パンチの独り言

(11月26日〜12月2日)
(長蛇の列、教わる、溝に捨てる、情けない、災難、双方向、揺り動かす)



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12月2日(日)−揺り動かす

 平和な時代が、長く続き、安定が、当然となる中で、少しの不安要素、少しの揺らぎに対し、皆が、騒然とする。だが、その一方で、安定を崩し、不安に陥らせることで、自らの立場を、強固なものとする、施政者が居る。困ったものだが、当人は、当然のことと振る舞う。
 何故、と思う人は多いが、本人は、至って平静で、それが当然と思う。だからこそ、無茶な行動に、出ているのだが、これも、相手あってのこと、自分を、支援してくれる人々なら、少しの悪影響も、大目に見てくれようが、敵対する勢力となれば、話は、全く異なってくる。それが、端緒となり、傷口が広がれば、修復は、難しくなるばかりだ。昔話で、堤防に開いた、小さな穴を塞ごうと、勇気を奮った少年の、話が伝えられているが、その立場に、なろうとする人は、殆ど見当たらない。安定の中では、自分の身を守ることが、第一であり、社会や周囲に対して、何かを行うのは、二の次となる。だが、これまでの流れとは、何かが違ってきている。安定に入った頃から、皆が、社会への働きかけや、貧しい人々との関わりを、重視してきたのに、何故、同じ安定でも、長く続くと、利己的な行動に、出るのだろうか。やっと勝ち得た安定を、保とうとする気持ちが、初めは働いていたのに、それが、長く続くと、安定は当然のことであり、そこで、何かをせねばならないとは、思わなくなるのか。これも、不思議なものだ。安定を、失いたくない、などと叫ぶ人の多くは、不安に苛まれ、安定を保とうと、努力すると言われる。だが、それは、安定を勝ち得た人々の、不安とは、別種のものらしい。手に入れたのではなく、与えられたものだから、違ってくるのか。だとしても、不安を煽り、均衡を崩す輩の暴走を、止めることが、できないのは何故か、不思議に思う。

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12月1日(土)−双方向

 何事にも、真剣に取り組む姿勢が、重視される、と言われるが、何をもって、真剣と判断できるか、その結果として、どんなことが期待できるか、肝心な問題が、言及されることはない。人としての価値は、どれだけの成果を、上げられるか、とも言われるが。
 客観的な指標として、費やした時間や、作り上げた書類の量が、示されるものの、それが、そのまま、成果に結び付かないことは、仕事に携わってみれば、すぐに理解できる。大学でのレポートで、字数制限に、縛り付けられることで、四苦八苦した経験を持てば、質より量の感覚は、簡単に見極められる。だが、それが、厳しい評価を受ければ、質を、追い求めることが、要求されていることに、気付く筈だ。ところが、個々の評価が、厳しく行われても、結局、学生の成果としては、単位の取得しか、形として見られないとしたら、結局、字数を埋めることに、力を注ぐことこそが、肝心となるだけなのだ。こんな経験を積んだ人々が、期待される人材として、社会に進出する訳で、これでは、期待される成果は、手に入らないのではないか。では、どんなことをすれば、こんな期待は、実現するのだろうか。取り組み方、という点で、真剣さだけが、指標となる場合には、欠けているものが、あると言われる。何をどうすれば、成果が得られるか、については、経験者に、語って貰うしか、方法はないだろう。そこにある違いこそが、肝心なものなのだが、それを、端から見て、気付けるだけの、予備知識を、手に入れておくことが、重要となる。例えば、右から左へ、書き写すことが、作業と思うだけでは、単なる模倣に過ぎず、剽窃という批判さえ、受けることとなる。そこに、独自の考えを、適用することこそが、重要なのだ。そこには、一方的な流れではなく、双方向の流れがある。気付いているだろうか。

