パンチの独り言

(11月12日〜11月18日)
(着飾る、伝える、人不足、奴隷制度、学び、身内、金集め)



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11月18日(日)−金集め

 寄付行為に対する、心理は、どのようなものか。納税、と称して、不思議な仕組みが、作られた時、本来なら、寄付というやり方で、済む筈のものを、新たな手法が、必要となるのは、何故だろう、という疑問が、生じていた。そこでは、損得問題が、優先されていた。
 海の向こうでは、寄付行為が、盛んに行われている、と言われる。貧富の差が、非常に大きいので、その差を、少しでも、埋める為に、こんな仕組みが、編み出されたとも言われるが、盛んになったのは、税制への取り組みが、元となっている。多額の収入は、労働の対価として、当然のもの、と見做されるが、折角頑張っても、それが、政府に、税金として、巻き上げられるのは、気に入らない、という人にとって、寄付によって、社会への責任を果たすだけでなく、その行為が、節税にも繋がれば、一挙両得とばかり、多くの人が、社会への貢献を、実行するようになる。ところが、こちら側では、大金持ちが居ないだけでなく、寄付行為に対する認識が、乏しいと言われていた。原因の一つは、税制上の措置が、不十分であり、節税に繋がらないから、とも言われており、そちらの整備を、進めるのが、手段の一つと目されたが、現実には、別の手段が、編み出された。その後、新たな提案があり、注目を集めているが、当然、増すばかりの歪みに、制限をかけるべき、との声も高まり続けている。過剰な返礼を、取り締まるのは、当然のことだが、納税への意識を、高める為には、基本に立ち返る必要がある。一方、寄付に対する措置は、不十分なままだから、整備を進める必要があり、そちらを、どうにかせねば、何ともならない。そこに登場したのが、クラウドファンディング、と呼ばれる仕組みで、これにより、多くの人が、支援を得ている、と言われる。ただ、こちらも、そろそろ、考えるべき時が、来ているように見える。闇雲に、金集めに走る、人々を、どう扱うか。

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11月17日(土)−身内

 第三者、とは、どんな人々だろう。事件が起こる度に、その内容を、精査しようと、組織されるのだが、どこを、どうすれば、第三者となるかは、殆ど判らない。身内にとって、他人とは、どこに線引きが、されるのか。明確な区別が、示されることなく、決められる。
 こんな具合だから、利害が入り混じる中で、妥当性について、議論が、高まるのだ。しかし、明確な定義なしに、ただ、話し合いをする、というのでは、結論を導くことは、不可能だろう。公平性や客観性が、尊重されるように、関係者が、互いに、配慮した結果、第三者が、選ばれたとしても、完全な中立は、成立しないだろうし、結論を導く限り、どちらかに、非を認めることとなり、双方にとって、中立とは認め難い、結果を招く。所詮、検証において、双方に、有利になるような、配慮が、できる筈もなく、結果が出る度に、異論が噴出するのも、やむを得ないと思える。にも拘わらず、世間は、厳しい批判を続ける。それも、弱者保護の風潮が、極端に強まる中では、弱者に有利な配慮こそ、第三者が取るべきもの、との認識が、加えられるだけに、公平も客観も、中立さえも、保証できなくなる。通常の感覚では、加害者にも、被害者にも、有利に働かせず、中立な見方で、検証することこそが、第三者委員会に、課せられた務めだが、弱者保護は、そんな原理さえ、圧し潰そうとしている。弱者に、第三者を選ばせるのは、彼らの権利を、保証するものとの、認識があるようだが、その妥当性が、議論されないままに、権利のみが、優先されるようでは、別の不当性を、押し通すものとなる。あらゆる偏見を、排除しようとする仕組みが、こんな形で、捻じ曲げられたのでは、被害者が受けた、虐待と同じものを、関係者が受けることに、なりかねない。

