんな事例に思える。

* * * * * * * *

10月16日(火)−信じない

 技術の進歩は、様々な所に、及んでいる。その恩恵に、浴す場合もあるし、時に、折角の技術が、人々の生活を、台無しにすることもある。高度成長期には、伸びを目指す余り、悪影響は、過小評価され、多くの人々は、生活どころか、その命さえも、脅かされていた。
 当時に比べれば、現代社会は、安定のみでなく、安心も、簡単に手に入る。それが、当たり前と思う人には、少しの心配も、不安を募らせ、命さえ脅かされると、感じられる。だが、現実には、過大評価の結果に過ぎず、騒ぎを大きくすることで、利益を得ようとする、思惑さえ見えてくる。その中で、最大の問題は、心のことだろう。心配も、安心も、心の問題であり、科学的な根拠は、無用とされる。日々の生活においても、人々は、自分が、環境を汚しているとは、露も思わず、暮らし続けている。だが、様々な廃棄物だけでなく、自らの排泄物も、汚染の原因を作っている。その汚れを、除去するのは、下水処理や焼却炉であり、そこを経て、基準を下回る状態に、保たれている。ここでも、技術の進歩が、様々に使われ、効率的な処理が、実現されている。最新技術を、用いれば、もっと効率的に、行うことも可能だが、それが、別の副作用を、及ぼす可能性を考えると、必ずしも、良い結果に繋がるとは、限らない。そこで、時間をかけつつも、基準を下回り、過剰な廃棄に、繋がらない技術が、使われているのだ。それでも、排出基準として、満たすだけでなく、自然環境より、安全な状況にまで、管理することができる。だが、ここでも、心理的な問題は、壁となっている。例えば、下水処理場の排水は、それが流される河川の水質より、清浄であることが、科学的に確かめられているが、それを飲もうとする人は居ない。東南アジアの、小国では、水資源が限られ、循環を余儀なくされているが、そこでも、浄化後の処理水を、飲もうとする人は、居ないという。科学は、人の心理を、操るには、力不足ということか。

* * * * * * * *

10月15日(月)−一件落着

 聞き飽きた、と言ってしまうと、不謹慎とか、不真面目とか、そんな反応が返ってくる。だが、その言葉が、蠢いている環境には、何の正当性もなく、ただ、馬鹿げた噂や、間違った情報が、溢れ返るばかりか、根拠なしの不安が、膨れ上がっているだけなのだ。
 何しろ、実体がないのだから、捉えようがない、というのも、当然のことだ。心理的なもの、と片付けられることが、非常に多いが、だからと言って、勝手な解釈が、通用する訳でもなく、非論理的な意見が、罷り通る訳でもない。にも拘わらず、相変わらず、大きな取り上げ方をされ、さも、最重要課題かの如く、扱うのは、如何なものか。ここまで読んできて、さて、何の話題か、思い当たっただろうか。こんな話は、何処にでもあり、あれかこれか、と迷うだろう。その中で、取り上げたいのは、風評被害、についてなのだ。根も葉もないのに、勝手な噂が、流されることで、身に覚えのない事柄で、被害を受けるというものだが、その対象は、多岐に渡る。先日の大地震の後、人災とも言われた、大規模停電が起き、社会的な課題が、拡大しているが、その中で、一大観光地としての地位が、揺らいでいる、と言われている。この場合、何でも種になり、あり得ぬ話が、実しやかに、流布されており、観光客の激減が、懸念されている、とある。害を被る人々の、生活さえ脅かす、強大な力が、働いているが、その根源には、他愛もない嘘ばかりが、横たわっており、それを、膨張させる心理の持ち主が、加担している。一方、大震災、大津波、大事故の連鎖から、付近の漁業者が、大きな被害を受けたことは、よく知られているが、それがまた、拡大するとの話が、紹介された。除去不能な核種を含む、処理水の処理の検討から、風評が懸念される訳だが、科学的な検証も済み、その中で、いつまで風評と付き合うか、皆の問題として、考えるべき時が来ている。衆愚との付き合いは、そろそろ止めたらどうだ。

(since 2002/4/3)