パンチの独り言

(2018年12月31日〜2019年1月6日)
(最後の、準備万端、努力目標、自分なり、限りない欲望、静観、カフェ)



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1月6日(日)−カフェ

 分かり易い、というのが、時代の命題のように、扱われている。知らないことは、理解できない、とは、ここでも、何度か書いたことだが、今時の若者が、口癖のように、呟く話だ。知らないことは、誰にもあり、初めて聞いた話を、理解するのは、確かに難しい。
 だが、難しいではなく、不可能と言い切るのが、異様に聞こえる理由だ。難しい話を、じっくりと聴くうちに、少しだけでも、理解できた所があると、喜ぶのならまだしも、聴く前から、ダメ出しをする、その態度に、謙遜ではなく、傲慢を感じるのだ。こんな状況になった理由の一つに、誰でも、簡単に、という言い回しで、人の関心を集めよう、とする動きがあった。難しいことが、簡単になれば、誰だって、大歓迎だろう。だからこそ、こんな謳い文句に、疑いを抱きつつも、騙される訳だ。だが、難しいことを、簡単にする代わりに、簡単なことだけ、与えておけば、無理はなくなる。こんな調子で、学校教育が、複雑なものを排除し、単純なものだけを、与えるようになってから、理解できない、と主張する人の数が、急増したように感じる。無理強いは禁物、ということを、優先させる気持ちは、わからなくもないが、成長過程で、努力を促さねば、弛んでしまうのも、無理のないことだろう。こんな調子で、若者達を甘やかし、時に、努力を、無駄なものと断じるようでは、次代を担う人材など、育てられる筈もない。ただ、一方で、本当に難しい話を、理解することは、やはり難しいのも、事実である。最近は、週末に、街中で「カフェ」なる言葉が、掲げられているのを、屡々目にする。そこでは、難しい科学を、分かり易く説明する話が、展開されている、と言われるが、実際には、やはり、無理があるようだ。数式を使わず、専門用語を言い換えて、表面的には、とっつき易くなっているが、でも、ある所から、理解ができなくなる。ここでも、何かしらの努力が、必要だからだろう。

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1月5日(土)−静観

 年明け早々、経済状況への不安から、相場は、大きく下げて、始まった。その一方で、一部の好況が、明らかと言われたのは、初セリの結果だろう。だが、日々の状況ではなく、ご祝儀相場と、言われる中では、最高値更新とても、諸手を挙げて歓迎、とはいかないようだ。
 ご祝儀という意味では、大発会の相場は、総じて、高くつけるものと、「相場」が決まっていたが、今年は、そうもいかない事情が、様々にあった。特に、年初に関しては、他の国と異なり、三日間、しっかり休む中では、海外相場の動向が、反映される。他国との衝突だけでなく、国内事情でさえ、多難な状況が、伝えられる中で、その波を受けてか、一部企業の、不調ぶりが伝わると、不安を抱いていた投資家の反応は、はっきりと示された。それでも、海の向こうでは、一方的な下落が、続くことなく、週末の相場は、回復してきた、と伝えられる。全体としては、この所の、大きな下げの結果、株式市場の減速ぶりには、資金の引き揚げなど、次に起こるだろう出来事に、注目が集まっている。機関投資家などの、大きな額を動かす人々にとり、こういう相場では、いかに分散させ、損失を減らすかが、問題とされるが、個人投資家にとっては、動かすこと自体への、資金の調達との、比較が必要となる。手数料という代物に、どれ程の割合が、費やされるかは、評価額のみに、目を奪われていると、気付かぬこととなる。その結果、虎の子の資産を、何とか守り通せても、結局、小さな目減りが、積み重なることに、なりかねない。ここまで、下落する中では、使い古された言葉だが、まさに、塩漬けが、唯一の手段なのかもしれない。資金を引き揚げた人も、居るだろうが、それとて、いつまでも、放置する訳にも、いかないだろう。ここで、賢い選択を、という声もあるが、そのまま、静かに見守るのは、方策の一つだろう。

