パンチの独り言

(1月7日〜1月13日)
(流行、嘘か真か、不履行、壊滅を、大人騙し、小役人、自己責任)



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1月13日(日)−自己責任

 数字に強くなる、という話題は、かなり昔から、取り上げられている。だが、依然として、数字を見ただけで、目を逸らしたり、信じ込んだりする人が、世の中には、ごまんといる。一方で、根拠なく、物事を信じる人の多くは、怖いとか、危ないという表現に、振り回される。
 最近は、単に、数字と表現するのではなく、統計と表現し、数字という、結果だけでなく、それが、導き出される過程や、その解釈を、的確に理解することが、求められている。だからこそ、騙されない、という掛け声で、数字を疑い、処理を疑うことが、大切とされるのだ。だが、実態は、依然として、不十分なままのようだ。この傾向は、庶民より、記事を扱う人間に、強く表れており、出された数字を、鵜呑みにするだけでなく、その解釈をも、そのままに報じる。どこかから、作為や思惑が、指摘された途端に、騒ぎ立てるのも、自分達で、検証を一切行わず、信じ込んだことへの、反省ではなく、騙す行為を、行った人間への、復讐のような心理が、働くからだろう。前日の話題では、正当な手続きを、経ることなく、誤った変更を、行ったことに、批判が集まるが、変更の理由が、余りに杜撰だったことも、もっと厳しく、断じられるべきだろう。教育現場に、繰り返し出された要求も、こんな社会状況では、何の役にも、立っていないと思われるが、お上自身が、先頭を切って、統計を操作し、数字を弄るようでは、何ともならない。そんな大人を、目の前にして、子供は、どうするか。傾向と対策から言えば、あの通りにすれば、安心と見るのが、当然だろう。その結果、詐欺が横行し、なけなしの財産を、失ったとしても、自業自得となる。自己責任の一言で、貧しい生活を、強いられたなどと、社会批判を繰り返す人も、努力を怠ったに過ぎず、反論の権利は、やはりあり得ない。数字をはじめとする、根拠の存在を、もっと重視せねば、自分を守ることは、難しいのだ。

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1月12日(土)−小役人

 役所の人間は、いつから、こんなに役立たずとなったのか。そう思う人は、一杯居るだろう。ちょっと、煽てられた位で、便宜を図ったり、面倒な仕事だからと、やらないままに、放置したり、公僕とは、何なのか、と訝る向きもあろう。楽で安定、と言われた頃からだろうか。
 成長を続けていた頃は、日陰の存在とか、縁の下の力持ちとか、公共の利益を、追求する存在として、確固たる地位を、築いていた。それでも、護送船団方式、などと呼ばれる、国を挙げての方策を、実行に移す存在として、金儲けに走る企業の人間とは、異なる存在となり、重要な役割と、見做されていた。だが、経済成長が、天井に打ち当たり、下降を続けると、たとえ日陰で縁の下の存在でも、安定な職として、評価が急上昇した。だが、その辺りから、様子がおかしくなり、汚職などの不正だけでなく、肝心の仕事さえ、まともにしない人の数が、増えていった。外から見れば、楽な仕事と、思えたのは、こんな事情があったのかもしれない。規則を定める立場にあれば、それを曲解しても、叱られる訳がない。そんな傲慢さから、様々な問題が、生じ始めた時、役所への信頼は、急速に失われ始めた。特に目立つのは、国民の生活と、密接な関係を持つ、ある省の為体だろう。万人の悩みの一つに、老後の収入があるが、肝心の年金の仕組みが、次々と変更される中、調査に欠陥が露呈し、その修復だけでも、貴重な時間と予算が、費やされた。だが、調査の欠陥は、それだけでは終わらず、次々に暴露されている。そこには、自己都合しかなく、身勝手な解釈を、罷り通すという、役人の傲慢さだけが、現れている。少し位の処分で、腐った根性が、直せるとは思えず、根本的な改革が、必要と思われるが、その手立ては、見出せそうにない。だが、ここで諦めては、私達の将来は、泡と消えてしまう。

