人気歌手が発した、お客様は、で始まる言葉は、その後も、使われ続けているだけでなく、立場の違いを、際立たせるものとなっている。どちらに立つかで、気分が変わり、態度にも現れる。当時との違いは、ある意味明らかで、主従だけが、明確にされている。
当時は、そんな言い回しを、使いつつも、互いの立場を、理解していた。客を迎えれば、気持ち良く、過ごして貰おうと、気遣いに配慮し、客としては、十分な扱いに、満足するだけでなく、その気遣いに、感謝を表す。難しく思えるが、実際には、互いを理解しさえすれば、それ程には、難しくはない。だが、それから半世紀を経て、様子は、大きく異なっている。互いの理解が、難しくなり、主張だけが、残ってしまった。その結果、主従関係でも、上下の違いだけが、残ってしまい、互いの気遣いを、感じる気持ちさえ、残らなくなった。ほんの一言で、理解し合える筈が、傷付ける言葉を、浴びせ合うことで、気分を害してしまう。憎み合いは、不満しか残さず、精神的な不安定が、強まるだけだ。こんな簡単なことさえ、理解できない人間が、世に溢れると、生き辛い社会が、出来上がってしまう。責任転嫁が、頻発するが、実際には、自業自得でしかない。覆面調査も、そんな中で、重要な情報を、得るものとされるが、こうしないと、判らないという状況を、不思議に思わないのか。気遣いが、当たり前でないからこそ、こんな問題が起きるが、調査の結果、改善点が見つかっても、その根本にある問題に、気付くことが、あるのだろうか。客と店の問題だけでなく、あらゆる人間関係に、こんなものが横たわる中で、当事者達が、気付くことなく、関係悪化に結び付く。服従関係に、ならない為の方策を、身に付けられない人は、どんな問題を、抱えているのか。自身で考えないと、何も見えてこないのでは。
人は、それぞれ、違うもの。当たり前のことだが、殊更に、強調する人々が居る。所謂、多様性の話だが、違うから、どうしたのか、という点には、疑わしさが、紛紛する。違いを、認めようとする動きには、異論は無いが、仲間が集まると、欺瞞に思えてくる。
多様性を、受け容れる為に、最も重要なのは、違いを認め、互いに、尊重することではないか。だが、ある種特殊な人々が、集まるようになると、仲間意識が、前面に出てきて、不思議な雰囲気が、生まれる。仲間を尊重し、他との違いを、際立たせようとする。これ自体は、悪いこととは、思えないだろうが、それが強まると、途端に、仲間以外の、排除が始まる。同じことが、優先され、そこには、違いが、認められなくなる。始まりでは、多様性が尊重され、互いを、認め合うことが、重視されていた筈が、いつの間にか、同好の士が、第一とされる。何故、こんなことが、起きるのか。簡単には、認めることより、認められることが、優先されるからだろう。自分が、排除されるより、仲間と認められれば、安心が感じられる。それ自体は、何も悪いことではない。互いに、認め合うという意味から、これも、人間関係において、重要な要素となる。だが、それが、いつの間にやら、排除へと結び付くと、様子がおかしくなる。人間も、当然、生物であるから、生殖活動は、不可欠なものとなる。だが、様々な事情から、望み通りに、行かなくなる人も居て、悩みの淵に、沈むと言われる。摂理に任せるしか、無かった時代と異なり、様々な技術が、施せるようになり、望みも、実現する可能性が、高まると、失望は、更に大きくなる。そこから、立ち直れない人々に、手を差し伸べる動きが、紹介されていたが、疎外感から、人間関係が、難しくなった人々が、互いに、理解できる関係で、救われた話だと思う。だが、そこには、多様性を認め合うより、仲間の存在を、喜ぶ姿が、見えていて、確かな違和感があった。
人手不足が、深刻だと伝えられる。景気が良くなると、生産性を、上げる必要が出て、人員補充を、画策し始める。だが、そんな時期には、他の企業も、同じ状態となり、限られた牌の、奪い合いとなる。いくら深刻だと、訴えたとしても、競争に勝てる訳ではない。
