技術の発達は、嘗て、不可能と思われたことを、実現してきた、と言われる。だから、不可能と思えることも、技術を磨けば、可能となる、と信じられている。だが、全てが、実現されたわけでもなく、不可能は、不可能のままに、残されていることも、数多くある。
それだけではなく、実現されたとしても、それが、実用的なものとなるには、更なる努力が必要で、結果的に、身近な存在と、ならなかったものが、多いようだ。このサイトに、人が集まっていた頃、一人の証券社員から、尋ねられたのは、燃料電池の実現に関してだった。実験段階としては、可能となった技術でも、それが、日常的に利用できるように、なるかどうかは、社会整備など、様々な要因が、関係する。それを利用した車が、販売されたとの報道も、その価格を、一目見ただけで、「不可能」の文字を、思い浮かべた人が、殆どだったろう。従来の電池を、搭載した車でさえ、普及の度合いから言えば、期待を遥かに下回り、一つの技術だけでは、実現しないことが、多くあることを、強く印象付けられる。前にも書いたが、電池の技術を、如何に進めようとも、無理は無理のまま、に終わる。一方、燃料電池では、価格を下げることが、最大の問題だが、量産さえすれば、それは可能となる、と言われる。だが、燃料である水素ガスを、いかに供給するかについて、議論が、殆ど進んでいないことを、指摘する声は、大きくならない。技術だけでは、解決できない問題が、そこにある。今、注目されている技術に、自動運転があるが、これとて、実用化の段階、と言われてから、どこまで進むのか、期待が大きいだけに、難しい問題となっている。人が運転するのと、機械が運転するのと、何も変わらない、との指摘の中には、事故は、必ず起きるもの、という前提がある。だが、機械任せにすれば、責任を逃れられる、との考えがある間は、最終段階に、入ることはできないだろう。技術だけでない、別の社会問題が、そこにある。
経済状況が、芳しくないように見える。昨年の前半は、政治の不安定が、高まりつつある中で、どこ吹く風、とばかりに、好調な動きをし続けた。だが、その強さも、後半に入ると、翳りを見せ始め、下げに転じたが、不安定な政治は、我関せずと、暴走を続けた。
年初来、再び、回復基調へと、転じたのは、貿易を始めとする、政治的な紛争の一方で、依然として、好調な様子を見せる、経済指標に、支えられたもの、と受け取られている。だが、それとて、政治介入が、経済政策への、横槍となり、方針転換を、余儀なくされた為、と見るべきかもしれない。それにしても、こんな騒動に、発展してしまったのは、何故だろうか。様々な要因が、考えられているが、最も大きなものは、あれではないか。政治が、民主主義の動きに、強く左右されることを、いい兆候と見る人が、多いようだが、これが、崩壊の始まり、となったのではないか。皆の望むような形に、進める為には、皆が、意見を表明し、その動きを、進めていくことこそ、重要だとされる。だが、民衆の希望は、万人にとって、より良いものを、作り出すことではなく、実は、各自の望みを、達成する為のもの、に過ぎなかった。つまり、全体を考えるのではなく、一部にとっての利益が、優先されることで、均衡が、崩れ始めたのだ。民衆に選ばれた人間が、選んで貰ったことではなく、選ばれたことを第一とし、一部ではなく、全体の利益を考えることが、それまでの民主主義のやり方だった。だが、選んで貰った、という感謝を、そのまま、返すことを、第一とした為に、一部の利益しか、考えられなくなった。公約とは、破られるもの、という相場が、変わってしまうことで、世の中の仕組みは、大きく変えられ、呪縛に苦しむことになる。今回の騒動は、他も含め、その表れと見るべきだろう。さて、大衆が、それに気付くのは、いつのことか。
他とは違うことを、強調する意味で、自分流という言葉が、使われている。独自のもの、という点が、高く評価される風潮では、こんな表現で、差別化しようとする。だが、独自が、枠を外れてしまい、無価値となれば、元も子もない。自己流と、批判されるだけだ。
