パンチの独り言

(12月3日〜12月9日)
(騙されない、見破る、人を裁く、育成法、愚と愚、御都合主義、政情不安)



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12月9日(日)−政情不安

 先の大戦に敗れ、敗戦国として、再び、立ち上がった国同士、共通点が、沢山あると言われる。だが、その中でも、一つの国は、先進国に属するものの、国民気質の違いからか、相違点が、目立つようだ。それを除く、二つの国は、戦時も含め、復興の道筋も、よく似ている。
 周辺地域への侵攻など、歴史上に、大きな汚点を残し、その反省を、強く求められるのも、多くある共通点の一つだが、実際には、現時点の国家間の状況には、大きな隔たりがある。関係国からの理解の違いは、勿論だが、関係の結び方についても、大きな違いがある。国際紛争に、及ぶ程のものもあり、依然として、戦後は、終わっていない、などという意見が、聞こえてくるのも、そんな関係性に、よるものなのだろう。だが、これは、当事国の国情に、よるものとも、見えてくる。不安定を、避ける為と称して、仮想敵を、設定するなど、ある意味、勝手な事情と、見えなくもない。とは言え、直後に比べれば、どちらの国も、大きく発展し、安定を勝ち得たと思える。だが、最近の状況は、また、大きく変化し始めている。特に、あちらの国では、先の大戦の前にも、敗戦国を、経験しており、二度の過ちを、繰り返さぬ為に、様々な工夫がなされ、安定を手に入れただけでなく、二分された国を、元の形に戻すことも、実現してきた。その際に、政治的に異なる二国が、一緒になる為に、大きな変化を、経験してきた。それは、まるで、大量の移民を、引き受けるようなものだ、という意見が、当時も飛び交っていて、それによる不安定を、懸念する声も、大きかった。だが、その荒波をも、乗り越えて、経済大国としての、地位を維持したことは、移民への寛容性へと、結び付いたのではないか。宰相も、その立場の人であり、そこに、政策への想いが、反映されていたとしても、不思議はない。だが、国際的な不安定は、ここにも及び、厳しい状況となりつつある。同じ事象が、各国で起こり始め、戦前の混乱と似てくると、心配は、大きくならざるを得ない。

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12月8日(土)−御都合主義

 設備の老朽化、確かに、深刻な問題に、違いない。一般企業であれば、設備投資として、予算を確保し、時に、留保という形で、年度を跨ぐ場合もある。しかし、この国の役所は、相変わらず、単年度予算と称して、確保も、出費も、年度内にと限っている。
 勿論、それだけが原因ではなく、運用の問題こそが、重要と見る向きもある。予算の確保だけでなく、天から降ってくるような、交付税と呼ばれる代物に、振り回される中で、設備の維持に、回せる袖が、短いままで、継ぎ足すことも、事業への制限で、難しいとされる。その背景から、法の改正を、目論んだと言われるが、果たして、それだけだろうか。公共事業の中でも、作るだけでなく、その運営も、私企業に任せる、となると、様々な問題が、生じると言われてきた。水道事業では、上下水道において、厳しい基準が定められ、その維持には、利益追求とは、相容れぬ状況に、あると言われる。だからこそ、制限を設けて、その運営に当たってきた。だが、無い袖は振れない、とばかりに、資金確保が、困難な中で、参入を促そうと、改正がなされた、と伝えられる。この点は、事実に違いなく、窮すれば通ず、とばかりに、解決の道を、見出そうとするだけ、とも見える。だが、設備投資の常として、それによる、収益の改善、あるいは維持が、あることを思うと、参入企業は、投資した分を、回収するだけでなく、更なる上積みを、企むことは、当然と見える。それに対し、役人共は、本当に、このまま、事業を手放すのだろうか。多分、全ての設備が、更新されれば、運営自体は、通常の予算範囲内で、賄えることとなる。となれば、用済み、なのではないか。愚かなだけでなく、身勝手な連中の、どす黒い思惑に、振り回されようとする企業は、果たして、出てくるものか。

