パンチの独り言

(1月21日〜1月27日)
(木偶の坊、再来、敗着、秋波、騙されない、善人、弱み)



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1月27日(日)−弱み

 今回は、データの集め方に、問題があった、と伝えられる。一般には、多数の母集団の中から、一部を、抽出して集めることで、集団全体の様子を、反映させる、と言われる。だが、全体の分布が、定かではなく、代表となる対象を、選び出すことが、できない場合、全数調査を行う。
 本来、そうすべきものを、一部を選び出して、実施すると、どんな不都合が起きるのか。伝えられる所では、抽出が、変更される度に、結果のばらつきが、異なって現れ、調査毎の違いが、大きかった、とのことだ。対象の選び方による、違いが表面化したものだが、逆に見れば、抽出してはならないものを、無理矢理選んだ結果、となる。統計において、データ収集が、第一となる、と言われるのは、このことがあるからだ。だが、一方で、正当な手法で、集められたとしても、その解析方法を、誤れば、全く異なる結果を、招くこととなる。統計において、どの手法を、用いたかが、問われるのは、これが理由と言われる。だが、統計を施そうとする、動機を考えると、簡単には、片付けられない問題となる。差を際立たせようと、ある手法を適用しても、結果が芳しくないと、別の手法を用いて、少しでも、差を出そうと努める。こんなことは、現場では、屡々見られるが、手法の違いや、適用の理由について、論じられることは、少ない。医薬品の効き目を、確かめるための手順の中で、まさにこのことが、起きているのだが、それが、正当かどうかの検討が、なされない場合も多い、と言われる。僅かな差を、大きく見せることが、目的となった場合、都合のいい方法を、見つけることが、重要となる。だが、それぞれで、何がどう行われたかについて、目が向くことはない。結果が全て、なのだ。だが、この姿勢では、科学的根拠は、脆弱なものに、なってしまう。それがまた、統計手法に対する、理解を、乏しいものにさせているのではないか。

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1月26日(土)−善人

 不正への批判が、高まる中で、理解し難いことが、起きている。一見、何の違和感もなく、扱われているが、少し考えると、やはりおかしい、と思える筈だ。人の信頼は、失われると、取り戻すのが、困難と言われるが、一度築かれると、簡単には、崩れないということか。
 不祥事が重なり続け、何が、どの順序で、起きていたかを、思い起こすことも、難しい。その中で、冤罪に苦しめられたものの、その後、復権がなり、ついには、頂点に上り詰めた人物に、注目が集まっていた。この国の常として、被害者は、弱者であり、弱者は、保護の対象となる、という考えが、行き渡っている。だとしても、彼女の場合は、弱者から、強者への転換が、一気に起きたことから、例外的なものと、扱われてきた。しかし、正義という捉え方でも、冤罪の被害者は、特別な扱いを受ける。その為、頂点に君臨しても、強者として、傲慢な態度を、示す存在として、見做されることなく、一種特別な存在となっていた。だが、今回の不正は、まさに、彼女の在任期間に、続いていたことであり、それに対する責任は、重いものに違いない。にも拘わらず、依然として、善人として扱われ、意見は、正当なものとして、扱われている。これまでに築かれた、信頼が、揺るぎないものだから、という考えもあるが、監督責任を、免れることは、できる筈もないし、もし、善人だから、という理由で、それが、できるのだとしたら、組織は、成立しないものとなる。本来なら、役所の頂点は、悪の権化であり、政治家は、悪者に違いない、という考えが、社会に蔓延しているのに、何故、こんな情勢となるのか。おそらく、人の感覚、心理の問題であり、それらが、如何に不安定なものかを、如実に表している。発言の深意を、推し量ろうとするのは、何事も、冷静な判断を下すべき、という意見からは、程遠いものだ。