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1月4日(金)−限りない欲望

 余裕があるうちは、様々な欲に、振り回される。食や、色や、何事にも、欲を満たそうと、努力を重ねる人が、世の中には、一杯居る。しかし、齢を重ねると、様子は、少しずつ違ってくる。名誉を、手に入れようと、頑張ってみても、限界に達すると、そこまでなのだ。
 それでも、老後の楽しみは、それぞれに、心に抱いている。旅に出たり、食べ歩いたり、それまで、目標を定めて、努力を積んでいた人は、ここでも、欲を満たそうと、せっせと動き回る。だが、それも、いつか、限りがやってくる。突然の死を、迎える人も、居るだろうが、多くは、徐々に、動ける範囲が狭まり、時間的な余裕は、沢山あるにも関わらず、自由は無くなってしまう。そこまでやってくると、最後に残る欲は、皆が同じものと、なるのではないか。楽しみが、様々な事情から、奪われてしまえば、そこに残るは、生きることだけだろう。若い頃なら、生きるのは、当然のことで、敢えて欲を出す必要も、ないことだろうが、年老いた身には、生きることさえ、難しい時期がやってくる。それまで、抱き続けてきた、欲の数々を、投げ捨ててでも、少しでも長い時間、生き続けられたら、という欲だけが、残ることになる。目標が定まれば、あとは、努力をするだけで、達成できる筈、と考えるのは、まだまだ若い証拠だろう。努力と言っても、そこに残っているのは、我慢のようなものであり、これもいけない、あれもいけない、となれば、それらを諦め、長生きの為と考え、楽しみの数々を、手放すしかない。それでもいい、と思う程に、生き長らえたい、と考えるのなら、それはそれで、いいのではないか。ただ、我慢や辛抱が、長生きの為に、役立つのかは、確かではない。心理的な影響が、大きいのだとしたら、ここでもまた、分相応なやり方が、あるのかもしれないからだ。寿命が決まっているなら、我慢や辛抱より、楽しみを優先させても、いいように思う。瀬戸際に追い込まれたら、別の考えが過るだろうが。

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1月3日(木)−自分なり

 人間の欲とは、まさに、限りないものである。目標を定め、それに到達できたら、もっと先を、目指そうと思う。欲が欲を呼び、もっともっとと、頑張り続ける。これを、向上心と呼ぶなら、まさに、その通りだろう。だが、目指すべき上は、そのうち、見えなくなる。
 山に頂上があるのと、同じように、人生にも、頂が存在する。上を目指す間は、もっと上がある、と思うのだろうが、その中で、いつの間にか、上が見えなくなる。そこから、どうするか。走り続けてきた人にとって、目標が無くなることは、簡単には、受け容れ難いものだろう。そうなれば、ゆっくりとすればいい、というのが、人生訓の一つだろう。無理をしているかどうかは、問題ではなく、人それぞれの、器に合った生き方に、落ち着くのが、この時期にやってくるものだ。そうなると、最後の目標は何か。人によることだが、楽しく生きる、という人も居れば、長く生きる、という人も居るだろう。どちらがいいのか、については、問題ではないだろう。自身で決め、それを実行すればいいだけで、他の人が、どの道を進もうが、自分には、関係ないことだ。これまで同様、上ではないものの、目標に向かって、進めばいいだろう。ただ、無理は禁物であり、自分なりの進み方を、ゆっくりと行えばいい。世間では、寿命が百年となり、老後の長さが、尋常ではなくなって、構え方からして、変えるべきか、との意見も出ているが、長かろうが、短かろうが、自分なり、という姿勢を変えても、大したことはないだろう。だが、と思うこともある。自分だけが、という思いが、強まるにつれ、周囲との軋轢は、深まるに違いない。自分なり、が、いつの間にか、自分だけ、と変わることで、変化が起きる。所詮、自分だけの人生だが、周囲との溝が、深まることで、嫌な思いが、強まるとしたら、それは、考えものかもしれない。どうしたものか。

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1月2日(水)−努力目標

 年の初めから、同じことが、繰り返される。何も変わらず、いつも通りに、物事が進む中、皆は、どんなことを、考えるのだろう。同じでは、つまらない、とか、これ以上は、望めない、とか、悪い方に、考える人が多い中、今年こそは、という思いで、始めた人も居るだろう。
 変わらぬ中でも、上を目指し、頑張ろう、と思う人にとり、積み上げれば、という考えを、抱ければ、何とかなりそうだ。努力を積み重ね、より高い所を、目指そうとすれば、できないことはない。そんな思いを抱きながら、新しい年を、始められれば、今年も、目標に到達できるだろう。悪いことを、考える人が多いが、それにより、手に入れられるものは、少なくなるだろう。それより、少しでも、良い方向に、考えることで、何かが、手に入るのなら、そちらを選んだら、どうだろう。物事を、悲観的に捉えることは、必ずしも、悪いことではない。最悪の事態を、想定してこそ、そこから抜け出す策が、見出せるのだ。これは、一般に、悪いことを考えるのとは、少し違うと言われる。何とかなる、と思うことで、力を発揮できる人も居るだろうが、その中で、最悪を、考えておいた方が、結果的には、良くなるとも言われる。心理的には、不安定な状態を、続けることに、なるかもしれないが、そのくらいのことに、耐えられる力を、持ち合わせておかなければ、次の段階に、進むことは、難しいだろう。毎年恒例の、年初にあたり、という表明は、不可欠なものではないが、でも、少しだけでも、目標を定めておけば、目指すところができ、努力のし甲斐が、出てくるのではないか。同じと思えば、安心と思う人も、同じでは、満足しないだろう。だとしたら、もっと上を目指し、頑張ってみても、いいのではないだろうか。

