読んだ本について、感想が寄せられたことは、ない。読書家とは、とても呼べない代物だが、それでも、記録の為に、残しておきたい。何故、あんな本を、読む羽目になったのか、と思うことは、度々あるが、活字離れのせいか、その傾向は、強まるばかりに思える。
どんな選び方を、しているのか。不思議に思う人も、居るだろう。確かなのは、本屋に通うことなく、つまり、立ち読みなどの機会なく、表面的な情報のみで、選んでいる。最も大きな情報源は、新聞に掲載される、書評欄である。昔は、取り上げられるだけで、読み応えのある本、とされていたが、今は、事情が、大きく異なるようだ。評者と呼ばれる人々の、選び方からして、昔とは、違っているようだが、それぞれが、選ぶ根拠も、大きく変わったらしい。自己満足としか、思えないようなやり方に、首を傾げることが、増えただけでなく、彼らの、評価の仕方にも、疑問を抱く。特に、最近目立つのは、選ぶことさえ、他人任せで、ある意味、押し付けられたものを、評している姿で、読みもせずに、絶賛していたり、一部を取り出して、曲解を試みる人が、増えたように思う。年の瀬は、恒例として、各自が三冊ずつ、選んだものを、示すのだが、その殆ど全てを、読んでいないのは、こちらの問題だろうか。違いの原因は、まずは、価格にあり、新刊本を手にするより、文庫や新書などが、優先されることから、生まれている。今年の足跡を、眺めてみたが、◯の付かないものが、多いことに気付く。その中で、三冊だったら、どれが残るのか。ざっと眺めてみて、一押しがないことに、気付かされるが、それでも、残ったのは、「あるノルウェー大工の日記」、「生か、死か」、「暗殺者の潜入」くらいだろうか。事実に基づくものに、面白いのが少なかったのは、何故だろう。一方で、最悪と思えたのは、「面従腹背」だ。理由は、独り言で書いたので、不要だろうし、また書く気には、なれない。
他人の為、ということを、強調する人が居る。だが、と思うことは、非常に多い。そういう人に限って、自分のことしか考えず、他人の為と称して、好き勝手をしている。では、彼らの心の中は、どんな動きを、しているのだろう。多くは、言い訳に満ちている。
何事も、行う上では、理由が必要となる。だが、その際に、自分を中心に据えては、他人から、同意が得られない、と考える。だからこそ、他人の為、という理由を、掲げる訳だ。だが、それ自体が、怪しい。世の為、人の為、などと書かれる度に、怪しさどころか、そこに隠している魂胆が、見え見えになっていることに、呆れてしまう。ところが、当事者達は、依然として、他を優先しようと、強く主張する。高度成長期には、そんなことが、何度も暴かれていたが、それが過ぎると、次に来たのは、もっと酷い状況だろう。上昇期には、私腹を肥やす為に、様々に、他人や社会を優先する提案が、出されてきたが、その多くが、成立しないばかりか、失敗の山を築き、そこに費やされたものは、何処かへと、消えていった。しかし、下降期に入ると、そうはいかない。なけなしの金を、どう注ぎ込むかが、肝心とされ、多くは、無い袖は振れない、と断られるのが、精々なのだ。その中で、好転の兆しを、掴む為には、かなりの努力が必要となる。となれば、皆が、知らぬ振りを、押し通す方が、遥かに簡単となる。そこに、登場してきたのは、自分が居なくなるまで、もてばいい、という考えだろう。ここでも、私利私欲に、走る人間ばかりが、目立つ訳だが、何故だろう。組織も社会も、このままでは、立ち行かなくなる、と言われる中で、皆が、知らぬ振りを、決め込んだとしたら、それは、破滅への道、としかならない。今こそ、自分の為、と称して、何かしらの変化を、引き起こすことが、必要なのではないか。その結果が、良い方向への転換に、結び付けば、それで良し、となるのだから。
大納会を迎え、皆が、総括を表明している。年初の好調さが、こんな結末を迎えるとは、と反省しきりの様子だが、投資家達には、確かに、厳しい展開となった。好調は、ずっと維持されてきたが、雑音を出し続ける、海の向こうの大統領に、ついに、屈したということか。
