冠婚葬祭、嘗ては、節目節目で、区切りをつける、という思いから、華美とも思える程に、派手な催し、となっていた。特に、国内でも、一部地域では、何故、と思われる程、多額の費用が、注ぎ込まれた、と言われる。だが、停滞なのか、閉塞なのか、今は違う。
だが、実際には、袖が無い訳ではなく、家族の催しであり、外に対してより、内で収めたい、との思いがある、と言われる。経済の状況が、右肩上がりで、上昇を続ける中で、心情も、外向きだった時代と違い、閉塞感は、こんな所でも、内向きの力として、働いているのかもしれない。それにしても、静かに、倹しく、というより、何処か、排除の気持ちが、働いているように、思える状況には、理解に苦しむ。他人に、介入されたくない、という気持ちが、何処から生まれたのか、定かではなく、それにより、何がしたいのかも、見えてこない。家族の絆、という言葉は、そんな所でも、度々目にするが、その割に、仲違いが目立ち、敢えて、そんなことを、言い出す理由さえ、見えてこない。では、何が、したいのか。結局、わからず仕舞いで、終わりそうだ。ただ、問題はある。悔やみを、伝えたくとも、祝いを、伝えたくとも、そんな状況では、こちらの思いを、伝えることさえ、できないのだ。近所付き合いも、長年の人付き合いも、そんな形で、壊されてしまうことに、憤りを感じる人が、多いのではないか。内輪だけで、喜びを分かち合いたい。悲しみに沈むのを、邪魔されたくない。当人達は、そんな思いを抱き、誰にも知らせず、粛々と、冠婚葬祭を、執り行う。それは、他人からしたら、身勝手なものにしか、映らない。人という字は、などと言い出すまでもなく、互いに支え合い、生きてきた人々が、何故、そんなことを、したくなるのか。さっぱり、理解できない。困った時は、お互い様、という考えより、困った時だけ、頼りにする、という考えが、いつの間に、世の中に、蔓延したのだろうか。
改革、という言葉が、色々な所で、飛び交っている。平和で、安定な社会だから、という理由もあるが、それより、停滞や閉塞感、といった表現で、発展が感じられず、袋小路に、追い込まれた空気が、満ち溢れて為と、見る方が、正しいのではないだろうか。打開の為に、改革を、ということだ。
だが、組織や社会の中で、皆が、行き詰まりを、感じている訳ではない。それより、その状態の方が、自分にとって好都合で、それによって、利益を得ていると、感じている人々は、それを破壊しかねない、改革に対して、異論を唱え、反対を表明する。そんな動きを、抑えようとした、乱暴な動きは、あの宰相が、断行した改革だろう。ただ、あれに関しては、改革の為の改革であり、目的を示したものでもなく、何が変えられるかさえ、明確にならないままだった。その結果は、悪い方向へと動き、結局、何がどう変えられたかさえ、はっきりしないものとなった。この失敗は、改革派にとっては、悪材料として、立ちはだかることになる。反対を、押し切る形で、断行することは、多くのしこりを残し、その後の、修正も難しくなる。それが、失敗へと、繋がったと考え、それを避ける為には、反対を押さえ込むより、同意を得ることを、優先する動きとなった。だが、その結果は、ある意味、悲惨なものとなりつつある。改革は、どれもこれも、実行に移されず、停滞が、放置されてしまった。多くの場合、全員賛成の提案は、殆ど無く、そこには、ほんの一握りの、反対者が、頑なに主張を続け、それによって、全てが停滞した現実のみが、残ることとなる。反対者の主張に、耳を傾けることは、確かに、重要なのだが、だからと言って、賛成派の主張を、無視するような動きには、違和感を覚える。時には、駄々を捏ねる、子供染みた人々に、困り果てる。だとしたら、断行ではないにしても、どう対応するかを、考え直す必要がある。
30年以上前、海の向こうで、話題になった、自動車があった。車の性能だけでなく、購入した後の、整備を含む対応に、購入者の評価が、高いというものだった。欧州からの、高級車と並ぶ評価に、驚きが広がり、件の企業には、満足感が広がる、と伝えられた。