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11月16日(金)−学び

 学ぶとは、どういうことか。改めて考えると、意外に、難しく見える。多くの人にとって、学ぶとは、教室で、教科を習うことや、自宅で、宿題や試験の勉強を、することとなる。では、学校を出てしまえば、もう、学ぶことは、ないのだろうか。そんな筈はない。
 では、学校に関すること以外、何があるのか。おそらく、それ程の意識はなく、漫然と過ごす毎日にも、学ぶことは、数多くあるのだ。日々の暮らしで、ふと感じることがあり、それについて、考える時間を、持つことは、誰にでもある。これが、学びに繋がるとは、どういうことか。新しいことに、接した時、これまでと、何が違うのか、意識を始める。その結果、頭の中で、違いを比較し、そこから、未知のことへの、理解が進み、既知の知識と、新しいものを、融合させようとする。日々の変化が、こんな過程で、処理されることで、経験による、知識の獲得が、可能となる。学校に通った頃とは、明らかに違う状況だが、気がついているだろうか。毎日、強制的に、様々な知識を、教科書から学んだ時期と違い、卒業後は、日々の変化を、自ら感じ取って、そこから学ぶべき事柄を、抽出する必要がある。受け身だったものが、能動的となり、積極的な取り組みが、不可欠となる。だが、周囲を見渡すと、この能力の欠如が、目立つ人が、多いことに、気付かされる。やることには、集中できるが、他人が、どうしているかに、目を向けることがない。特に、目上の人間が、行うことには、経験に基づくものが、多くあるから、今後の糧になる、という筈だが、それに気付くことなく、いざ、自分がその立場になっても、何をすべきか、知らないままとなる。それを、更に深刻にしているのは、自分のすべきことにさえ、集中できない人が増えていることで、その場も将来も、見えていないのだ。好奇心とか興味が、重要と見るのは、こんな背景があるからだろう。

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11月15日(木)−奴隷制度

 就任以来、改悪とも思える、変化を、押し通してきたが、中でも、海の向こうで、注目されるのは、移民政策だろう。本人も含め、元々、その土地に生まれ育った、家系でない人間が、支える国において、新たに参入する人を、どう制限するかは、重要な問題であった。
 にも拘わらず、あの愚か者は、自分の考えを、押し通そうと、様々な力を、行使し続けている。所詮、任期中に限った、暴挙に過ぎない、との見方もあるが、たとえ、一時的にせよ、大きく押し曲げられた政策を、元に戻す為に、膨大な力と予算、更には時間が、必要となるのは、間違いない。議会や裁判所の力で、何とか、押し留めているが、次々に繰り出される、馬鹿げた政策でも、何度も打つ内に、破壊が始まるかもしれない。油断は、禁物なのだ。一方、こちら側では、外国人の雇用を、推し進めようと、躍起になる、愚かな政府が、存在する。人手が足らないから、というのが、彼らの論法で、少子高齢化が、強い後押しとなる、ということらしいが、その根本は、何の根拠もなく、まるで、幼子の思いつきにも似た、愚かなものだ。幼子なら、笑いを誘うだけで、たわいもないもの、と見過ごされるが、大の大人達、特に、権力を笠に着て、暴挙を押し通す人が、行う愚行では、笑っていられぬものがある。海の向こうの、外国人の雇用に関する、制度について、いつものように、猿真似でもすればいいが、今回は、その気配が見えない。高度な技術を有する人材を、確保しようという意図で、定められた滞在許可の仕組みでは、Hなどの頭文字で、表されるものがあり、多くの外国人が、就労機会を得ている。だが、こちら側で、実態を示さずに議論される仕組みは、単純労働を主体とした、人手不足が深刻なものへの、支援に過ぎず、意味不明としか思えない。まるで、奴隷制度の再来、とも思える提案に、手を貸す人間は、自己中心的で傲慢な連中なのだろう。

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11月14日(水)−人不足

 人材不足が、深刻化している、と伝えられるが、少し様子が、違っているようだ。国内で、賄えないのなら、外に、求めればいい、という話だが、政府の要人達には、問題の本質が、理解できていない、と思える。だからと言って、野党の連中が、理解している訳でもない。
 人が足らない、という声は、大手より、中小から、大きく聞こえてくる。それも、労働環境が、劣っている所程、深刻であると伝えられる。贅沢な暮らしに、慣れた人々にとって、劣悪環境は、敬遠の対象となる、という説明だが、それを、外国人にやらせる、という論法は、身勝手極まりない、と言えないだろうか。貧しい国から、やってくるのだから、格差を感じることなく、気持ちよく働ける筈、などと、宣うようでは、愚かさだけが、際立つように思う。環境の改善が、何より優先されるべきだが、無い袖は振れない、とばかりに、補助金を、欲しがる人々は、実は、改善への意欲に、乏しいと言われる。この問題を、どう解決するか、には触れぬままに、外からの数を、求める動きが、政府内に、強まっているが、議論の余地なし、という扱いに、反発は強まるばかりだ。だが、足らないものを、どう補うかに関して、話し合っても、何も解決しない。能力の低下が、懸念される、国内人材において、学歴ばかりが、注目されるが、無能な人々が、そんな機会を得ても、改善の気配も見えぬ中では、進学の機会均等は、何の意味もなさない。そろそろ、そちらの方に、気付いたら、と思うが、こちらでも、無能な人々と、私利私欲に走る、似非正義を、掲げる人々に、振り回されるだけで、無駄な時間が、過ぎていく。働くことの大切さを、論じぬままに、それから逃げる人々を、放置するようでは、不足は、永遠に解決されない。単に、人の数が、減ったことが、原因ではないのだ。