これほどの好調さは、嘗て無い程、とまで言われたが、それにより、勇気を得たのは、投資家よりも、ジャイアンのような、ガキ大将にも似た、大統領だったろう。だが、何度、衝撃を受けても、その度に、自分なりの判断で、相場を支え続けた人々も、徐々に、国の行く末どころか、世界の混迷ぶりに、不安を募らせてしまった。最後の最後で、限界を迎えたように、暴落を迎えた。その勢いを、止めることは、政治家には不可能で、ただ単に、責任転嫁に、忙しくするのが、精々だったろう。あの無能ぶりには、呆れる人が、多いと伝えられるが、それを、祭り上げたのは、日々の生活に、苦しむ人々だった。彼らは、未だに、無能とも思わず、支持を続けている、とも伝えられるが、実際には、好転の機会に、期待を膨らませていた人々は、とうの昔に、見限っている。要するに、口先だけの、いい加減な約束を、果たしたと、自己満足に浸る人物に、結果が違うと、訴えているのだ。だが、それも、少し考えれば、そんな歪みが、単純に取り除けると、思う方が間違いで、一つ二つの対策で、簡単に片付く筈はなく、騙されたとの話も、その位、誰でもわかるだろう、と思う。ただ、彼らにも、同情の余地はある。それほど、苦しい状況にあり、藁をも掴む、という心境では、判断の誤りも、致し方なし、となるだろう。それでも、あの人物の罪は、歴史に名を残す程、重くなりつつある。次の選挙を、などとの意見が出る度、馬鹿げたことに映るのは、当然なのだ。
連絡の方法は、時代の変遷と共に、大きく変化してきた。書状を認め、約束を取り付けていた時代は、もう小説の中にしか、存在しない。電話が普及するに従い、直前の連絡が、当たり前となった時代にも、まだ、確認の返事を、手紙で出す人が、居たらしい。
その状況が、大きく変わったのは、皆が、電話を、持ち歩くように、なってきたからだろう。男女交際においても、四半世紀前なら、事前の打ち合わせを、十分にしておき、待ち合わせ場所に、予定した時間に、顔を見せることが、当然のことだった。遅れてきたり、すっぽかしたり、そんな事件が、面白おかしく語られるのも、それまでのことだ。今では、現れなければ、手にした携帯端末で、確認すれば、それでよしとなる。うっかり、忘れていたとしても、その場で、取り繕い、埋め合わせをすれば、いい訳だ。だが、それが、当然となった頃から、その場限りの嘘が、横行し始めたのでは、ないだろうか。何処に居るのか、確かめようのなかった時代には、取り返しのつかない状況に、陥ったから、埋め合わせも、それなりの準備を、必要としていた。嘘で、誤魔化したとしても、相手の怒りは、収まらないから、平謝りだけでなく、それなりの対応で、誠意を示していた。だが、今では、その場で、適当に嘘を並べ、誤魔化すことが、当たり前となっている。それを、互いに意識しながら、騙されているふりをしたり、嘘を重ねて、取り繕おうとする。若者達の言動にも、そんな傾向が、現れているように、思えるがどうだろう。すぐにバレる嘘を、重ねていても、何の罪も、意識しない人が、周囲に増えている。自身をも、騙すことで、心の安定を、築いている、とする分析には、呆れるばかりだが、このままでは、嘘しか無い世界が、出来上がってしまう。大人達の真似を、しているだけ、との言い訳にも、もっと厳しく対応すべきだろう。
誰も欲しがらない、贈り物だった。虎の子の資産を、増やす為に、苦心する人々にとって、今回の暴落は、理不尽なものに映る。誰かが、失敗をした訳でもないのに、不安心理が、膨らむばかりとなり、歯止めが効かなくなった。だが、責任は、やはり、彼奴にある。
年初から、上昇を続ける株価に、ご満悦の様子を、見せていた、件の人物は、それが、恰も、自らの政策の成果と、強く主張し続けてきた。だが、誰が見ても、彼の功績は、一欠片もなく、順調な成長を、妨げる要素が、次々に、積み上げられ、不安は、膨らみ続けていた。経済の好調な成長が、過剰となり、弾け飛ぶことが、時に起こるのを、人はバブルと呼ぶが、今回のバブルは、不安という風船が、膨らんだ結果に見える。味方も敵も、全て押しのけ、自分の手柄と、声高に訴える、卑しい人間にとり、手にする端末は、唯一の友となっている。自分の意見に、異論を唱えることなく、世界に向けて、極論を送り続ける。これほど素直な存在は、身内にも、居ないだろう。