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12月7日(金)−愚と愚

 志を捨て、人気商売に、身を落とした人々が、無能なのは、当然のことだろうが、政を支え、この国の行き先を、定める立場にある人々は、周囲の声に惑わされず、信念を抱いて、務めを果たすべきではないか。だが、現実は、場当たり的な施策で、目先を誤魔化すだけだ。
 政治家が、票を求めて、誤魔化しに走るのは、近年、頓に目立つ行動だが、官僚が、それに靡き、愚策を講じるのは、どうしたものか。確かな考えもなく、思い付きを並べても、成果に結び付かないのは、自明の理だが、それを、後ろから支え、軌道修正を施すのは、黒子としての、官僚の役割だった。だが、いつ頃からか、目立ちたがりが、闊歩する世界となり、厳しい批判に、晒され続けると、無能なだけの人間が、過剰な演出さえ、するような事態となり、肝心の人材は、枯渇とも思える、異常な事態に陥った。その中で、民営化を旗印に、派手な呼びかけで、人気を勝ち取った宰相が、登場することで、行政は、大きく変貌し、舵の利かない、船の如くの、迷走を始めた。今回の、水道事業に関しても、掛け声だけの内容は、窮地に陥った地方行政の、救世主のように、扱われたが、嘗ての栄光は、いつの間に、失われたのか。自治体が行う、水道事業は、管理体制を含め、生活水の確保に、苦しむ国々に、輸出出来る程の、水準にあると、ついこの間まで、絶賛していたものが、今では、この凋落ぶりだ。新たな体制への転換は、老朽化の果てに、莫大な経費が嵩み、経営が立ち行かなくなったから、と言われるが、公共性の高さから見れば、今回の施策は、愚かとしか見えない。公共事業を支えるのは、税収による予算であり、その確保が、難しくなったのは、人気商売に走る、愚かな人々の、票集めの言動の所為であり、その根本を、解決しようともしない、無能な官僚の問題だ。愚の骨頂としか、思えない。

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12月6日(木)−育成法

 人手不足の話題は、尽きない。様々な方策が、講じられ続けているが、将来への不安は、払拭されないまま、と言われる。足らないなら、他から、という動きまで、起き始めたが、本当に、人が居ないのだろうか。実態は、どうも、違うらしい、と言われる。
 何がどう違うのか。個々の事例により、状況は様々で、一つに定められず、これでは、講じるべき方策も、絞り切れないようだ。典型は、単純労働への、忌避反応だろう。ただ、単純だけなら、やりたいと望む人が、居るだろうが、それに加えて、労働環境の劣悪さが、状況を悪くしている。更には、給与水準も低く、悪条件が、重なっている。となれば、ほかに、魅力的な仕事があれば、敬遠されるのも、無理無しとなる。介護現場は、更に厳しく、単純ではなく、高齢者を相手に、無理難題を押し付けられ、重労働を、強いられては、定着率の低下も、止むを得ない、とされる。では、高度な技術や知識を、必要とする仕事に、彼らが、適応できるか、については、余り取り上げられることがない。実は、こちらの定着率も、かなり低いのではないか。教育機関の状況を、眺めてみると、この状況も、当然と思える。力不足が、歴然としても、叱責は禁じられ、努力を強いる指導も、成果に結び付き難い、と言われる。それより、その結果として、退学や自死など、悪いものしか生まれない、とする風潮に、力を失わされる。それと同様に、労働現場でも、厳しい指導は、役に立たないばかりか、逆効果となると言われ、持ち上げることの、大切さばかりが、強調される。こんな環境で、自覚を促すのは、不可能であり、一部を除けば、放置に近い状況に、陥っている。育成には、程遠い状況で、不足を嘆くが、補充は、困難に違いない。では、どうするか。現場での、付け焼き刃は、やはり無理だろう。初心に立ち返る、つまり、基礎から、築き直さねば、何も起きないのだ。

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12月5日(水)−人を裁く

 愈々、裁判が始まった、と伝えられる。テレビドラマでお馴染みの、検事と弁護士の対決が、始まったと見る向きもあろう。だが、今回の事件に関しては、多くの人々が、首を傾げるような内容が、伝えられており、経過だけでなく、被告の心理にも、注目が集まる。
 狂気、としか思えぬ行動に、強い嫌悪感を覚え、厳罰を望む声も、大きい。しかし、現行の法律では、罪の重さに比べると、厳しい罰則の適用が、難しいと言われる。裁判では、検察が、犯罪の内容を、細かく分析し、法律に照らし合わせて、罪を数え挙げ、それに見合う刑を、求めるものとなっている。それに対し、被告の弁護人が、反論を並べ、刑の軽減や、時には、罪が無いことを、訴えるものとなっている。今回の裁判では、争点に注目が集まり、特に、凄惨な事件であるにも関わらず、適用できる罪が、見当たらないとの指摘から、どんな罪状を、検事が選び出すかに、注目が集まっていた。結論としては、当初から、警察が発表していた内容であり、目新しさは、感じられなかった。一方で、弁護側は、例の如く、揚げ足取りに、徹するようで、どれも当てはまらず、と反論している。一部には、未必の殺意を、指摘することで、殺人罪の適用を、という意見もあったが、それは、無理筋と考えられたのだろうか。何れにしても、誰が、どう考えても、あの結果は、予想可能と言われ、そこから推し量れば、極刑も、という意見がある中で、月並みな解釈に、落胆する人もいるだろう。その中で、どんな遣り取りが、なされるのか、どんな新証拠が、出てくるのか、見守るしかない。だが、一つだけ、現時点で、こんなことをしたら、と思うことがある。それは、検察の罪状の提示に対し、弁護側が、悉く否定する中で、是非とも、この事件において、被告には、どんな罪状が、適用されるべきか、弁護士に尋ねてみては、ということだ。裁判の常として、それはないだろうが、こんな事件だからこそ、そんな展開が、あってもいいのでは。