だが、背に腹は代えられぬ、とばかりに、必死で訴えたとしても、そこに、魅力が感じられなければ、目が向くこともない。では、どうしたらいいのか。画策とは、名ばかりであり、無策な場合が、多いのではないか。策を講じる、と言っても、何をどうしたらいいのか。ただ、受身に走るばかりで、待ちの姿勢を、続けてきたことから、攻めの姿勢を、表明しようとしても、何をしたらいいのか、わかっていないのだ。魅力を伝えようにも、何が、魅力と感じられるか、見えないままでは、手の施しようがない。これは、大企業でも、中小でも、違いはないだろう。多くの社員を、抱える組織では、数の変動が、激しいものだが、不況時には、採用を減らし、時には、退職を勧奨することもあった。人員整理と呼ばれる方策だが、これから、参入したい人間にとっては、不安要素となる。方針転換だから、というのは、組織の論理に過ぎず、社員個人にとっては、青天の霹靂、とも言うべきものだ。今は良いが、将来は、というのでは、何ともならない。一方、中小は、無名の企業が多く、魅力も、殆ど感じられない。その壁を、乗り越えないと、何事も始まらないのだ。しかし、名を売ろうにも、世に知られた製品も、無いままでは、難しいだろう。どう売り込めば、魅力を感じてもらえるのか、実は、策は様々にあるが、下請けとしての、役割しか演じてこなかった人々には、思い当たることは無いらしい。製品が見えないのなら、何処にあるかを、訴えるしかないが、これも、難しいのだろうか。
読みに来る人がいないから、炎上することも無い。だが、極論を眺め、憤りを露わにしても、改善が見込めるとは、限らない。的外れの指摘を、繰り返した上で、一点集中の如く、偏った方策を、講じたとしても、根本解決は、望めない。ただ、別の歪みを、強めるだけだ。
選考における、不正への指摘は、怒りに任せたものも含め、凄まじい勢いで、強まり続けている。だが、選ぶ側の、権利を無視して、ただの平等を、押し付けるだけでは、将来への人材育成に、妨げとなるだけで、改善の糸口は、見出だせないだろう。何が問題か、と問うこともなく、ただ、不平等を、糾弾するだけでは、何も解決しない。人それぞれの、能力を伸ばし、全体の均衡を保つ為には、平均を求めるのは、愚の骨頂となる。最適な人材を、集めるだけでは、咄嗟の事態に、備えることは難しく、平均的なことにしか、対応できない。時に、極端な事例が、持ち込まれると、彼らの多くは、手立てを見出せず、手放しの状態を続ける。だが、失敗を恐れぬ人々は、様々に、思い付きを試し、解決へと至ることもある。だからこそ、誰にも平等に接し、順位通りに、選ぶことが、大切であるとの意見には、一つ二つの基準だけで、選ぶことの危険性を、見ようともしない、態度が現れている。多様な見方は、一見、偏見に満ちたものも含め、基準となり得ぬものも、含まれている。これを適用することで、平均からは、外れていても、可能性に期待することも、あり得るだろう。だが、今の平等主義では、妥当な結果を探り、無難な成果を、得られるかもしれないが、それでは、閉塞感を、打破することは、難しいままだろう。自由を、ある程度保たぬ限り、人材を探し出すことも、彼らを育成することも、難しくなる。余裕を持たねば、何も、始まらない。
不正に加担した、として、厳しく糾弾される。攻勢に出ると、勢いは、簡単には止まらず、他の組織にまで、調査の手が及び、次々と、犯人探しが続く。安定した時代には、少しの綻びでも、破滅への端緒となり、暇潰しにも似た、粛清が、徹底されるようだ。
人の将来を決めること、として、不正の凶悪さが、強調されるが、逆の見方では、どうだろうか。組織にとって、人を選ぶことは、組織の将来を決めることであり、そこに、戦略性はないのだろうか。大衆が、最も好む言葉の一つに、平等がある。虐げられた、と訴える、自称被害者にとって、他との差を、縮めることは、最も重要な助けであるだけでなく、支援によって、他人を上回れれば、幸いに違いない。しかし、それでは、平等は、崩れてしまう。では、どんな調整が、平等を保つことになるのか。その答えは、簡単には導き出せない。一方、利益を追求するために、別の形の調整を、施す動きは、それぞれに違う基準を、適用することもあり、平等の考えから、程遠いと言われる。だが、組織にとって、何が大切かと言えば、方針に沿った、選考を行うことであり、それが、時には、同じ基準ではなく、異なるものを、当て嵌めることになったとしても、優先すべきは、より良い人間を、選び出すことである。