だが、それに目を向けたことで、世界は、振り回され続けている。閲覧を拒み、無視すれば、何の不安も、湧いてこないのに、社会は、戯言の数々に、一喜一憂し、時に、不安に苛まれる。逆らったとしても、職を奪われるのが精々で、暴君と雖も、命を奪うことは、叶わない。所詮、任期限りの、横車に過ぎず、歴史に大きな汚点を、残すことだけは、確実となっており、人選びの大切さを、痛感させただけで、後を継ぐ人々は、修復に腐心せねばならない。だが、この贈り物は、改めて、暴挙の数々を、思い起こすきっかけを、与えてくれた。その意味で、将来への展望として、自分達の信念を、再認識させるものとなった。任期中でさえ、排除する必要が出たら、思い切った行動も、必要となるだろうが。
生産の方針で、一気に舵を切ったように見えたが、その後は、低迷してしまい、前言撤回へと、移っていった。あの頃から、影が見え始めた、と思う人も、居るのではないか。最も売れた車との業績も、検査の不祥事によって、ケチがついたとされ、ついには経営トップが。
企業自体の責任が、今後問われることとなり、更に、苦しい立場に、追い込まれることは、必至と言われる。だが、経営方針の決定において、大きな間違いを、犯したことは、殆ど確実だろう。それでも、隣国では、今後は、燃料方式ではなく、電動方式が、主流となると言われ、どこが違うのか、と訝る人もいるだろう。時期尚早、という指摘には、社会基盤の整備が、不十分だったとの、意見が盛り込まれるが、今なら、そして、隣国なら、可能ということなのか。答えは、おそらく、否だろう。基盤の整備は、期待通りには進まず、肝心の技術も、十分な高さに、到達しそうにない。なのに、依然として、方針が変えられることなく、設定された目標は、そのままにされる。こちらの状況を、注視すれば、課題は明らかだが、見て見ぬ振りを、通そうというのか。先日も、移動の際に、高速道路の充電施設で、問題を、目の当たりにした。所要時間が、ネックとなっている、との指摘は、当然のことだが、それが、一台しかない施設に、充電待ちの列が、できるとなると、更に、深刻となる。これでは、移動にかかる時間も、延びるばかりとなり、伸びない走行距離と、二重苦に見えてくる。前にも書いたように、電池の取り替えを、充電に替わる仕組みとして、導入しない限り、解決できないだろう。それでも、国策として、無理強いを続けるのなら、あの企業とともに、沈み始めることも、あるのではないだろうか。
不安要素は、過大に評価され、過剰な安全を、追い求める。そんな時代に、生きることは、容易ではない、と言われる。だが、冷静に眺めてみれば、難しくしているのは、本人であり、馬鹿げた流言飛語を、飛ばし続ける人々だ。余計な心配は、所詮、余分なものだ。
何故、冷静に、眺めることができないか。通常の感覚では、理解できぬものだ。だが、当人は、大真面目に、過剰な要求を、突き付ける。そんな戯言に、付き合う必要はないのに、平和な時代には、その余裕があるのだろうか。不思議な感覚で、眺めているが、解決の糸口は、掴めてはいない。単純に、論理的に考えれば、すぐに、答えが見えてくるのに、何故、わざわざ、苦しんでいるのか。こちらには、理解できぬ、心理が、そこに働いている。にしても、人の心の動きとはいえ、それが、論理に当てはまらないのなら、無駄の一言で、片付けてもいい、と思う。にも拘わらず、そんな戯言に、耳を傾け、寄り添う人々は、どんな気持ちなのか。これもまた、理解に苦しむものだろう。弱者は、保護されるべき、との主張も、屡々、耳にするけれど、何をもって、弱者とするのか、明確にされることはない。それより、誰かに目を向け、それを不幸の故と、決めつけることで、弱者を、作り出そうとする。こんな暴挙の、張本人達は、如何にも、人道者を自認し、自己満足を得る。こんなことを、面と向かって、話そうものなら、怒りをぶつけられ、人非人とまで、言われかねない。だが、この混乱を、目にする度に、もう、いい加減にしては、と思う。冷静に、論理的に、どんなに、その姿勢を意識しても、所詮、人間の心は、弱さを持ち、その不安に、苛まれる。それでも、ふと、我に返って、冷静さを、取り戻す。こんな動きを、渦中の人々は、知る術もなく、騒ぎ続けている。