市場の移転は、やはり、大きな影響を、及ぼしたようだ。年の瀬に、場外に出かけるのは、新しい年を迎える時、その祝いの膳に、加える食事の材料を、買い出す為だ。昔と違い、あらゆるものが、簡単に手に入る時代、わざわざ出かけるとは、無駄と断じられそうな気配だが。
それを、ここ数年、わざわざ足を運ぶのは、何故だろうか。理由の一つは、必要な食材を、直接、目で確かめる必要が、あるからだが、それより、もっと大きなものがある。一流の品を、扱う人々の言葉には、独特の重みがあり、それを使って作る食事には、特別な技が、必要となる場合がある。と言っても、庶民が、それを実行できる筈はなく、たとえ、耳にしたとしても、何をすべきか、理解できぬままのことが、殆どだろう。では、そんな役に立たないことを、手に入れる為に、時間をかけて出かける意味は、あるのだろうか。所詮、趣味の世界でしかないが、やはり、その場で、要領に耳を傾けることこそが、大切なのだ。食材の扱い方、それぞれの由来、様々な背景があるが、情報社会だからといって、それが、容易く手に入るとは、限らない。それを、その場に出かければ、直に、話を聞くことができ、それによって、見知らぬことに、触れることが可能となる。所詮、そんなことは、料理に使える訳でもなく、味が変わる筈もない。だが、その雰囲気が、何かの楽しみを、感じさせる。だからこそ、毎年、足を運ぶ訳だ。だが、何度聞いても、十分な理解が、得られるとは限らない。それより、豆知識として、手に入ることこそが、実は、重要なのかもしれない。彼らの蘊蓄には、独特の味がある。そこで働いてきたからこそ、口に出すことができる知識が、横たわっているのだ。
教育の仕組みが、根底から、変わろうとしている、と伝えられる。親が子を教えるのに、仕組みも何もなく、そこに、変化が起きることはない。だが、家庭を離れ、学校と呼ばれる、集団生活の場に、目を移すと、大きな変化が、起きようとしている、と言われる。
教え育むのに、特別な手法が、存在するかは、定かではない。しかし、この所の、著しい教育低下には、何か原因を見つけようと、専門家達は、躍起になっている。そこで、論じられ始めたのは、動きを伴う、積極的な、参加型教育、と呼ばれるものだ。アクティブ、という表現には、様々な意味が込められ、期待の大きさから、注目を浴びているが、その実体は、殆ど見極められていない。一時流行した、海の向こうの有名大学で、実施されている、「白熱教室」と呼ばれる講義形式は、その典型と捉えられるが、表面的な受け止めに過ぎず、実体を見極めるほど、分析されていない。教室内は、教授による問い掛けに、受講生が答える、という形式で、熱を帯びている、と伝えられるが、そこに至る道筋に、光は当てられず、演劇にも似た光景だけに、注目が集まる。仕込みの大切さに、目を向ける人が居ないのは、負荷の重さを、感じているからだろう。一方、昔のやり方を、全否定する動きに、懸念を表明し、異論を唱える人も、少なくない。受け身に過ぎない、講義形式でも、十分な知識を身に付け、新しい考え方を、実践してきた人にとって、今の動きは、盲目的なものに映る。積極性は、参加の有無による、とは言っても、参加の様式は、様々に違いない。なのに、画一的な動きに、誘導されることに、危うさを、感じているのだ。たとえ、講師が、板書し、喋るだけの講義でも、積極性を示すことは、可能だろう。講師と自分の、考えをぶつけるだけでも、気分は違ってくる。読書でも、同じことが、通用する。
若者が、腑甲斐なく見えるのは、こちらが、齢を重ねたせい、なのかもしれないが、どうにも、頼りなく見えるのだ。自分の若い頃と比べたら、そんなことはないと、理解を示す人も、居るには居るが、果たして、どこまで、見通しているのだろうか。期待し過ぎ、かも。
