文章を書く人々は、言葉を大切にする。よく言われることだが、昔、著名な小説家の話を、聴いた時に感じたのは、彼の言葉への感情、のようなものだった。理路整然と語られる話は、彼自身の思いだけでなく、それまでに得た知識や考え方を、表すものだったと思う。
物書きは、こうあるべき、と語るのは、少し軽々に過ぎる。文学を、学問として語ることを、小説を著すのと、並行して行ってきた人物は、ただ、書くだけが仕事、とは言えないからだ。しかし、言葉に愛情を込め、それを遺すことに、全精力を注いだ人は、その後間もなく、鬼籍に入ってしまった。それでも、遺した作品は、肉体が滅びても、永遠に残る訳で、市井の人々とは、明らかに異なっている。一方で、活字に思いを残す人々が、全て、言葉を大切にする、訳でもあるまい。こんな形で、思いを残す人の多くは、奇怪な思いを、出鱈目な言葉で、書き散らすだけで、ゴミが溜まるだけだ。それでも、名を売ることに、成功する人も、少ないものの確実に居る。その中の一人は、今や、画面にも現れ、豊かな知識を、平易な言葉で語る、として、評判を得ている。だが、彼の専門分野からは、厳しい批判が、浴びせられ、酷評の的となっている。所属する大学の地位も、同じままで、異なる学部へと、いつの間にか、移っていた。大学運営の立場から、彼の評価を、活かすための手立てとして、専門である、理工から、著作活動の高評価が、繋がるものとして、総合文化政策なる、得体の知れない組織へ、移したらしい。だが、逆に見れば、専門分野での活動が、評価に値しない、と見られなくもない。たとえ、平易で、分かり易くとも、言葉を大切にしなければ、創作活動も、危うくなる。そう見れば、件の人物も、言葉の定義を、誤ることで、評判を落とし続けることから、早晩、学問に携わることさえ、困難となるだろう。独自の解釈は、評判を得たとしても、間違いは、間違いなのだから。
お人好し、とは、良い人には違いないが、少々、悪い意味を、込めたい時に、使われる言葉のようだ。良人だが、時に、人が良すぎて、相手の思う壺となる。騙されることも、多くあると言われる。だが、それにも懲りず、周囲に、善行を繰り返す、という訳だ。
こんな人は、もう居ない、とも言われるが、自分の国が、そう呼ばれていることに、気付いているだろうか。政府開発援助、と呼ばれるものだが、おそらく、ODAという略称の方が、知名度は高いだろう。開発途上国への支援として、政府が準備したものであり、それにより、国の発展を、促進しようというものだ。なんだ、金貸しのことか、と思う人が居るだろうが、中には、無償の援助もあり、それほど、単純なものでは、ないようだ。特に、最近、成長著しい、隣の国が、盛んに援助している、との報道がある中、その殆ど全てが、金貸しであり、返済が滞れば、ある権利を渡す、などとの条文が、混ぜてあることが、伝えられており、その手法が、こちら側のものとは、大きく異なることに、気付かされる。また、別の隣国は、国内経済の停滞から、海外に投資先を求め、現地の経済発展を、進める為と称して、かなりの資金が、注ぎ込まれている。だが、これも、利益を求めるものであり、違う種類のものに見える。それらを考えると、何と暢気な状況か、と国際的にも見做され、お人好しの政策、と呼ばれることとなる。確かに、その日の稼ぎや、国の利益を、優先させる考えでは、見返りを考えない、無駄な金の使い方、に見えるだろうが、長い目で見れば、それぞれの国の、発展を支援し、それが、巡り巡って、自国に利益に、結び付くとも考えられる。ただ、この考えが、高度成長期には、認められていたものの、そろそろ、懐が寂しくなる中では、認め難くなっている。それも、自国の利益ばかりを、追い求めるのが、世界的風潮となれば、尚更だろう。だが、そんな考えが、あってもいいのでは、というのが、この国の美点なのかもしれぬ。
学びの環境を、変えようとする動きが、強まっている。目先を変えることで、修学の意義を、高めようとするのだろうが、無理筋に思えてならない。成果が上がらず、能力の低下が、著しくなり、国際競争に、勝ち残るどころか、負け去るような状況に、危機感は、高まっているが。
