文化の伝承が、取り上げられる季節だが、何をどうしたいのか、どうにも解らない。新しいものばかり、追いかける人間にとって、伝承とは何か、知る術もない。古いものを、大切にする気は無く、何もかも、使い捨てるのでは、伝えるべきものは、無いのだろう。
最先端を、生きているのかもしれないが、残すべきものは、何一つ無い。そんな具合なのだが、はて、そんな人生で、満足するのか。他人事だから、そこまで、口を出すつもりは、毛頭無いが、それにしても、無駄なものに、見えてしまう。生産性の問題を、跡継ぎに関して、論じたものは、手厳しい批判に曝されていたが、彼らのような存在は、所詮、そんなものではないか。子供が居ようが、居まいが、跡に遺すものはなく、自分だけの、楽しみに生きる。こんなものに、憧れる人にも、違和感を抱く。社会との関わりは、最低限に留め、自分中心の生活を、営む。一見、何の問題も、生じないように、見えるのだが、実際には、社会の中に、生きる存在とは、なっていない。自分が、必要な時だけ、社会との関係を、確かめるのだが、無用な時は、何もしない。たとえ、自分の子供が居なくても、社会との関わりで、他人の子との関係を、作ることはできる。全体として見れば、生産の一翼を担っている訳で、そう見れば、何かの役割を、果たしているとも言える。だが、それさえ、拒絶する人々は、自らの楽しみに溺れ、他人との関わりは、断ち切ろうとする。これでは、何も伝えないし、伝わらない。それでも、個人が、いいと思えば、それでいい、というのが、今の風潮だろうか。こうなっては、文化は、失われるだけで、何も残らない。本当は、こうなってしまうと、新しいものが、生まれなくなり、追いかけるべきものが、失われる。そんなことに、気付かぬままに、勝手気儘に振る舞えば、どうなるか、明らかだ。
世の中を、盛り上げようとする。そんな動きは、各地で、起きている。だが、成果は、上がっているのか。そんな検証は、行われていない。次々に、登場する、奇策、珍策、手を変え、品を変え、何とか打開しようと、しているのだが、はて、どんな成果が、あったのだろう。
町興し、と言われた施策が、各地で実施されたものの、上手くいった話は、余り無かった。改めて、特徴を、思い起こし、それを前面に押し出して、看板を掲げる。おそらく、多くの町が、そんなことを、始めた。だが、特徴も、そのままに、掲げるというより、わざとらしく、作り上げたものが、多かったのではないか。そんなこと、あったのか、という思いを、抱きながら、運動を続けても、自信が持てなかったり、肝心なものを、見失ったりして、頓挫した策が、殆どだったのではないか。流石に、失敗作が、増えてくると、同じことの繰り返しは、憚られる。そんな訳で、下火となった施策は、今は、どんな様子なのだろう。補助金を、ばら撒いたり、様々な、誘致策が、進められたが、どれもこれも、はじめは華々しかったものの、すぐに勢いを失くし、いつの間にか、元通りに戻る。使われた金は、地元に留まることなく、どこかに流出したのではないか。金を使えば、何でもできる、とばかりに、勢いよく走り始めても、すぐに失速してしまえば、誰もが、何がなされたのかさえ、忘れてしまうのだ。そこから、再び、別の方策を、という町もあったろうが、多くは、一度か二度の、試みの果てに、疲れてしまった。経済効果も、度々取り沙汰されてきたが、後に残ったものが、何もなければ、効果は、幻でしかなかったのではないか。これとは異なるものとして、最近は、好きな土地に、税金を納める制度が、使われているが、これとても、さて、何が起きたのか。検証は、やはり行われていない。
喫緊の課題として、何度も取り上げられているのが、人材育成だろう。度々取り上げられるのは、確かな方策が、見出せていないからだが、新たな方策を、探すことに、目が集まるだけで、現状に、目が向くことは、殆ど無い。どれ程、悲惨な状況か、見えていないのだ。