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1月25日(金)−騙されない

 統計に騙されるな、という戒めに、納得した人が、多いだろう。だが、騙す為の手立てに、全く異なる二つがあることに、気付いた人は少ない。統計を、都合よく解釈し、そこから、持論を展開することで、誤った方に、導かれることを、警戒せよ、という警告だけではない。
 そこには、統計そのものを、疑えという警告も、あったのだ。学校で、生徒らが、調査研究と称して、皆に、質問を出して、その結果をまとめる。所詮、限られた範囲での、調査に過ぎないのに、まるで、それが、社会を代表する集団のように、結果を扱うことに、注意を与える必要がある。抽出という作業において、心掛けるべき事柄は、数多くあるのに、手近だからと、集めただけで、安心してしまう。子供心に、この助言は、響くのかもしれないが、大人達は、意図的にしろ、無意識にしろ、身勝手な論理を、当てはめることで、誤りを、隠蔽してきたようだ。動機とか、原因とか、そんなものの追及に、例の如く、精を出す人々が居るが、そんなものが、明らかになる筈もなく、ただ、こちらが楽とか、面倒だったとか、深く考えずに、行動を起こした人々の、責任となるだけだ。これを、大袈裟に取り上げ、誰かに、責任を負わせようと、躍起になったとしても、無知な人間は、減ることがない。それより、統計を鵜呑みにせず、常に、検証手続きを、行う仕組みを、取り入れることこそ、重要となるだろう。その為には、各省庁に、担当官を置くのではなく、検証を、専ら行う組織を、新たに作ることが、必要となる。無駄と思う人が、出てくることは、ほぼ確実だが、現状を、打開する為には、避けられぬことだろう。統計の収集に当たる人々を、徹底的に教育する、などという行為こそ、馬鹿げたものに過ぎず、解決は、遠ざかる。数字を集めただけで、安心するのが、一番の問題なのだ。

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1月24日(木)−秋波

 目は口ほどに、と言われたことが、あるだろうか。この国では、視線の使い方で、言わずとも、となると言われる。だが、海の向こうでは、目だけでなく、顔全体の表現で、相手に、思いを伝える、と言われる。表情の現れ方の違いか、それとも、表現力の違いなのか。
 先日読み終えた本は、表情が、如何に感情を、反映するかを調べた、心理学者によるものだったが、内容は、玉石混交という印象だった。頷ける部分が、ある一方で、明らかな間違い、と思える部分が、かなり多くあり、研究という成果を、反映しているものの、その危うさが、目立っていた。心理学が、伝統的に、拠り所としてきた部分が、背景にあるだけに、人間による解釈が、如何にいい加減なものか、そんなことを、印象づける内容で、おそらく、原著の段階で、既に、かなりの批判が、集まっていたと思う。だが、血液型による、性格判断などが、いとも容易く、受け入れられる、国民性には、こんな怪しげな話も、大いに話題となる。総合的な解析を、評価する人が、居るだろうが、実際に、基準とした部分は、数値化できぬままに、印象を強調しただけで、それで、相手の思いを、推し量れると、断定する態度には、自信過剰だけが、感じられる。心理学は、この国の大学では、文系学部に属し、科学の手法より、人間の解釈を、主体とする研究手法が、専ら使われてきた。そんな事情もあり、人間に関わる、大切な分野であるにも関わらず、結果の解釈が、身勝手な論理に、基づくものとなってしまい、確固たる地位を、築けぬままに、独自の路線を、歩み続けてきた。依然として、その状況が、続く部分もあるが、一方で、科学的手法を、取り入れようとする動きが、盛んとなりつつある。画像解析が、導入されたのも、その一因となっている。少しは、様子が、変わるだろうか。

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1月23日(水)−敗着

 改革が必要、という声が、各所から聞こえてくるが、変えることばかりで、何を目指すのか、全く見えていない。その上、変えたことで、生じた影響について、何の準備もせず、そのまま突き進むから、無謀な行動にしか、見えてこない。で、何をしたいのか、やはり見えてこない。
 変えることが、目的になっており、行き先は、決められない。何をどう変えれば、どんなことが起きるのか、見極めようともしない。こういう考えを、抱くことなく、ただ、闇雲に進む。それでも、変化は確かに起きる。だが、何処を目指すのか、誰にもわからないのでは、何ともしようがない。不安を口にする人々が、これに加わると、更に複雑となる。何が起きるのか、見えなければ、当然、不安が過るだろう。でも、進むしかない、とされては、妨げることは、避けねばならない。では、何をどうすれば、いいのだろうか。変えることを、無条件に受け入れるのなら、次にすべきことは、変化が、どんな結果を産み出すか、見極めることだろう。検証と呼ばれる作業は、突き進むのと比べて、何とも地味なものとなる。その上、変化を起こした人々を、批判することが、多くなるだけに、嫌な存在として、忌み嫌われることになる。地味で目立たぬだけなら、まだましだろう。敵対視され、余計な存在として、追及される。更に、検証により、何らかの不都合が、炙り出されると、邪魔との認識は、高まることになる。その上、変化の方向が、間違っているとの検証は、次の一手を、捻り出すことには、繋がらない。となれば、無駄なものと、断じられることさえ、起きてくる。邪魔とか、無駄とか、呼ばれながら、より良い方向を、見出そうとする動きは、何とも窮屈なものに、違いない。そんな思いは、肝心の検証を、省くことへと、結び付く。それが、失敗への道筋、なのではないか。