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1月11日(金)−大人騙し

 子供騙しとは、単純で幼稚なもの、だそうだが、これは、子供が対象だが、騙す相手は、いい大人のようだ。惨憺たる状況の、教育現場への、画期的な打開策として、様々な手法が、それに用いる装置と共に、盛んに喧伝されている。恰も、万能の道具のように。
 教育の荒廃は、子供の興味が、無限に広がる中で、まるで、壁を築くかの如く、制限を設ける代わりに、時間にも、心にも、余裕が持てる、と持て囃された、「ゆとり教育」が、決定打となった。巻き込まれた若者達は、その看板を、背負わせられ、能力の低下を、足枷として、押し付けられた。一度、壊れてしまったものは、世代を継ぎながら、伝達する仕組みでは、修復は、ほぼ不可能となる。被害者が、次の被害者を、作り出す中で、打開策を講ずべき、という意見が、当然のように、強まってきたが、その策を、実行するのは、壊れた仕組みの中で、育った人間達であり、余裕やゆとりを、持たされる中で、本質的なことを、教えられず、工夫と称する、基盤を持たない、付け焼き刃だけを、身につけた人々なのだ。彼らに、画期的とされる、道具や方法を、授けたとしても、その使い方さえ、見極められなければ、何も起きないことは、火を見るよりも明らかだろう。その上、肝心の画期性についても、一度弛んだゴム紐を、巻き戻すのが、難しいのと同じで、見せかけの、格好良さばかりに、注目が集まり、質を問うことなく、目を奪われるだけでは、何の意味も成さない。これが、子供を騙す為の方策が、実は、関わる大人達を、騙す為のものだった、という意味へと繋がる。ここまでくると、無駄な手出しをせず、徹底的に破壊し尽くした方が、いいのではないか、と思えてくるのだ。それこそ、無責任な意見であり、何の成果も期待できない。しかし、無駄な時間と金を、費やすくらいなら、手を離した方が、いいと思うのだ。

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1月10日(木)−壊滅を

 教育の崩壊が、極まっている、と伝えられる。その多くは、打開の為の方策を、紹介する記事だが、その内容は、場当たり的で、付け焼き刃でしかなく、何も解決しない、としか思えない。特に、力が入るのは、装置の設置を伴い、多額の予算を、要するものとなる。
 だが、その実態は、情け無い程に、効果が期待できず、ただ、遊び道具を、与えるだけに、過ぎない。楽しく学ぶ、という方針が、監督官庁で、決められた時代に、「ゆとり」という文言が、掲げられた。今や、諸悪の根源の如く、扱われる看板は、まさに、場当たりで付け焼き刃な、考えに基づき、楽しく、よりも、楽に、に重点を置いた、方針転換だった。ここでは、内容を減らし、目標を下げることで、心だけでなく、時間にも、余裕を持たせることで、ゆとりを確保する、という方針が、実行されたが、その結果は、今の惨状を見れば、自明となる。あの政策を、先導した人々は、既に、役所を去ったが、現場には、影響を及ぼす立場に、居座っている。正当化には、精を上げるが、反省は、微塵もなく、次々に繰り出される、中身のない打開策に、手を貸すことで、存在感を、主張し続ける。しかし、現場で、教育に携わる人々の世代は、所謂「ゆとり世代」が、中心となっており、彼ら自身が、何をどうすればいいのか、理解できない。そんな状況で、小手先の打開策と、新たな道具や手法が、編み出されても、所詮、焼け石に水、の状況に、変化は起きない。そんなことを書くと、では、何をすれば、いいのか、などと、外野から、厳しい意見が飛ぶだろう。ここまで、崩壊が進んでしまうと、現場全体が、その悪影響に、毒された人間に、占められるから、いっそのこと、諦めた方が、いいだろう。簡単なことを、教え込むことで、達成感を、などと、惚けたことを言わず、子供達の、好きにさせればいい。森林火災のように、破壊尽くすことが、その後の復活に、不可欠なのだから。

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1月9日(水)−不履行

 開いた口が、塞がらない、とか、呆れて物が言えない、とか、そんな感覚だったろうか。やるべきことを、しないままに、与えられるものを、強く要求する。そんな風潮が、急速に強まったのは、経済の停滞が、顕著となることで、将来への期待が、失われた頃からだ。
 何もしなくても、成長が当然だった時代に、青春を謳歌した世代は、その後の低迷の、責任を負わされると、一気に、自信を喪失し、次の世代に対し、厳しい態度ではなく、理解を示す態度を、明確に示し始めた。その結果が、現状の混乱を、招いたと言って、差し支えはないだろう。困っているなら、自分の努力で、打開せよ、と突き放され、それによって伸びてきたとはいえ、実際には、努力もせずに、ただ傍観するだけで、成長の恩恵に浴していただけの人は、現状打開が、命題として示されても、現実逃避を、続けてきたようだ。それが、次代を担う世代を、育てねばならない、環境となっても、肝心の方策を、講じる知恵さえ、持ち合わせず、相手を放置するだけでなく、要求に応えることに、腐心することとなった。これは、冷静に考えずとも、時間や金の無駄であるばかりか、経済回復への、兆しを捉えることさえ、できない状況に、陥らせることとなった。その中で、育ったから、義務を果たさずとも、権利を要求するのを、当然とする風潮は、避け難い結果である、とするのは、非常識の極みだろう。人間として、あるべき姿を、考えることもせず、穀潰しの典型のような、行動を、正当化する人々は、何処かの穴に、閉じ込めたくなる。社会を支える為に、不可欠である筈の行動様式が、まるで、貧乏根性のように、扱われることに、強い態度で、反論しなければ、負のスパイラルの勢いを、止めることはできない。やらないなら、何も、与えなくても、良いのだ。