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12月4日(火)−見破る

 それにしても、何故、嘘の情報を、流そうとするのか。相手を、騙すことで、何が手に入るのか。詐欺師なら、それによって、金品を、手に入れられる。これは、簡単に理解できるが、情報提供者が、嘘の情報を流し、何が手に入るのか。それが、見えてこないのだ。
 この提供者は、何も、金品を、巻き上げようとしてはいない。それより、提供することで、相手の信頼を得て、その関係を、強めようとしている。だが、それで、何が、手に入るのか。それが、見えてこない。報道に、携わる人々は、市民が、喜ぶものを与え、それによって、自分の地位を、確保している。だが、それで、手に入るものに、大したものはない。にも拘わらず、情報を提供し、市民の興味を、集めようとする。それが、実しやかな嘘であれば、相手に信じ込ませることで、次の展開が、思い通りに進められる。と言っても、そこから、何かの利益が、得られる訳でもない。だとしたら、何を得たいのか。信頼を勝ち得ることで、他の同業者を、出し抜くことができる。だが、そんなことをしても、金銭的な利益は、期待できない。だとしたら、何の為か。常識的な人間には、彼らの嘘を、暴くことができても、彼らの意図を、読み取ることは、難しいようだ。だとしたら、嘘を暴いても、何の利益も、上げられないのでは。では、嘘を放置しても、何も問題はないのでは、ないだろうか。だが、やはり、嘘は嘘と、厳格に見極めるべきで、そういう輩は、信用に値せず、と断じるべきではないか。たとえ、それが、何の役に立たずとも、この姿勢を、貫くべきだろう。そうしておいて、表面的には、何もないと見える、彼らの思惑を、破ることが、実は、重要なのではないか。油断してはならない。何事も、疑ってかかった方が、被害は少なくて済む。鵜呑みにせずに、吟味しよう。

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12月3日(月)−騙されない

 人前で、話をする時に、注意することの一つに、考えさせない、ということがある。例えば、数字を見せる時に、それらを使って、計算させるようにすると、そちらに注意が向き、こちらの話から、遠ざかることで、話の流れに乗せられなくなる。それでは、聴いて貰えない、のだ。
 そこで、計算が必要な場合も、その結果を、提示することで、こちらの話に、集中させるのが、適切と言われる。ただ、この場合に、計算が間違っていても、聴衆は、気付かないから、気を付けねばならない。計算が違えば、そこから先の話が、全て嘘となるからだ。信じ込んで、聴いている人間には、計算過程に、疑いを挟むことなど、起きる筈もない。注意を集める為に、話の筋立てを、魅力的にしようとする余り、都合のいい結果のみを、見せようとするのは、間違いではなく、思惑に満ちた欺瞞となり、更に、悪質なものとなる。実は、こんな手法を、鵜呑みにすることで、騙されることは、屡々起きる。詐欺の被害者に、よく見られることだが、犯罪ではなくとも、日々、そんな被害に、遭っている人は、沢山居るだろう。それも、不特定多数を、対象とする、情報発信において、日常茶飯事となっているのは、特に、警戒を要するものだ。話題性を優先させ、その為に好都合となる、論理を展開しようと、印象の強い話を、紹介する。先日も、エレベーターの押し釦で、開閉に関わるものは、押す度に、経費がかかるような、話が紹介された。だが、それを、誰が支払い、誰が受け取るか、示されないまま、警告として、示すのは、不正確な情報、としか言えない。おそらく、詳しい説明をすると、話の筋が、伝わり難いからと、省いただけだろうが、それでは、嘘になり、視聴者を、騙しただけだろう。こんな報道が、日々流れるようでは、受ける側は、注意せねばならない。考えさせないのは、単に、嘘がばれないように、する為だけなのだ。

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