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11月30日(金)−災難

 虐待とか、虐めとか、そんな話題が、取り上げられる度に、思うことがある。何故、そんなことが、起きるのか、というのは、当然だが、それ以外にも、何故、そんな結果になったのか、という点に、首を傾げることが多い。原因より、結果の方が、不可思議に思えるのだ。
 全ての人が、同じ経験を、してきたという訳ではない。運不運により、何の害も受けずに、過ごした人の方が、遥かに多いだろう。しかし、一旦、被害者となってしまうと、そこから抜け出すのは、難しいと言われる。特に、重大な結果ばかりが、伝えられる中では、害を受けたら、何としてでも、抜け出さねばならない、と思えるだろう。だが、受けた人の多くは、実は、じっと我慢し、嵐が過ぎ去るのを、待つことで、窮地を抜け出す。積極的に、抵抗を続けるのも、方法の一つだろうが、波風を立てて、加害者に対して、毅然とした態度を、貫くことは、却って、害を増すことへと、結び付くことも多い。それが、悲惨な結果へと、結び付くことも、多いだけに、危険を冒すことは、勇気とは、言い切れないものと、なる場合も多い。弱者だからこそ、被害者になる、という見方をすれば、窮鼠猫を噛む、という具合には、簡単にはいかない。ちょっと噛んだとしても、相手が、逆上してしまえば、更なる暴力に、晒されることとなる。それは、知恵でも何でもなく、ただ、弱いからこそ、我慢を続けるだけのことだ。そんな経験を、持つ人は、実は、沢山居るだろう。だが、それでも、結果良ければ、という具合に、当時の悲劇を、偶に思う程度で、人は暮らしている。そこに、悲惨な結果が、届くと、少し考えるだけだ。それにしても、結果は、明白なものとなるが、いつも、原因は、解明されないことが、多々ある。何故、虐待に走ったのか。何故、暴力へと結び付いたか。実は、加害者自身、気付いていないらしい。それこそが、重大な問題だが、殆ど解決しない。だからこそ、嵐が過ぎ去るのを、待つしかない。心の傷を、残さぬように。

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11月29日(木)−情けない

 本当に、腐っているんだ、と思える。課せられた、仕事をすることもなく、ただ、自分の地位を、守ろうとする人が、あまりに多いのだ。過剰労働が、問題になる現場だが、実際には、時間だけが、無駄に流れるだけで、まともな成果は、一切得られていない。
 国を支える為に、人材を育成することは、常に重要となる。だが、現場の疲弊は、何度も取り上げられる程、深刻と、伝えられる。だが、働き過ぎとか、過度な責任を、負わされているとか、そんな実情は、かなり歪曲されて、伝えられている。現実に、教員としての、責任を果たすだけでなく、人間として、次代を担う人材を、育成しようと、努力を重ねる人も居る。だが、多くの企業と同様に、そんな人は、ほんの一握りで、大多数は、ただ漫然と、収入の確保に、努めている。これでは、仕事をするのではなく、ただ、そこに居るだけで、毎日、何やらしているふりで、時間を過ごしているにすぎない。それにより、自分の遊びや、家族の為に使う、金を手に入れている。彼らには、仕事への情熱は、微塵も感じられず、自分で決めた、やるべきことだけを、時間をかけて、行うだけなのだ。勤務時間を、眺めるだけでは、腐った根性を、見抜くことはできない。却って、不幸の塊のように、扱われることで、しめたもの、と思うだけだ。こういう人間の、優先順位にも、開いた口が塞がらない。子供達の人生に、必要なことは、一切無視し、自分のできることを、ただ押し付ける。それを、上からの圧力と、訴えることで、救済を受けようとする。ここでも、弱者を装えば、何事も、都合よく運ぶ。だが、彼らの、悪行の数々が、実は、この国の、教育状況の悪化に、結びついているとしたら、誰が、悪者なのかは、歴然としている。人材育成を、教科書を読むこと、と思い込む人間程、こんな傾向に陥る。そろそろ、厳しい選別が、必要なのだ。

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11月28日(水)−溝に捨てる

 昨日書いたように、権利を手に入れれば、能力は、確実に向上する、という風潮がある。だが、これは、金と権利の交換であり、まさに、無い袖は振れない、ということだ。だとすれば、更に、貧富の差が広がり、貧困から、抜け出せない人が、増えるだけとなる。
 だが、一方で、その差を縮めようと、機会均等を、訴える声も、大きくなる風潮がある。これでは、矛盾するではないか、という声も聞こえるが、無関係な人間が、それぞれ、別々に、論じていて、互いの事情を、理解しようとしないのだから、矛盾とは言えない、とされている。まあ、この議論の、馬鹿馬鹿しさは、さておき、貧しいか、豊かかで、差ができる、という状況は、確かに、異常であるとも言える。だが、それを招いているのは、大部分の人々が、努力もせずに、権利を手に入れようと、躍起になっている状況だからだろう。機会均等を、訴える人々も、その視点に欠けており、機会を与えれば、それで終わりという姿勢に、大きな問題がある。その後の努力と成長を、正当に評価すれば、状況は、改善されるに違いないが、そんなことを、する気は無いらしく、そのまま、放置するというのでは、ただ、無駄な時間を過ごす、人の数が増えるだけで、機会を与える為に、使われた金は、溝に捨てただけとなる。この繰り返しが、無駄遣いの大元であり、反省もせずに、機会や金を与え続ける、何とも、無能な政策が、続けられる。大きく掲げられた、人材育成の看板も、倒れ続けているようでは、この国の将来は、暗いものと、言わざるを得ない。それにしても、気付く気配さえないのは、何故なのか。おそらく、評価する力が、全く無い人間が、政策の立案に、携わっているからだろう。これは、今混迷を極める、政治の世界の、元凶となっている。