ところが、その直後から、評判は、急落を始めた。その理由は、定かではないが、一部の愛用者だけでなく、評判につられ、新たに購入した人々から、予想と違う、との反応が、出たのではないか。当時、さほど話題には、ならなかったものの、その後、評価が戻ることなく、四半世紀が経過したことを、見返してみると、たとえ、高い評価を、受けたとしても、その後に負った痛手を、回復することが、難しいことを、表しているように思う。今は、如何に、高い評価を、集めるかが、肝心との意見が、数多く見られるが、それが、予想外の展開を、招きかねないことを、考えに入れると、安易に、そんな動きに入ることは、警戒を要する、とも思える。そんな企業が、最近また、窮地に追い込まれている。人気の高まりから、再び、嘗ての栄光に、近づきつつある、との実感が、広がりつつある最中、完成品の検査に、不正が見つかり、企業全体に、問題が広がったのだ。ここでも、折角の評判は、信頼失墜に対して、何の役にも立たず、人気を誇った車の数々も、まるで、不良品かの如く、見做されるようになる。消費者の心情の、危うさに触れ、その扱いに、更なる注意を、との考えが、広がるかもしれないが、この所の、評判の動きに、一喜一憂する風潮は、簡単には、変わりそうにない。本質を見抜き、自分なりの評価を下す、という行為を、忘れた人々が、自分の考えに、戻ることは難しい。その上、身勝手な意見を、突き付ける為に、世論を味方にする風潮が、伸し掛かることで、問題は、更に複雑なものとなる。無責任な連中の攻撃に、無責任が暴かれた企業は、耐えられる筈もない。
メモを手に、滔々と語り続ける。人前での、発表の機会が、与えられるようになり、教育現場は、そんな光景が、当たり前となりつつある、と伝えられる。欧米に比べ、発表能力や、議論能力が、劣ると言われ、その獲得に、国を挙げて、躍起になっているのだろうか。
だが、はじめに取り上げた、光景には、大きな間違いがある。語るというより、読み上げるという形で、原稿を、間違わぬように、読み続けている。人前での発表を、失敗したくない、との思いが、あると言われるが、文字を目で追いながら、声に出す行為は、禁じられることが多い。幾つか理由があるが、最も大きいのは、速度と言われる。話す速度が、読み上げる形では、速くなるのだ。それにより、聞く側には、理解が追いつかない、という問題が、生じてしまう。もう一つの、大きな問題は、理解したり、覚えたりするのに、課せられる制限が、メモには、かけられない、という点だ。思いつく限りの内容を、全て伝えようとすれば、それも、許容範囲を、逸脱することが多い。それにより、聞き手の理解を、更に妨げることになる。言いたいことが、沢山あるから、と考えて、との言い訳には、伝える項目を、絞り込むのも、発表の重要な心得、と指摘する。他にも、メモを読む発表には、多くの問題が、指摘される。だからこそ、失敗を恐れず、十分な理解の上で、全力を尽くす必要がある。だが、現場では、正反対のことが、行われ続けている。舞台で演じられる、芝居の中で、台本を読み続けたら、観衆は、どう感じるのか。相手の立場を、考えられない人間に、発表の機会を、与えたとしても、無駄に違いない。伝達、という観点からも、聴衆の身になれない人には、発表の資格は、ないのではないか。教室で行われることは、演者と聴衆の、二つの立場を、演じられる。なのに、それぞれを、それぞれの立場でしか、考えられないようでは、お先真っ暗だろう。
悲観を煽る人々は、厳しく批判されるべき、と思う。だが、追い込まれた人を、更に追い詰めるやり方は、弱者保護に、反するものとの意見には、否と答えるべきだ。悲観と弱者を、同義と捉える人々は、状況を理解する力が、全く無いだけで、正義を装っているだけだろう。
では、悲観は、何処から来るのか。多くは、不安心理から、芽生えたものだが、根拠の無いものが多く、対応する必要は、無いと言える。にも拘わらず、手を差し伸べるふりをして、騒ぎを大きくする輩は、それを楽しみとする、だけなのではないか。彼らの罪は、非常に重いと思うが、その一方で、騒いでいるだけの、悲観論者も、同等か、それ以上の罪を犯している。特に、悲観を装い、悲劇の主人公の如く、演じる人々は、その実、根拠の無い楽観に、浸っているだけで、義務を果たさずとも、何でも手に入る、と信じている。彼らの芝居に、振り回される人々は、手を差し伸べ、正義や人道に沿った行動を、誇りに思うだろうが、ただ、騙されているだけだ。