教え込む、という形式では、ついてこられない若者が、増え続けており、能力低下が、顕在化している、と言われる。強制的に、学習させるのでは、身に付かないという考えから、楽しく学ばせようと、様々に、工夫を凝らしている。だが、目先を変えても、殆ど効果が上がらず、変化に対応する為に、費やした時間は、無駄となる。これが、繰り返され続け、現場は、疲弊が著しい、とも言われるが、上に立つ人間達は、全く懲りることなく、新たな試みを、提案し続ける。今は、丁度、積極的な学習、と呼ばれるものが、持て囃され始めている。参加型のものが、好まれる時代に、それを、更に一歩進め、学習者自身が、自らの力で、進めようとするもので、意欲が高まるにつれ、能力の獲得も、高まるとの見立てが、示されている。だが、笛吹けど踊らず、の状況にある、不幸な若者にとって、参加さえも、強制されたものに過ぎず、芝居を演じるように、その場では、役を演じても、中身の理解や、能力の獲得には、覚束無い状態のままなのは、変わりがない。積極性を高める為には、それなりの準備が必要だが、今、取り組んでいる、積極的な学習は、その場限りのものばかりで、準備どころか、後始末さえ、行われないものでしかない。このまま進めば、頓挫するのは、ほぼ確実なのではないか。もしそうなら、早々に、根本的な考え方を、変える必要がある。慌てて、手をつけても、火傷するのが、精々なのではないか。
真相は、暫くは、明らかにならない。その間は、憶測ばかりが、飛び交うだけで、どのみち、井戸端会議での、噂話にしか、思えないものばかり、となる。売り上げ部数を、誇るからか、三面記事に、力を入れる新聞も、週刊誌も、報道関係は、全て、そんな状態となる。
こちらも、その流れに乗って、などと考えるつもりは、毛頭ない。ただ、これまでに、あの人物、というより、あの企業が、行ってきたことに、少し、文句を並べておくだけだ。様々な改革で、業績を、急激に回復しただけに、止まらず、その後も、順調な経過を、辿ってきた、と見る人もいるだろうが、彼らが主張してきた、販売実績という業績には、多くの不明瞭な数字が、並んでいた。それ自体も、表面上の成績を、並べることを、常とする、販売員の性癖と同じで、よく見せようという思惑に、満ち溢れていたものだが、それ以外にも、企業理念を、疑われるようなやり方が、横行しているように、見えていた。生産自体は、行わずに、販売のみをするのは、あの業界も含め、度々目にする商法だが、その中で、あの企業が供給先に、突き付けた告発は、耳を疑うものだった。供給された製品に、不正が行われた、と訴えるのに、何故、相手に直接ではなく、監督官庁にしたのか、未だに、理解できない。協力関係にあるからこそ、公にすることなく、過ちを正すことが、先にくると思うが、彼らの行ったのは、まさに、崖から突き落とす行為であり、結果として、合併吸収という憂き目に、相手を追い込むこととなった。救いの手を差し伸べた、とでも言いたいのか、厚顔無恥な態度は、変わることなく、その後も、自らの勢力を、増そうとする動きを続けた。これこそ、あの経営者が、得意とする所であり、それによって、強大な力を得てきたのだ。あのことだけでも、不正の温床は、あったに違いない、と思える。
掌を、返したような反応、と見る向きもあるだろう。だが、薄々感じていた、とする方が、遥かに多いのでは、ないだろうか。黒船襲来、との声もあった、就任直後の、大鉈を振るうような、極端な縮小は、確かに、V字回復を、実現させた。だが、恨み辛みも、募っていた。
傾いた経営を、回復させた功績に、賞賛の嵐、とも思える反応が、一部に起きていたが、取引を、切り捨てられた、中小の多くは、社員の生活が、危うくなることで、恨むことはあっても、称えるようなことは、一つもなかったろう。同じ大手でも、窮地を脱する為に、全く異なる戦略を、採った企業とは、評価が大きく分かれるところだ。更に、回復後の、経営計画においても、大きな違いが表れ、表向きは、好調さを維持していても、揺るぎない確実な、開発に基づく、製造理念を発表する、対抗企業とは異なり、広告を含めて、一貫性のない、姿勢には、信頼に値しない企業理念が、見え隠れしていた。電気自動車が、社運を賭けた製品と、大袈裟な程の、声明を出し続けたが、低迷を続けると、それまで、断固否定していた、電気と燃料を、共用する製品を、主力として主張し始めた。