今、目の前に並ぶ、腑甲斐なさには、ある傾向が、見えていると思う。それは、長く言われていることだが、指示待ちと呼ばれる行動だ。自分で、解決する力が、備わっていない、ということに、注目が集まるが、実は、それより、重大な特徴が、隠れているのではないか。それは、指示さえすれば、その通りに行動する、という従順さに、問題があるのではないか、という点だ。素直に従う、というのは、成長過程では、周囲から評価されることだが、そこから、次の段階に、進んでこそ、意味があると言われる。つまり、指示に従ううちに、そこから、自分なりの答えを見出し、それを、次の過程に、繋げていけるかどうかが、肝心なのだ。その見方から、指示待ちが続くと、周囲が困るだけでなく、人材としての評価も、高まらない、と言われる所以だ。だが、問題の本質は、また、別の所にある。素直で、従順という見掛けが、実は、見掛け倒しと思えるのだ。素直に従っているように見えて、実は、何も理解しておらず、それこそが、次の成長に繋がらない、最も大きな要因となっている。指示に従ううちに、自分なりの答えを、という過程は、従うことが、理解へと結び付くから、成立するのであって、そこに、理解がなければ、待てど暮らせど、何も起きないのは、当然のことだ。今時の若者の特徴は、実際には、こんなことになっているのではないか。だからこそ、反発もせず、ただ、指示を待ち続け、それを、無難にこなしているように見える。事細かに、伝えても、改善が見られないのも、当たり前だろう。これでは、褒めても無駄で、貶せば、訴えられるかもしれない。
気になる言葉遣いについて、これまで、何度か取り上げてきた。自分も、正確な用法を、しているとの自信は、殆ど無い。だからと言って、気になってはいけない、という訳でもないだろう。一種の流行のようなものも含め、乱用とも言えそうな事態が、起きている。
以前、取り上げたものには、「そうですね」がある。初めの頃は、運動選手に限られ、決まり文句の如く、繰り返されることに、違和感を覚え、無駄と断じていたが、最近は、更にその勢いを増し、誰も彼もが、使い続ける。非常識とは、言えない程に、多くの人が、さも便利な表現のように、使うのを眺め、無駄という思いは、消えることがない。流行語とは、違う事情だが、今時の流行り言葉、と言えそうだ。それと同じ位か、時には、もっと酷いと思える状況は、「の方」という表現に、現れている。方向を定める為の言葉だが、一方、他方、という使い方もある。だから、というつもりで、使い始めたのかもしれないが、連呼するのが、聞こえてくると、ああまただ、と思ってしまう。というのも、これらの用法の大部分が、「の方は」と言わずに、「は」という助詞だけで、十分に意味を成すからだ。自分は、あなたは、と言うべきところでも、自分の方は、あなたの方は、などと連用する。時には、全てに「方」がくっつき、耳に残って、不快感が強まる。本人は、無意識に使っているようで、指摘しても、改善することは少ない。その点では、「そうですね」と同じ状況にあるだろう。気にせず、無視すればいい、との意見もあるが、これが、話し言葉に止まらず、書き言葉にまで、及ぶようになると、字数が増し、無駄が増える。簡潔な文章を、書く訓練が、施されても、こういう癖は、中々に、消せないものだ。身に付く前に、意識させないと、増加は止まらないだろう。
必要であれば、増税すべき、という意見を出せば、民主主義ではない、との反論を浴びせられる。だが、この手の発言者の大部分は、民主主義の何たるかを、全く認識していない、無知者である。自らの欲望を、満たす為のものを、要求し続けるのが、民の思い、となる。
だが、施しばかりを、要求することが、民主主義だとしたら、それは、法治国家とは呼べない代物であり、無法地帯としか、ならない。何しろ、国を相手に、追剥ぎを強行する、泥棒そのものだからだ。国の運営において、収支の均衡を、保つ必要は、いつの時代にも、存在する。それを崩し、放漫会計を続ければ、国という存在が、危うくなるだけでなく、消し飛んでしまうことになる。何事も、民衆の為であることは、重要なのだが、かと言って、ただ無計画に、施せばいい訳ではない。これが、お上の責務であり、民衆は、ある範囲までは、それに従う義務を、負っていると言われる。だが、今の為体に関して、批判が続くのは、肝心のお上が、場当たり的な政策を、出し続けているからで、その結果として、民衆が、被害に遭う場合が、余りに多いからだ。殆ど何も考えていない、とも思える状況に、批判を浴びせても、その責務を負うべき人々が、無能なのだから、どうにもならない。大臣にしろ、政治家にしろ、官僚にしろ、何の信念も持たず、ただ、いい加減な仕事を、し続けているのでは、改善は、期待できない。では、どんな手立てが、必要なのか。悲観的な見方をすれば、何をしても、実施にあたる人間が、無能では、どうしようもない、となる。それでは、滅亡しか、選択肢はないのか。そうでもないだろう。施策さえ、しっかりと整備すれば、無知者でも、無能者でも、もっとましなことが、できる筈だ。要は、どんな策を、講じるかが、肝心なのだ。その風は、いつ吹くのだろうか。