本来なら、義務を果たさぬことに対し、厳しく糾弾すべきを、赦すことで、自己満足に浸るだけで、社会に対しても、大きな罪を犯している。叱責が、難しい行為となり、皆が、汲々として、優しく対応すれば、世の中は、一瞬、明るくなったように見え、その後は、暗闇に、落ちていくことになる。身勝手な連中が、世に溢れれば、社会が、無秩序になるのも、当然のことだ。やるべきことを、やらない人間に、厳しく当たることは、必要なことであり、それを、社会として、認めることが、今は、一番重要なことに思える。非常識が、これ程に罷り通る時代は、戦時以外には、無かったろう。平和な安定した時代に、これが始まれば、混迷の時代に、突入することは、火を見るよりも明らかであり、何としてでも、食い止めねばならない。
情に流される。人の温かさや、慈しみを、感じさせるものだが、時に、判断を誤ることが、起きる。その結果、組織を窮地に陥れたり、個人や組織の損失を、生じさせる。今なら、高齢者が、騙される話が、一番分かり易い。親族の困り事に、支援の手を、と大金を騙し取られる。
そこには、子供や孫の相談に、親身に乗る、親心が現れている。しかし、実際には、子供でも孫でもなく、赤の他人が、演じただけの、詐欺芝居であり、なけなしの財産を、奪い取られただけだ。よくできた芝居、という話が、伝えられるが、普段から、画面のドラマに、心奪われて、それと同じことに、自分が巻き込まれただけ、とも思える。誰もが、騙されるとも、言われるが、実際には、多くの未遂には、殆ど目を向けず、ただ、事件となったものだけに、注目するから、信じさせられただけだろう。何故、騙されるのか。という点には、多種多様な事情が、あるのだろう。それを、分析したとしても、何の成果も得られない。そんな断じ方をすると、反論が、飛んできそうだが、こんな所でも、傾向と対策に、精を出すようでは、無駄としかならない。それより、芝居は芝居として、画面の向こうで、演じられるもの、と受け取り、現実の世界は、小説より奇なり、というより、自分なりの判断を、下すだけの能力を、身に付けておく、必要があるだろう。その為の共通手段とは、何か。ここでは、もう何度も、取り上げてきたから、またか、との声が、聞こえてきそうだが、その通り、論理的思考能力、それだけだろう。一つずつ、積み上げていき、崩れない論理を、どう築き上げるかが、何事にも、不可欠であり、自分の話にも、他人の話にも、その道筋を、当て嵌めて行きさえすれば、何も、心配することはない。道具さえ持てば、あとは、簡単なことだ。
世論が、楽観に流れる時、意図的に、反対の情報を、流す。その役割を、自任するのか、盛んに、悲観論を、展開するのは、報道に関わる人々だ。悲惨な結末に、終わった、大戦への関与を、自戒した結果、この傾向が、強まったと言われるが、それだけでは、ないようだ。
楽観を、戒める意味での、悲観論なら、この説明で、十分なのかもしれないが、今、世の中に、盛んに流される、悲観論の多くは、ただ、耳目を集める目的で、実しやかに語られるもので、目的が、全く異なっている。専門家にも、そんな輩が、沢山現れ、相互利益を、求める目的で、互いに、利用価値を、認めているようだ。だが、解釈に、主観が入ることは、歪曲へと繋がり、数値にしても、状況にしても、客観的な判断が、下されているとは、とても言えない状況にある。にも拘わらず、情報を、一手に引き受けている組織は、その操作に関しても、強い力を、発揮できる。それにより、世論は操作され、庶民が、振り回されることになる。この状況は、戦前戦中と、何ら変わらず、あの人々の心持ちには、全く変化が見られない。懲りない人々には、やはり、同じ心理が働く。それが、悲観の上に、悲観を築き、皆の心配を、膨らませる。その操作に、振り回される人々は、将来への不安を、募らせるのだが、どうしたものか。もう、手の施しようが、無いようにも見えるが、このまま放置しても、ろくなことは起きない。だとしたら、受ける側が、騙されないように、自身を変えるしか、方法が残っていない。たとえ、情報源を、変えたとしても、同じことしか、できない人々には、何も変化が起きない。自分が、変わるしかないことを、気付かせる為の手立ては、何だろうか。