経営責任者が、全ての方針を、決める訳では、ないかもしれないが、社風の転換が、回復の原動力となったことが、ここでも、如実に表れていた。車好きを、買い手として想定した、商品開発が、不振の原因となった、と言われたことから、大衆に好まれる製品を、開発することが、回復への手立てとなる、というのが、当時の舵切りだったが、その後も、同じ方針を、続けることで、表面的には、営業成績を、保っていたと言われる。だが、そこでも、度重なる方針転換に、製造現場は、振り回され続けていただろう。それらの歪みが、今回の事件を招いた訳ではないが、元々、無理が祟った上に、不当な利益を、隠蔽する姿勢に、反旗を翻したのかもしれない。
意外、という声が、各所から届く。そんな報道に、目を奪われる人も、多く居るだろうが、少し、注意深い人の中には、そこに並ぶ言葉に、首を傾げた人も、多いのではないか。結果として、納めるべきものを、隠したということだが、それだけには、見えない。
突然の死に、驚きが広がった、著名な映画監督の、作品の一つに、税金に関わる物語がある。面白おかしく描かれていたが、肝心な部分は、成る程という、納得で迎えられ、十分な調査に基づく、制作であったことに、賞賛を感じた人も、多かっただろう。それはそれとして、国民の義務の一つに、挙げられるものを、免れようとする人々の数は、古今東西、減ることはなく、次々に、新手法が編み出され、まさに、鼬ごっこと思える、状況が続いている。泡銭を含め、莫大な収入を、得た人々が、それを、なるべく多く保持したい、と願う気持ちは、庶民には理解できないが、正当な収入を、主張する人々は、不当にも思える重税に、抜け道を探ろうと、する場合もあるのだろう。それだけなら、従来の犯罪と、何の違いもないのだが、今回の驚きは、そこにあるのではない。企業が、収益の報告として、公式に提出する書類に、改竄があった、とされるもので、通常であれば、罰せられるのは、経営にあたる個人だけでなく、企業そのものにも、手が及ぶ筈のものだ。ところが、今回の事件では、数字そのものに、直接関係する、経営責任者と、もう一人の役員だけに、限られていた。そこに、大きな不思議があるが、まだ、第一報に過ぎず、詳細は、暴かれていないように見える。と言っても、逮捕に踏み切ったとなれば、結論は、導かれていなければならず、筋書きは、既に完成しているだろう。だとすれば、今後、徐々に、真相が明らかとなる。だが、他への波及は、どうなるのか、現時点では、明らかではない。
並んでも食べたい、という文字が、踊っている。予約が取れない店には、行きたくない、という人以外にとって、興味を惹く話だが、その理由は、様々なようだ。何度も通う人は、その味に、魅力を感じており、どうしても食べたい、と思う。が、一方で、違う理由がある。
それは、多くの人が、訪れるから、というもので、人気の高さが、最優先の理由となる。味も、雰囲気も、気に入ろうが、入るまいが、関係ないのだ。一度訪れれば、それで満足するのも、人気第一、という理由からだ。他と同じことを、やりたいとの望みさえ、満たされれば、それで十分であり、その価値を、見極める力について、関心さえないのだろう。
味の違いを、感じ分け、雰囲気を、感じ取る力、所謂感性に、興味を抱くことはなく、また、それらを楽しむ心さえ、持ち合わせていない。まるで、競争の如く、他人と同じことを、したいだけなのだ。それもまた、人気であり、そこには、熱狂がある、と言われる。だが、近年の人気や熱狂には、この話と同じように、ただ、騒いでいるだけで、本質を見極め、真実を見出そうとする、嘗ての心は、失われてしまった。だが、社会は、これらを追い求めることに、躍起になっており、それを、最優先とする。日常だけでなく、投票行為にも、その傾向は、如実に表れており、全体の勢いだけに、頼る人々が、多くの票を投じている。結果は、今、目の前に、表れている。それも、国内だけでなく、世界中が、そんなお祭り騒ぎで、まさに、熱狂の中にある。しかし、小さなきっかけで、騒ぎに参加する人々は、その殆どが、すぐに冷めてしまう。急に高まった人気が、同じように、急速に縮んでしまえば、誰も、見向きもしない、事態に陥る。店の人気と同様に、政の世界も、そんな状況にある。これでは、混迷が続くだけで、光は見えてこず、店を畳まざるをえないのと、同じことになる。