安定した、平和な時代には、傾向と対策が、最善の策と、言われ続けているが、傾向も分からぬままに、対策を講じるのは、無意味なのではないか。何より、人材不足や、人手不足が、訴えられる中で、育成こそが、最大の課題と、目されているが、何を、どうするのか、見えないままに、突き進むのは、暗中模索、五里霧中、など、迷走が続くだけ、となっている。では、育成の現場、と思われる場所で、どんなことが、行われているのか。新たな方策が、掲げられる度に、現場は、大混乱を来す。特に、斬新な提案に、飛びついた時に、悲劇は起きる。実績もなく、指標も示されぬままに、方針が、示されるわけだが、誰もが、見たことも、聞いたこともない、そんなものに、手を付けることさえ、躊躇われる。だが、喫緊の課題として、急ぎ、始めよ、との指令に、現場は、混乱を承知で、見込み発車を、強いられる。当然、成果を要求され、何かしらの評価を、下すことによって、満たそうと努める。だが、不確かな指標で、評価を下しても、何の役にも、立たないだけだ。そんなことが繰り返され、斬新な提案が、次々と、繰り出される。一向に上がらぬ成果に、苛立ちも起きるが、進捗は、絵に描いたようには、起こらない。結局、その案も、中断を余儀なくされ、打ち捨てられる。そこにまた、新しいものが、何の根拠もなく、ただの思い付きが、降ってくる。これでは、効果が上がらぬのも、当然のことだ。現場は、疲弊し、意欲は、減退する。肝心なことは、最善の策を、見出すことより、一つの策で、工夫をすることなのだ。焦らず、長い目で、という要を、忘れているようでは、期待できない。
無知なのか、愚かなのか、散々こき下ろされているが、また、暴言を吐いたとされる。一国一城の主、となったから、したい放題とでも、思っているのだろうか。企業を率いていた時も、かなり、勝手気儘だった、と言われるが、更に強い権力を得て、傍若無人ぶりも、強まった。
それにしても、法治国家である限り、誰もが、守らねばならない、規則原則がある。これは、小さな組織を、率いようとも、違法行為が、許される訳ではなく、遵法精神を、失ってしまえば、たとえ、収益を上げたとしても、罰せられる、ということだ。一国の大統領は、確かに、強大な権力を、手にしており、それを使って、自分の考えを、周囲に押し付けることも、可能となる。だが、それが、法に反することとなれば、話は、違ってくる。移民の問題に対して、不当な扱いを、実行しようと、躍起になった時期もあったが、結局、違反行為と断じられ、極端な措置は、葬られていた。今回も、その繋がりから、思い付いたものだろうが、幼い子供でさえ、知っている原則を、無視する言動に、敵視され続けている、報道機関は、批判より、呆然とさせられている。国籍に対する考え方は、国ごとに、異なっており、彼の国では、どこで生まれたかが、決め手となる。だから、その国民の子供でも、他国で生まれた場合、手続きなしで、自動的に国籍を、得ることはできない。逆に、他国民でも、子供が、そこで生まれれば、自動的に、国籍を与えられる。これを、問題として、取り上げたらしいが、憲法で保障された権利を、大統領の気紛れで、奪えると思ったとは、呆れるしかない。彼が気にする移民より、こちらの隣国からの人の方が、遥かに大きな問題だろう。そういうことにさえ、あの愚か者は、気づいていないようだ。何れにしても、自分が決めれば、何でも通るのは、会社のことだけに、すべきだろう。
茶番である。辺境の田舎町が、望外の名売りを、成したと言うには、余りにも情けない。権力を、確保する為に、努力をしている、とはとても言えず、馬鹿げた茶番劇は、全国に流され、町の名が、汚されている、としか言いようがない。真剣な顔で、演じたとしても、茶番は茶番だ。
町議会が、権力を二分する勢力により、真っ二つに割れている。というだけなら、これまでに、何度も聞かされた話であり、注目にも値しない。だが、今回、わざわざ取り上げられたのは、議会の運営にあたる、人物の選出に際し、互いに、拒絶し続けているからだ。議員定数が、偶数であり、偶々、互いの勢力が、同数となった事に、端を発したものだが、それにしても、近所の揉め事のように、下らない話に見える。議長を出せば、投票権が無くなり、勢力図が変わる、というのが、理由とのことだが、投票行動が、個人の意思に基づかず、勢力間の争いにしか、過ぎないことを、示している。本来、議員の選出にあたる、投票行動に関しても、属する勢力ではなく、個人に対して、意思を明らかにする筈が、これでは、名ばかりのものに過ぎず、誰を選んでも同じ、ということになる。その中で、定数が、偶数だったことが、根源となった、とも言えるが、そんなことより、議員一人ひとりの、意思が、尊重されない状況にこそ、問題がある。自らの意思を持たぬ人間を、選ばされたことに、有権者達は、異論を唱えるべきであり、そんな連中が、蠢く組織自体を、解散すべきではないか。その権利が、あるかどうかは、不明だが、最近よくある、リコールなる手立ては、ここでは、適用できないのか。それ自体が、大いなる無駄に違いないが、このまま、放置することは、役立たず連中に、支払う給与を含め、ドブに捨てるだけの、無駄金となる。小さいとはいえ、自分達のことを、自分で解決できない町も、恥を知るべきだ。
