パンチの独り言

(11月5日〜11月11日)
(長期計画、地道、政教分離、島国根性、同類激突、科学離れ、論を戦わす)



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11月11日(日)−論を戦わす

 議論の重要性を、何度も取り上げたが、まだ、理解されていないようだ。と言っても、ここを覗く人は、殆ど居ないのだから、理解には程遠い状況だろう。こちらではなく、現実の世界での話で、自分の考えをぶつけ、それに対する意見と、衝突することの大切さだ。
 議論の為に、重要なことは、沢山ある。例えば、相手の意見に、耳を傾けること、逆から見れば、相手に、自分の意見を、聞いて貰うことである。これが、成立しないと、何も始まらない。だが、多くの人は、ここで躓いてしまう。何を、言っているのか、わからないのだ。自分の言葉を、使う時も、他人の言葉を、借りる時も、どちらも、意味が伝わらず、困り果てることがある。言葉が、借り物であれば、元の意見が、理解不能の場合もあるが、ではなく、借り物を、継ぎ接ぎだらけに、することで、論理に破綻を来す場合が、多いのだろう。当然、自分の言葉を、繋ぎ合わせても、話の流れが、断ち切られ、結果として、何が言いたいのか、さっぱりわからない代物が、出来上がる。ここで躓いては、先に進むことは、叶わない。一方、相互理解が、成立したとしても、そこから先が、難しい場合も多い。意見交換とは、名ばかりで、結局、罵り合いになってしまい、一方的な押し付け合い、となってしまう。議論下手の多くは、失敗の数々を、連ねるけれど、改善の糸口さえ、見出だせない。ここでも、互いの立場を、考える必要がある。相手の意見を、批判としか捉えず、悪口と見做すだけでは、真剣に考える気持ちは、起きてこない。また、反対意見を、敵視するのでは、議論が、始まる筈もない。不慣れな人々の、議論とは、こんな具合なのだろう。これでは、自分の考えを、磨く機会を、逃してしまう。ここでも、お互い様なのだが、互いの意見が、衝突した時に、そこから、その場の結論を、導く気持ちを、持たなければ、先には進めない。尊重するのとは、少し違い、ぶつかり合い、と見るべきだろう。

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11月10日(土)−科学離れ

 もう、関心を集めない、のだろうか。言葉の意味は、不鮮明だが、目的は、明確に違いない、ある催しが、昨日から始まった。13回目となれば、定着したとも思えるが、実態は、そうでもないらしい。今回も、仰々しく始まったが、報道も殆ど無く、耳目は集まらないようだ。
 科学離れ、理科離れが、取り沙汰されてから、久しいが、解決の糸口は、見出せないままだ。状況は、悪化している、とも言われ、安定した時代に、楽を求める声からは、未知への意欲は、感じられない。それに対して、科学立国を、謳ってきたからには、技術の進歩を、緩めてはならず、その為に、人材育成が、喫緊の課題である、と主張する人々は、この試みにも、長い間、力を注いできた。問題意識を、社会に広げることこそが、目的である筈が、定着することなく、話題にもならない、となれば、解決なぞ、望むべくもない。開会の儀式に続き、基調講演に座ったのは、ある航空会社が、取り組む、仮想と現実を、結び付ける仕組み、の紹介だった。内容から、感じられたのは、その軽さだろうか。流行の先端を行く、ことだけが目的で、その為の受け狙いの言葉が、並べ立てられ、一部の賞賛を、勝ち得ていたが、遊びにしか見えず、いい大人の遊びが、こういう地位を得る時代、という印象だけが、残った。現実が失われる懸念が、疑問として投げられても、まともな返答もなく、悪用の懸念も、楽観的な見方で、一蹴していた。科学の催し、とは思えぬ、情けない遣り取りは、時代を映すものだった、のかもしれない。会場は、科学展示だけでなく、社会との繋がりを、説明員が行うのを、特長とするが、工夫不足が、否めない状況にある。若者が、その任に当たるのは、悪いことではないが、力不足が否定できず、手前味噌に陥りがちだ。科学を楽しむ為に、議論は不可欠だが、そこに穴が目立つのは、どちらの催しにも、共通していた。