今の状況は、平等を優先させ、組織にとって、不利な結果となっても、仕方ないとする。こんな横暴に対して、自分達の権利を、主張したとしても、おそらく、叩き潰されるだけだろう。だが、様々な状況により、調整が必要となるのは、当然のことではないか。組織にとって、果たすべき役割を、粛々と進めることこそ、第一であり、それに勝るものは、無い。たとえ、それが、一部の人々にとって、不利益となるものでも、組織の都合を、優先させねば、元も子もなくなる。この論理が、通用しない社会は、崩壊するしかない。
改革を進めようと、色々な組織が、提案を繰り返す。だが、その多くは、目的も見込みも、殆ど見えず、ただ、闇雲に進もうとしている。根本にも、変えれば良い、という考えしかなく、どう変えるかは、二の次どころか、顧みられることもなく、手を付けただけなのだ。
こんな状況で、事態が改善することは、望めない。それが明らかなのに、依然として、取り組む姿勢だけを、見せている。ある意味、自己満足に過ぎず、成果を見極めることも、経過を検討することも、行う気は、微塵もない。まるで、田舎芝居のような雰囲気に、端から、諦めている人ばかりで、神輿も、進むどころか、担がれることなく、無為な時間が、過ぎていく。それでも、手を付けたと、主張ばかりが流れ、状況は、悪化するだけとなる。こんな無駄が、度々繰り返されるが、それを省みることなく、変化の兆しは、見えてこない。停滞や閉塞が、問題視される中で、いつまでも続くことに、当事者達は、何をしているのか。手を拱いている、とも見えるが、実は、何かを行っている。ただ、それは、やっているふり、に近いもので、十分な検討も、話し合いも、行われず、動いているだけなのだ。これでは、改善が見込めないのも、当然のことだ。にも拘わらず、当事者だけでなく、組織全体が、そんな状況を、致し方なし、と見做しており、これでは、何も始まらない。組織としての責任は、無能な連中に、改革を、任せたことにあり、彼らの力不足が、主たる原因となっている。とは言え、その責任は、やはり選んだ人々にあり、こんな状況が続く組織は、中心から末端まで、腐っているのだろう。だとしたら、どうすべきか。簡単ではないが、小手先に走らず、組織全体が、大きく変わらねば、何も始まらない。何処から手を付けるかは、問題ではないのだ。
テロ集団が、国を名乗り、傍若無人ぶりを、大いに発揮したのも、昔のことと、なりつつある。彼の集団が、信じていた宗教は、過激な排除主義に、取り憑かれているように、見えたが、実は、歴史的には、あらゆる宗教が、過激な暴力に、加担してきたのだ。
積極的に、信じることで、新たな信者が、増えることは、宗教にとって、重要な要素となるが、既に、他の宗教に、帰依する人にとっては、困難が伴う。その中で、強制的な動きが、適用された例は、数多あり、それが、悲劇を産んだことも、数知れずあった。にも拘わらず、安定した時代には、そんなことは、微塵も感じさせず、個人の自由を、保証することで、更なる安定を、目指してきた。だが、排除の対象となったり、強い信教心に対し、圧力がかかる中で、迫害を受けたことが、根強く残り、暴力的な手段によって、反撃をしようとするのは、ある意味、止むを得ないこと、とされる部分もある。だが、どんな理由にせよ、他人に危害を及ぼすのは、社会における秩序を、乱すことにしか、ならない。法治国家においては、特に、あるまじき行為だが、国家を名乗った連中でなくとも、立派な国でさえ、それに似たことが、行われ続けている。情報操作は、その最たるものだが、自由な通信が、保証される世界において、明らかな制限を、欠けていることは、あまり知られていない。隣の大国は、あからさまに、様々な手立てを講じ、現制度を保つことに、躍起になっているが、彼の国も、厳しい制限をかけ、秩序を乱しかねない事柄を、排除している。今回の、暗殺とも思える事件は、国の正体を、現したものとも言えるが、多くは闇に葬られ、実態が暴かれることは、期待できない。ただ、国の中ではなく、他の国で起こした事件だけに、治外法権と雖も、看過できない暴挙だろう。まだ、落とし所は、見つかっていない。