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2019年1月1日(火)−準備万端

 平和な時代の特徴は、何だろうか。安定とか、安心とか、そんな言葉が、先に浮かぶのではないか。だからこそ、不安を、口にする人が増え、安心を、要求する声が高まる。それが当然となる時代に、何が必要とされるか、思い当たる所も、多いのではないか。
 次に、何が起こるか、予想がつく、とも言われる。安定していれば、同じことが繰り返され、突然の変化は、起きない。だからこそ、天変地異に、人々は、恐れをなし、戦くのだろう。人間に関わるものは、全て、安定しており、突然の変化は、起きない。だが、自然の脅威は、思い通りになる、と信じる驕り高ぶった人間に、鉄槌を下ろす。人が起こす、突然の変化は、戦争という形で、各地に爪痕を残してきた。だが、それも、世界的なものは、70年以上昔が、最後となり、局地的なものしか、起きていない。人々の不満は、収まることはないが、それでも、安定した時代に、どう処せばいいか、答えが見えている。だからこそ、人々は、傾向と対策に、力を注ぐのだ。傾向が決まれば、対策も、容易に講じられる。それも、以前の失敗に基づき、新たな対応を、試みることができる。それが、失敗に繋がったとしても、また、別のやり方を、編み出せばいい。こんな調子で、傾向と対策を、繰り返せば、より良い安定が、手に入る。そんな時代だからこそ、交代の儀式も、その準備を、整えようとする動きが、出てきたとしても、当然と見做される。ここ数回は、崩御を節目に、儀式が執り行われたが、準備は、憚られることとして、表に出せなかった。それが、いかに大変なことか、知る人々にとって、今回は、気楽なものとなるのか。実は、そう簡単ではない。準備ができるなら、それに合わせて、あれもこれも、とばかりに、要求が増えている。どちらがいいのか、一度だけでは、何も決まらないだろうが、結局、どっちにしても、大変だった、となりそうだ。

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2018年12月31日(月)−最後の

 最後の、最後の、と連呼されるが、はて、皆にとっての、実感は如何に。どんな制度が、こういうことを、決めていたのか、殆どの人は、知らないだろう。だが、少なくとも、ここ三代に限っては、退位ということは、起きなかった。緊急事態と、言われた時も、だ。
 確かに、務めを果たせるかどうか、たとえ、象徴的存在と言われようとも、重要と見る向きもある。だが、何が務めなのか、それを決めるのは、何なのかを、知る人は殆ど居ない。ならば、何故、こんなことが、起きるのだろう。尊い人々の決め事など、下々の者が、知る由も無い。そう考えれば、今度のことも、ただ、雲の上の出来事、としてもよさそうだ。だとすれば、最後だろうが、どうだろうが、自分の生活には、何の影響も無い、と言える。特に、日々の生活に、追われている人間には、どうでもいいこと、に違いない。区切りを、はっきりしたい、と思う人には、何かの節目、となるのかもしれない。だとしたら、そう思えばいいだけのことで、特に、何かを始める必要も、無いだろう。これを機会に、と思うのなら、それでいいのでは、ないだろうか。幾つの時代を生きたのか、気にする人も居るだろうが、所詮、その個人の人生に、変わりはない。漫然と生きていることを、まるで、恥かのように、語る人も居るが、他人から見れば、どうでもいいことだ。自分が、恥と思うなら、そうでない人生を、送る努力をすればいい。冷たい言い方になるが、人と人との関係は、そんなものであり、まずは、自分のことを、第一に考える必要がある。他人のことにまで、口出しする人は、余程暇なのか、悪意か何かを、抱いているのではないか。最後のこと、に関しても、過度の気にすることなく、淡々と迎えればいい。どの道、大した違いには、ならないのだから。

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