良識が、通用しない時代、になったのだろうか。それとも、そんなものは、未だ嘗て、通用したことなど、なかったのだろうか。何れにしても、今、周囲を眺め回してみると、多くの人が、好き勝手に、振舞っているように見える。自分さえ、との思いばかりだ。
他人の為ならず、などと言われなければ、気付きもしない人間が、何を言われても、自分の利益のみを、追求することに、批判が浴びせられないのは、何故だろうか。簡単なのは、彼らの多くが、その考えにより、大金持ちになっていることが、明らかだからだ。しかし、利己的な考えが、地位を高めたり、収入を増す訳ではない。単に、名誉や金銭を、手にした人の中に、そういう傾向が、現れているだけだ。にも拘わらず、愚かな人々は、我も我もと、同じことを、猿真似しようとしている。所詮、そんなものは、一端に過ぎないのに、そこが、全ての原点であるかのように、思い込んでいる。身勝手な人々が、注目される中で、時に、道を踏み外し、犯罪に手を染めることも、屡々起きる。たとえ、そんなことが起きても、多くは、運が悪かっただけ、と片付けられる。これでは、倫理観も、道徳観も、表に出てくることがない。良識を持てば、自制心ばかりが、膨らんでしまい、肝心な判断を、誤ってしまう、となる。これでは、何事も、無理としか、言いようがない。大人達は、したり顔で、身勝手な連中に、冷たい視線を送るが、それが、悪いことだとの批判は、負け犬の遠吠え、と受け取られるだけだ。本来は、しっかりとした心を、養うことこそが、肝心なのだが、それより、収益を求めたり、地位を求めたりすることの方が、優先されており、それによって、現状が、作り出されている。黒船襲来、などと言われたような、外国人の登用に関しても、同じ考えが、現れているのだろう。
そろそろ、正体が、暴かれ始めた。損して、得とれ、とは、商売の基本、と言われるが、ここは、その正反対、得を取ろうと、目論んでは見たものの、損が膨らむことに、なりそうだ、ということだ。政に携わる、愚かな人々が、舌先三寸で、無駄なことを、やっている。
支出ばかりが、嵩み始めて、収入を、確保しようとする動きに、問題があるとは思わない。企業だけでなく、金の出入りが伴う、あらゆる組織が、この動きを、必要としている。だが、通常は、収入の確保は、困難を伴う、と言われる。その糧が、容易には見出せないからだ。だが、国のやることの場合、事情は異なるだろう。昔から、年貢の取り立てなど、お上のやることは、絶対であり、逆らえば、重罪に問われた。一方で、真に必要な支出なら、その資金を確保する為に、民に強いることは、当然とも言える。お上の命令一下、あらゆることが、実行された時代と違い、今は、何しろ人気商売、民に嫌われては、自分の地位も、危うくなると、日々心配する、愚かな連中なのだ。嫌われる要因を、与えぬようにと、まずは、喜ばれる減税に、手を染め続ける。だが、支出額は、嵩むばかりとなり、首が回らない、という状況に、追い込まれると、苦肉の策と称して、日々の消費にかける税を、上げようと目論んだ。この時点で、まずは、怪しいと思えてくる。同じ税収なのに、何故、直接税を避け、間接税に頼るのか。他の先進国の多くが、それを採用しているから、というのは理由にはならない。この国にとって、それが、税収の改善に繋がる、という保証がなければならない。実際には、それより、不人気を嫌い、別の手立てを、講じることで、目先を誤魔化すことに、走ろうとしている。増やした筈が、そうならないとなれば、何の為か。簡単には、朝三暮四の論理だ。今さえ誤魔化せれば、それでいい、という論法なのだ。