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11月27日(火)−教わる

 分からないのは、教え方が悪いから、という話を、よく聞くようになった。昔は、分からないのは、自分が悪い、勉強の仕方が、悪いからだと言っていた。それが、いつの間にやら、教わる側の問題ではなく、教える側の問題とされ、分からない人間は、何も悪くない、とされる。
 だが、これは、本当だろうか。弱者は、何も悪くなく、強い立場の人間が、悪者にされる時代、のようだ。努力を積み重ね、様々な困難を、克服することが、高く評価された時代と違い、努力は、大した意味を持たず、誰もが、何でもできるようになる。そんな時代を迎え、人々は、ただ、座っているだけで、或る日突然、資格を手に入れられる。日々、努力をした時代と違い、誰もが、簡単に、能力を獲得できる。ほんの短い時間を、費やすだけで、できなかったことが、できるようになる。その秘訣は、何も不思議なことではないが、何かの媒体を、手に入れる必要がある。そんな謳い文句が、巷に溢れており、権利を手にする為に、対価を支払う必要がある。だが、金さえ支払えば、誰でも、手に入れられる、という一言は、皆に魅力的に映る。だから、誰もが、手を伸ばす訳だ。その結果、誰もが、同じ能力を手に入れられ、皆が平等な地位を、手に入れられる。と、ここまで読めば、何か、誤魔化されたような、気がしてくるだろう。その通り、何事も、そんな容易く進む筈はない。人と違うことを、しなければ、人より上の能力を、手に入れることは、できる筈がないのだ。だが、世の中は、そんな風に、感じていない。だから、誰もが、自分も、できるようになるのが、当然と思う。だから、できないのなら、自分ではなく、他人に責任がある、となる。それはつまり、教える人間の、問題となる訳だ。いやはや、おかしな論法だが、これが、罷り通るのが、現代社会なのだ。

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11月26日(月)−長蛇の列

 祭り好きの、国民性によるもの、と思う人も居るだろうが、別の見方も、あるようだ。博覧会という、お祭りの誘致に、成功したとの報に、接した時、半世紀ほど前の出来事を、思い出した人が、多かっただろう。即座に、経済効果を、論じるのは、早計に過ぎる、だろうが。
 穿った見方からは、かつて、別の祭りの誘致に、失敗した経緯から、当時、準備と称して、埋め立てを進めた土地を、愈々活かせる時が、来たとも言われる。利用価値のない、開発地を、使うあてが、できただけでも、満足との声も、あるようだが、新たな資金調達には、険しい道が、予想される。それも、景気の回復が、芳しくない状況で、地元の企業も、危うい状況が続く中では、懸念が高まるのも、止むを得ない所だろう。それでも、景気のことを、忘れさせるくらい、盛り上がる祭りなら、経済どころか、心理的に、十分な効果が、見込めるというのが、誘致の論理なのかもしれない。当時、山ばかりと、思われた土地に、開発の手が及び、祭りの器が、建設された時、夢の跡は、どうなるかとの心配も、数々掲げられたが、結局、大部分が、新興住宅地に変貌し、終わり良し、ともなっていた。祭り好きには、たまらない状況も、関心を示さぬ人々には、ただの迷惑となる。当時も、国を挙げての騒動に、迷惑を感じた人も、居たに違いないが、殆ど取り上げられず、忘れるより先に、目も向けられなかった。半世紀を経ても、当時の喧騒ぶりが、思い起こされるが、長蛇の列を、敬遠することで、冷戦期の両大国ではなく、その隣国や関係の小国の、施設ばかりを、巡る人も多かった。当時の列では、4時間待ちが、とどこかで話していたが、つい先日の、ある遊園地の列は、何と、11時間待ちだったそうな。これなら、混雑にも、理解が示される、のかもしれない。ただ、それとこれとは、別のこと、なのかも。

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