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1月8日(火)−嘘か真か

 ある出版社が、嘘を引き合いに出す、広告を出した、と伝えられた。戦争との関わりから、80年近く前の、国を挙げての暴走の、始まりとの繋がりが、訴えの中心に見える。言論界の力が、それ程にあると、見做すべきかは別として、自らを、戒める思惑だろうか。
 後になって考えれば、あれもこれもと、嘘の数々を、指摘することは、簡単にできる。だが、渦中で、圧力がかかる中では、それが、冷静な時程には、簡単ではないことに、反省を抱きつつ、思い返すのではないか。そういう思いが、業界に深く残り、次の変革の時代への、突入を予想して、掲げられたものだろうか。それとも、全く別の思いが、あるのだろうか。真面目とは、呼び難い会社のことだから、そんな深読みも、出てくるだろう。何れにしても、嘘か真かに関しては、二つに一つ、と思う人が居るけれど、実際には、二分化できないことが、多いのではないか。見方により、嘘にも、真にも、何方にもなる話は、数多ある。はじめに書いた話も、後から見れば、嘘だったということが、多いようだ。確かに、意図的に、事実を歪曲させ、都合のいい話に、仕上げられたものも、多かったようだが、実は、見方の違いで、事実の受け止め方が、異なっていた場合もある。これを、嘘と決めつけるのは、軽々なのではないか。事実かどうかの、真偽が明らかになる前に、判断を下すのは、こんな具合で、実は、簡単なことではない。一つだけを、取り上げて、そこでの真偽を、判断するのではなく、それに付随する事柄を、集めた上で、判断を下せば、事情は異なってくる。これが、大量の情報を、集めることの意義なのだが、今の風潮では、ここでも偏りが強く、集め方自体に、問題があると言われる。だとしたら、客観的な情報収集を、どう可能にするかが、重要となる筈だ。嘘か真か、などと問う前に、そちらに目を向けるべき、なのではないか。

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1月7日(月)−流行

 流行を、追いかけることを、第一とする考えが、優先される時代のようだ。人々の興味を、引くための手立てに、様々な方策を、講じることで、利益を上げようとする。利潤追求の観点から、当然の動きと、見做されているようだが、本当に、当たり前のことなのか。
 その為に、必要な情報は、徹底的に収集しようと、ビッグデータなるものに、注目が集まる。確かに、情報量が、増えれば増える程、確実な見通しが、できるように思える。だが、この仕組みの欠点に、気付かずに進み続けると、事実誤認の例が、急速に増えそうだ。人気の度合いを、調査した結果が、収集と同時に、公開される仕組みでは、高い所に、注目が集まることで、更に、人気が高まる。これでは、各人の判断に基づかず、単に、噂に振り回される、群集心理の典型が、結果として出てくるだけで、目的としていた、本当の状況とは、大きく異なる結果を、手にすることとなる。少し考えれば、この矛盾にも、気付ける筈だが、多くの人は、気付かぬままに、歪曲された結果を、鵜呑みにする。この傾向が強まると、情報操作に似たことが、意図的ではなく、無意識のうちに、行われることになる。担当者達は、大真面目に、結果の分析を行い、今後の方針を、それらに基づいて、決めてしまう。偏った結果であることを、意識せずに、全幅の信頼の下、次の手を編み出し、それに対する調査を、同様の手法で行う。これが繰り返されれば、誤りの度合いは、強まる一方で、どうしようもない事態に、陥るまで、突き進むしかない。客観と信じ込むことで、信頼の度合いは、強まり続けるが、実際には、客観とは、表面的な見え方に過ぎず、ある特定の人間による、作為ではないものの、仕組みが作り出した、意図による歪曲が、その姿を現す。本当に、このまま、突き進むのだろうか。

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