坂を登り続けるうちに、峠の頂点を迎え、それを越せば、下り坂に入る。変動と言われるものの、殆どは、こういう経緯を辿る。坂道の話なら、当たり前と受け取れるのに、何故、経済成長では、違うと思い込むのだろう。人の欲とは、それ程に強く、判断を鈍らせるものなのか。
バブル、と呼ばれた事象は、このような経緯を辿った。上昇基調の中で、まだ上がある、という過信が、脆くも崩れた時に、過度に膨らんだものが、弾け飛ぶ訳だ。何度、煮え湯を飲まされても、今度こそは、とばかりに、期待を膨らませる。結果、何度目かの火傷を、負うこととなる。店仕舞いの時期を、逸しないことこそ、経済において、最重要のこと、という考えもあるが、将来への備えに、目を向けると、欲に目が眩んだとしても、仕方ないのかもしれない。分相応を、心得てこそ、無難な生活が、営めるのだろう。では、今年の成長はどうか。今までとは、様子が、明らかに違っている。株価の上昇は、堅調な企業業績によるもの、と言われていたが、そこに、次々に、投げ込まれる政策は、杜撰なものであり、第一主義などと呼ばれる、利己的なものであり、折角の成長を、妨げるものとなっていた。慢心が、招いたものではなく、愚かな心が、招いたものと言え、従来とは異なる、下落の様相を、呈し始めてきた。これも、迎合主義と呼ばれる、考え方が、政治の社会に蔓延した結果であり、将来性を見据えた、確かな政策より、今この瞬間の、駄賃を求める、大衆向けの、俄か政策が、優先された為に、全体の均衡が、破壊されたからだろう。不安が、不安を呼ぶ結果となり、安定成長は、根底から、覆されることとなった。元凶は、ガキ大将のような、大統領に違いなく、施しを、求める国民に、目先の利益を、ばら撒く姿勢にある。これは、まるで、民主主義の限界を、見せつけているようで、根本の仕組みを、考え直す必要を、提示しているのではないか。
夕方の店で、安売りの札を、貼る光景を見る。売れ残るより、儲けが減ってでも、売り切ろうとするのだ。それを、待ち構える人々が居て、普段とは異なる、状況が出来る。ほんの数分の違いで、値段が半分になるなら、待てばいいし、店としても、残るよりはいい、となる。
だが、物の値段を、考えてみると、この仕組みは、正しいとは言えない。本来なら、必要な分だけ、並べておけば、こんな値崩れを、起こすことなく、確実な商売ができる。見込み違いから、儲けが減ることは、何かしらの、過ちを犯しているのではないか。しかし、注文に応じるのでなく、予め用意しておかねばならない物では、必要な分、が難しい問題となる。だから、少し位余計に作り、余った分は、値引きで処理する、となる。元々、その分まで、勘定に入れている、という考えもあるだろう。一方、数の調整はできず、売れ残りを、心配しなければならないものもある。客席は、収容人数から、決まっているものだが、満員御礼となるとは限らない。空席が目立てば、始めの目論見は、成立せず、収入も、減ってしまう。そこで、途中から、席料を減らし、売り切ろうとするが、ここで、大きな問題が生じる。同じ価格の席なのに、時に、隣席に座る人間が、払った額が、自分のと、大きく違ってくる。不公平を感じるが、それこそが、市場原理だなどと、学者達は論じる。それなら、夕方の店と同じように、待てばいい、となったら、収入は、やはり減ってしまう。これを原理と言うなら、始めから、安い席料で、売ればいいとなる。一見、賢い商売のように、見えるものを、機械にやらせようという、動きがあるという。売れ行きを、分析しながら、妥当な額を、算出するというものだが、これとて、逆手に取る動きは、すぐに出てくるだろう。特に、機械同士の戦いでは、人間心理とは違い、冷酷な争いが。