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1月22日(火)−再来

 経済は、成長を続けるもの、という話を、信じる人は、居ないだろう。だが、成長過程にある時、それが、いつまでも続きそうだ、と思う人は、多いのではないか。収入は、増え続け、投資に、更なる力を入れる。そんな勢いが、衰えるとは、まさか、思う筈も無い。
 だが、歴史が、物語るように、上げたものは、下げると、相場は決まっている。ただ、それが、いつ起きるのか、という点については、予想不能と言われるのだ。その中で、先見性を、鍛えようと、過去の動向を、分析することも、盛んに、行われている。しかし、事は、それ程には、容易ではない。何故なら、過去の事例と、そっくりそのまま、ということは、決して起こらず、たとえ僅かでも、違いがあるのが、常だからだ。国の経済成長も、同じ轍を踏む。この国の、嘗ての栄光を、思い起こす人も、多いだろうが、隣国の大国に、そろそろ翳りが、見え始めたと言われる中、あちらの要人達は、こちらの経済政策の失敗の歴史に、学んでいると言われ、同じ轍は、踏まないとされる。だが、輸出主体の国の事情と、国内消費が伴う国の事情は、大きく違うだろう。減速が、露呈する中、既に、多くの対策が、講じられていることも、伝えられており、それが、効果を示すかが、この先の行く末を、決めるとも言われる。施政者達は、万全、と胸を張るが、所詮、選択の一つに過ぎず、解答には、唯一の正答が、存在する訳でもない。その中で、答えが出るのは、全てが終わった後であり、進み始めてからは、講じられた対策が、功を奏するかどうかは、誰にも、定かではない。勢いに任せ、傲慢とも思える態度に、出ている、大国の施政者達は、果たして、どんな答えを、期待するのか。嘗ての道を、そのまま進めるかには、何の確証もない。何れにしても、進むしかなく、結果への責任は、消えることはない。

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1月21日(月)−木偶の坊

 次の世代を、どう育てるか。こんなことが、最重要課題とされ、挙って、育成法を、議論している。だが、その実態は、育て上げた成果ではなく、如何に、新しい仕組みを、採り入れ、如何に、その為の予算を、確保するかに、注目が集まる。本末転倒ではないか。
 育成法は、どう育てるかに、一番の標的がある。だが、経済活動が、優先される風潮では、それを支える人材を、育て上げることより、金が、どう動くかに、注目が集まる。金さえ、動かせれば、人材は、それを追いかけることで、育ってくるもの、という解釈もあるようだ。だが、本来、育成法を、論じるのなら、手法そのものを、編み出さねばならない。なのに、あの人々は、どんな道具を、新しく導入するかや、見込みを検討することなく、新しいものに、飛び付くだけで、成果の検証もなく、ただ、闇雲に、進んでいるだけだ。何度も書くように、傾向と対策では、新しいものは、出てこない。にも拘わらず、いつまでも、傾向を見出し、対策を講じようとする。これでは、新たな展開は、出てくる筈がない。だが、それに気付くことなく、ただ漫然と、対策の為の指南書、を作ることに、時間を費やし、それに必要だと、新しい道具を紹介する。そうすれば、金が回るから、予算確保も、経済動向も、順調に見えてくる。だが、その陰で、肝心の人材は、育ってこない。否、との意見には、新たな人材の殆どが、その枠組みではなく、別の所から、生まれている、と断じればいい。要するに、育てようとしても、人材のあるべき姿を、見極められないのでは、何もできないのだ。各自が、自分なりの方法を、編み出すことで、新たな展開への対応も、可能となる。そう考えれば、懇切丁寧に、全てを教え込んでも、役立たずが生まれるだけで、何も起きない。単なる、木偶の坊を、育てるだけなのだ。

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