能力の無さを、目立たせないように、人との違いを、強調する。評価を高める手立てとして、屡々使われるが、中身の無さは、隠せない。常識では、考え付かないことを、提示するのも、その一つだが、一歩間違えば、非常識となるだけで、逆効果でしかない。こんな事例が、山のように積まれる中で、一つ二つ、その独自性が、功を奏する場合が、出てくる。ここぞとばかり、その意義を、強調するのが、現代の流れだが、これが、今の劣悪状況を、悪化させている。ただ、人と違うだけで、その評価が得られる、と思い込む人々が、我先に、飛び付くのだ。しかし、中身がなく、能力も劣る状況には、何の変化も起きない。手っ取り早い方法として、取り上げられるのも、状況を、悪化させている。ここでも、傾向と対策が、重要な要素となるが、それを外すことが、優先されることで、基礎を、築かせないようにしている。履歴書という、新聞の記事で、上司から、書類を突っ返された経験を、語っていたが、今なら、ハラスメントとなる、とも書いていた。自分で、考えることの大切さを、伝えようとするものだが、無能な上司なら、助言を与えられず、突き放すだけだろう。今の世なら、その程度にしか、理解されない。同じことを、行ったとしても、所詮、助けにはならない。その代わりに、一つ一つ丁寧に、間違いを正す必要がある。だが、それさえ出来ない、無能な上司では、部下が育つ可能性は、無いだろう。教育現場を、徹底破壊すべき、という意見と、同じことが、職場でも起きている。手遅れなのだ。
他人と違うことを、優先させた結果には、ある極端な傾向が、見られる。違いを、際立たせる為に、法律や規則を、無視するのだ。極端とは言え、これが横行すると、秩序は、守られないことになる。皆が、遵守する中で、秩序を乱せば、違いは明らかとなる。当然のことだ。
だが、これは、明らかな間違いだ。にも拘わらず、違いを歓迎する人々は、不埒な連中を、賞賛する。身勝手な人々は、それだけで、調子に乗り、一段と過激な行動に、出てくる。ああ、あれか、と思い当たるのではないか。国を挙げて、優秀な人材を、発掘しようとする、動きが盛んになった頃、こんな騒動が、各地で起きていた。この殆どが、無駄であったことは、今や、明白だろう。当時、引き合いに出された人々は、鳴り物入りで、日の当たる場所に、登場したが、いつの間にか、日陰に退いていった。失敗の原因は、様々にあろうが、最大のものは、同じことを排除し、違うことだけを、取り上げたことにある。原理原則を、無視する人間を、専ら採用した制度は、悉く失敗した。かなりの力を入れた、制度でさえ、その結果を招いたのは、人材の選び方が、間違っていたからだ。特異な人材、と呼ばれた人々は、違うことに酔い痴れ、肝心の基礎や規則を、顧みないことで、自身の能力を、過大に見せていた。だが、何かをやらせると、全体としての、完成度において、欠陥ばかりが、目立つだけとなる。たとえ、一つが光っていても、他が、整わなければ、完成しない。基礎の鍛錬を、省いた結果が、現れた訳だ。社会が、そんな寛容性を、示した頃から、こういう役立たずが、目立ち始めた。口では、大層なことを、宣うものの、通常の作業が、全くできない人々だ。出来損ないの書類を、黙って受け取ることで、彼らは、自分の間違いに、気付くことなく、放置された。今や、そんな連中が、上に立っている。これでは、何事も、進む筈がない。
皆と同じ、であることを望む、というのが、国民性と言われるが、果たしてどうか。他人が、判断や言動を、どのようにするのかを、気にする人が、多いと言われ、同調することを、選ぶとされるが、その一方で、育成の立場からは、他と違うことが、求められている。
この状況は、明らかな矛盾を、生じているように、見えている。同じでありながら、違いを示す、ということは、何を意味するのか、理解に苦しむ人が、多いのだろう。では、少し違う見方を、してみてはどうか。例えば、同じという部分は、ある水準に達することを、意味すると考えれば、基準を設けて、それを上回るように、各自が、努力に励むとなる。これ自体は、これまで、長い間実施されてきた、義務教育に、課された命題と、同じに見えてくる。教育を、受けた人間が、全て、ある基準を達成することで、基盤を築く。国民の識字率の高さは、これにより、達成されている。一方、達成が済んだ後で、更なる努力を、どこまでするかは、個人の判断に、任される。ここに、違いが出てくる、理由が現れる。つまり、最低限を保証した上で、上積みについては、各自に任せる訳だ。