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11月9日(金)−同類激突

 暴走を繰り返す、という意味で、現代社会は、独裁を妨げる、仕組みを備えている。と言っても、一部の国では、その仕組みを、取り除く動きが、出ており、完全というものが、存在しないことを、痛感させられる。しかし、一度走り出したら、止められないだけに、強い仕組みが必要だ。
 独裁へと走る国の多くは、発展途上にあり、力を勝ち取る為に、必要なもの、と見る向きも多い。だからと言って、一握りの人間が、全ての権力を保持し、勝手に振舞っては、多くの害悪が蔓延ってしまう。途上にあろうが、大きな力を持っていようが、力の集中が、人間の欲望を、増長させることを考えれば、妨げは、不可欠となる。だが、権力者が、通常の判断力を失い、身勝手に振舞い始めると、どんな仕組みがあろうとも、様々な問題が、生じるようになる。特に、独裁者の暴走には、それを支援する人々の存在が、不可欠であり、ある時点までは、熱狂的な支持が、得られている。そろそろ気付いてくれるだろうが、今、これが起きているのが、海の向こうの大国だろう。愚かとしか、言えない選択が、行われた結果とは言え、今でも、支持者の熱狂は、冷めていない。それどころか、更なる支援を、勝ち得たと、思い込んだ権力者は、更なる愚行を、続けており、その勢いは、衰えそうにない。だが、本来の仕組みを、正しく使えば、こんなことは、起きない筈だ。にも拘らず、気付く気配さえ、見えないのは、何故だろうか。人間性の問題、と言えば、その通りだが、そんな欠格者を、選んだ人間や、未だに、熱烈な支持を、表明する人間には、何の責任も、無いのだろうか。この点でも、実は、私利私欲の結果、と見れば、理解できる。ただ、その横行を、妨げる工夫が、必要となっているのだ。どうだろうか、何を変えればいいのか。実は、あの愚か者に、大真面目に、挑む人々にも、同じ愚かさが、見えていることに、問題の本質が、あるように思える。どっちもどっちなのだ。

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11月8日(木)−島国根性

 世間知らず、と言っても、若者の話ではない。大の大人達が、世界の趨勢を知ろうともせず、自分のやり方を、周囲に押し付ける姿に、そんな批判が、突き付けられるのだ。それも、国の環境をもじって、井の中の蛙と、呼ばれたり、それこそ、島国根性などと言われた。
 外の世界との関わりが、重視されるようになり、そんな輩は、姿を消してしまった、と思うのは、浅はかだろう。依然として、国のことどころか、自分の会社のことしか、眼中にない連中は、山のように居る。それを、揶揄する声だけでなく、懸念の声が、聞こえてくるが、そうは言っても、簡単には、整理できないものだ。歪みが、悪影響を及ぼさねば、それで構わず、とでも言いたいのか、意外な程、放置されている場合が多い。問題が起きて、初めて、対策が論じられるが、現状を把握せずに、手を付けてしまうことで、却って、問題を拗らせることが多い。結果、世間知らずは、百害あって一利なし、と言われるが、今、海の向こうで、害悪を産み続けている大統領は、その視野の狭さ、狭量さから、批判が集まっている。だが、その行動様式は、まさに、嘗てこの国で、問題視された、島国根性に、酷似しているのではないか。自分の世界のみを、考えることで、物事を、単純に捉え、極端な判断を、よしとするのは、井戸の底に暮らす、不恰好な生き物に、見做されたとしても、仕方ないようだ。今回の審判にしても、都合良い解釈を、展開する厚顔無恥さに、呆れた人も居るだろうが、多くは、予想通りと受け取っただろう。このまま、分断主義が、横行していけば、破滅へと邁進することは、明白だっただけに、何かしらの制動が、有権者の決断として、下されたことは、好転の兆し、と見る向きもあろう。しかし、あの蛙は、ゲロゲロと、呟くだけで、結局は、混乱を収める気配はない。

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11月7日(水)−政教分離

 布教活動に、努める人々が居る。ある日突然、玄関の外に、彼らが立ち、熱心に説く姿に、呆然とした経験を、持つ人も、居るだろう。彼らの論法には、拠り所とする教典があり、そこに記された言葉を、絶対の存在として、紹介する。門外漢には、得体の知れぬものだが。
 若い頃に、留守番をしていたら、そんな訪問者があり、彼女の言葉では、教典に記された予言は、全て起きたとなる。いやはや、どう処すべきか、と思ったが、咄嗟に出た返答は、これまでがそうだとしても、将来もそうだとは限らぬ、というものだった。膨大な記述の中から、都合のいいものだけを、選び出す作業では、こんなことは、苦も無く行える。だが、それらの記述の中から、将来に適用できるものを、選び出し、それが的中するかを、検証するとなると、話は別なのだ。あの手の人々は、そんな失敗は、犯さない。でも、それを、信じるからこそ、布教に努められるのだろう。では、膨大な記述から、どれを選ぶかが、各人に任されたとして、どんなことが起きるか。同じ教典に、将来を委ねる人でも、どこを引用するかで、正反対の結論が導かれる。結果、全く異なる勢力に、与することとなる。こんなことが、現実に、海の向こうで、起きているという。しかし、政教分離の原則から、この事象は、憲法に反するのではないか。自分達で、作り上げた原則に、反する行為が、横行するのは、やはり、宗教への帰依が、一部の国民に取り、最大の事柄だからだろう。だとしても、この状況は、好ましいものではない。批判的に見れば、引用場所により、導かれる結論が、異なるようなものを、拠り所とするのは、過ちとも言える。ただ、逆に見れば、何でも有りだからこそ、万人に受け容れられた、とも言え、これこそが、多くの信者を獲得できた、要因なのかもしれない。