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11月13日(火)−伝える

 伝達能力の欠如、今、世の中で、最大の問題と、目されるものだが、改善の方策は、十分に整えられていない。だからこそ、問題として捉えられており、解決を目指すのだが、肝心なものが、不足しているように見える。それは何か、ある意味、明確なのだが。
 簡単には、こうすればいい、という方法は、見出されている。しかし、それを、現場に持ち込んでも、芳しい結果が、得られていない。そこにある問題は、指南書にあるように、そのまま行えば、ということにあるのではなく、行うこと自体に、あるのではないか。つまり、問題を抱える人間に、道具を与えても、使おうとしない、という点が、問題を生じている、ということだ。分かりにくいだろうか。周囲から見れば、欠如が明らかな人が、自身で、それを、問題と感じず、道具を示されても、何故、そんなことをされるのかさえ、理解できない、というのだ。何故、伝わらないのか、不思議に思うのであれば、手法を示すだけで、その真似ができる。だが、伝わらずとも、何の支障も、感じないという状況では、道具は、無用なものに見え、何も行わないから、改善はあり得ず、欠如は、放置される。よく言われる、問題意識の問題、ということだろう。こんな連中に、何を指示しても、何も起きない。ただの無駄となるだけだ。逆に言えば、相手をする価値さえ、見出せないような輩に、手間をかけるのは、無駄としか、言いようがないのだ。排除、という表現は、いかにも、乱暴に映るが、それに近い措置を、施さねば、歪みが強まるだけだから、そろそろ、やる気のない人間に、手を差し伸べるのは、止めたほうがいい。意欲さえあれば、何かを伝えようと、頑張るだろうから、その連中を、相手にすればいい訳だ。だが、これとて、簡単ではない。何しろ、自分中心で、相手のことに、思いが至らないのだから、伝える技術を、身に付ける為にも、一つ二つ、足らないものを、補わなければならない。

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11月12日(月)−着飾る

 新しいことに、光をあてる。そんなことが、繰り返される一方で、古いものが、忘れ去られていく。大切にしようにも、新しいものに、心を奪われる人々に、その重要性を、伝えることは、難しい。再認識、などと書き立てても、「古い」の一言で、無視される。
 日常生活で、必要とされたものも、生活様式が、変化することにより、不要と見做されると、あっという間に、忘れられる。今や、伝統的衣服、などと呼ばれ、日常とは、かけ離れた世界に、あるものとなっているが、嘗ては、普段着であり、身近な存在だった。ただ、今残っているものは、やはり、普段ではなく、畏まった機会に、着飾る為のものだった。逆に言えば、それしか残っておらず、普段使いの、安価なものは、完全に姿を消した、ということだろう。だが、嘗ての高嶺の花は、今でも、似たような状況にあり、大枚叩いて、手に入れるしか、方法はない。だから、客離れも、致し方なし、と見る向きもあるが、生活費に占める割合を、考えてみると、遥かに安い値段で、揃えることができる。だから、とはいかず、結局、離れた人々が、戻ってくることは、殆どない。精々、着古されたものが、市場に出てくることで、更に、安い価格で、手に入れた人が、僅かに居るだけだろう。それでも、その姿を、目にすることで、何かを感じる人の数が、増えてくれれば、業界としては、有難いとなるのだろうか。だが、新品を、手に入れるのは、まだまだ、敷居が高い、となっている。特に、売れ行きが落ちる中で、安価なものが出回る一方、伝統的なものは、手が届かぬ程に、高価となる中では、嘗ての繁栄を、取り戻すことは、無理と言わざる得ない。それでも、偶には、親から譲り受けたものを、着て出かけたい、と思う人も、居るかもしれない。そこで、問題となるのは、どうやって着るのか、となる。いやはや、伝統を守るには、問題山積である。

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