こう考えれば、理解に苦しむことなく、自己判断が、できるだろう。ところが、そこに、別の考えが、生まれてきた。違いを、明確化しようとする動きが、高まるにつれて、一足飛びに、違いに飛び付く人が、急増したのだ。他との違いを、主張することは、目立ちたい、と願う人にとって、重要な要素となる。だが、違いばかりに、目を奪われ、基準を満たすことなく、ただ闇雲に、独自性を主張しても、確実に、成果を出すことは、難しい。ただ単に、違いばかりが、目立つだけで、結果が、伴わないからだ。優先順位を、取り違えてしまうと、こんなことが起きる。安定した時代だからこその、問題と思える。
愛玩動物の話題が、様々に報じられる。中でも、飼い主の高齢化が、喫緊の課題とされ、介護との関係が、論じられる。人間の問題でさえ、簡単には片付かないのに、別の生き物について、どう扱えばいいのか、問題は、複雑になるばかり、と言われている。
犬についての話題に、限られているのは、やはり、愛玩動物と飼い主の、関係があるのだろう。猫ならば、自由気儘な生活から、依存性が、大きく違うから、心配はない、とも言われる。ただ、この辺りの事情も、近年、大きく変貌しているようだ。室内飼いの猫が、急速に増え、首輪をつけた猫を、外で見かけることも、殆ど無くなった。元々、狭い所を、すり抜ける事が、多い動物だけに、首輪の危険性が、取り沙汰されたこともある。だが、やはり、飼い猫を、外に出すことは、少なくなったらしい。一方で、野良猫を減らそうと、活動する人々は、増え続けている。何処でも、気儘に暮らせる、猫にとっては、今の人里は、暮らし易い場所である。餌を与えてくれる人が、居たり、残飯を、漁ることで、生き延びることが、難しくない。そこで、繁殖が起きることが、社会問題として、取り上げられ始めてから、野良猫を、捕まえる人が、出始めた。野犬は、別の危険から、行政が、主体となって、捕獲され、今では、殆ど見かけなくなったが、猫に関しては、事情が異なる。うちの猫も、野良猫の子供だったものを、捕まえて、飼っているが、外にも、野良がいる。餌付けは、済んでいるから、毎朝、新聞を取って、帰ると、いつのも場所で、待っている。裏に寝床を、用意してあるから、冬場は、すぐにやってくる。まるで、条件反射のようだが、彼らの生きる術は、こんな所に、現れている。野良で、子を育てたが、子猫達は、譲渡会で引き取られた。親も、その際に、手術を受けて、繁殖は止まった。愛玩かどうかは、定かではないが、動物と人間の関係の、一つと言えるだろうか。
何事も、大袈裟に取り上げる、風潮がある一方、何でもかんでも、安直に、済ませようとする。この大違いに、戸惑う人が、多いのではないか。それも、同じ人物が、一方で、心配や不安を、口にすることで、事を拡大化させようとし、その一方で、問題を、何事もなく、看過する。
こんな心理に、振り回される周囲は、迷惑を隠せないが、被害者を、装う人物に対して、厳しい言葉を、投げることはない。これを、優しさと呼ぶらしいが、これは、単に、自分への被害を、避けようとするだけで、相手に対する、気遣いではない。こんなことが、当然の如く、繰り返された挙句、皆が、手を離してしまうと、肝心な問題は、無かったかのように、される。こんな形で、無意識のうちに、先送りされた課題が、今や、世の中に、山積されている。この問題を、更に、複雑にしているのは、解決することしか、手を付けてこなかったからか、何事も、簡単に片付く、と勝手に信じ込む風潮で、身勝手な提案を、口にすることで、手を貸したと思う、無責任な人々の存在だろう。どうにもならなくなり、策が尽きたと、嘆く声が聞こえ、呆然とする姿が、映されるが、解決への道は、数多あるのに、それに気付く気配さえ、見えて来ない。教育に関しては、破壊し尽くすしか、手立てが残っておらず、小手先の誤魔化しは、止めたほうがいいが、他のことに関しては、まだ、手立ては多く残っており、的確な対処こそが、必要となっている。だが、最前線の人々は、それらを、自らの責任とは考えず、自分が居る間だけ、問題が起こらねば、安泰と思うことで、変化の少ない小手先を、優先させて、先送りを続けるだけだ。これでは、何も解決せず、問題は、増えるだけとなる。何もしないなら、さっさと、退くべきではないか。