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11月6日(火)−地道

 新しいことが、第一と見做される中で、本来の目的を、見失わない為には、どんなことが必要か。それを考えておかないと、道を誤ることとなり、後戻りができない世の中では、人生を、無駄にしてしまうことに、なりかねない。だが、それは、個人に任されている。
 社会が、民衆に対して、様々な責任を、負っていた時代と異なり、最近は、何の責任感もなく、ただ、闇雲に、新しいことを、始める場合が多い。その上、検証せずに、次の手立てが、講じられるのでは、犠牲者が、増え続けるのも、当然のことだろう。だが、そこで、国に対して、文句を並べても、何も改善しない。兎も角、手を替え品を替え、という状況にあり、変えることが、何より優先されるだけで、従来のものと、何が異なり、どう変わるのか、という説明さえ、不十分な状態なのだ。これでは、付き合うだけ、無駄なのは、明らかだが、組織自体は、上からの指令に、従うしか手段はなく、疑惑を抱いたとしても、反旗を翻すには、至らない。流れに任せて、様々な奇策が、講じられるのを、四苦八苦しながら、眺める訳にもいかず、何かを施さねばならない。これらの多くは、真面目に積み重ねようとする人間にとって、邪魔なだけだが、これを機会に、目立とうとする人には、渡りに船となる。新たな試みにおいて、存在感を誇示する人間は、時代の寵児とも言える程、皆の注目を浴びる。しかし、その後の展開は、まさに、その試みへの注目が、勢いを無くすに従い、徐々に、忘れ去られる運命にある。確実な道であれば、どんな変化にも、対応可能となるが、際物にも似た、やり方に則した人間は、その範囲内でしか、対応できない。時代の犠牲者が、こんな調子で作られるが、流れに乗ろうとすることが、その原因となるのなら、本人にも、ある程度の責任はある。地道な努力は、それとは違う結果を招くのだ。

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11月5日(月)−長期計画

 落ち着きがない、と言っても、人間の話ではない。政策や方策、人間が作り出すものに、そういう傾向が、強まっているのだ。安定した時代には、何もせずとも、同じことが繰り返され、変化が起きることは、少ない。しかし、安定では、下剋上も、起きないのだ。
 既に、地位を築いた人には、邪魔なものに違いないが、人々の意欲を、奮い立たせる為には、まさに、下剋上が、必要となる。変化を起こす為に、従来とは異なることを、始めるのも、その手立ての一つとなる。だから、次々と、新機軸が、編み出されてくるが、浅慮に過ぎぬものばかりで、その場凌ぎとも、見紛うものとなる。確かに、新しさは、其処彼処に、見え隠れするが、それぞれの効果について、甘い考えが、目立っている。検証が、無いことにより、拍車がかけられ、勢いだけの提案が、社会に投げ込まれている。だが、戦略もなく、目標も、しっかりとは定まっていないのでは、何をどうするのか、当事者に、見えてくる筈も無い。結果として、時間や手間の、無駄ばかりが、山と積み上がり、巻き込まれた人には、疲弊感だけが残る。それでも、懲りない人々は、依然として、新手法を、掲げてくる。しかし、無駄は、所詮、無駄に過ぎず、特に、新しさだけが、前面に出されると、その劣悪さは、当初から、歴然としている。にも拘わらず、誰もが、それに飛び付くのは、新しいものに、駄賃が付けられるからで、なけなしの予算を、それに、注ぎ込もうとする政策が、魅力的と感じられるからだ。無駄と知りつつ、金だけ掠め取る。こんなことが、繰り返され、虎の子の、税金の使い途が、誤った方へと、向けられる。納税者に、判断を委ねることなく、上の方で、勝手に決められ、その後始末まで、押し付けられる。コロコロと変えるのではなく、落ち着いて、長い目で、先を見通すことこそ、安定な時代に、必要なのだ。

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