パンチの独り言

(2月11日〜2月17日)
(反復練習、強さ、最強の存在、胸を張る、ご都合主義、陳腐な筋、役に立つ)



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2月17日(日)−役に立つ

 書いてあることを、覚えることは、時に、丸暗記と呼ばれ、忌み嫌われる能力、とされている。覚えていても、それを活用できず、ましてや、そこから、考えを広げる能力は、決して生まれない、と言われる。だが、目標到達には、まずは、その壁を越えねばならない。
 人生の始まりにおいて、多くの試練が、若者たちに課されるが、その殆どは、記憶の確かさを、試すものだ。これを、乗り越えるのに、丸暗記が、最も確実な方法であり、それを、嫌う理由は、一つも無い。だが、世間では、ただ覚えるだけでは、役に立たない、と断言する人が多い。この矛盾は、何処から来るのか。一つには、暗記力の競い合いに、勝ち残れるのは、ほんの一握りに過ぎず、それに敗れた人間には、目標達成さえ、覚束無くなる、という理由がある。そこで、人は、自分の苦手なものに、無駄の烙印を押し、打ち捨てようとするのだろう。ひねた心から、生まれ出た、情けない表現の、一つに違いない。だが、それが、正当であるかの如く、扱われるのには、別の理由がある。絶対の暗記力を、誇った人間が、社会では、役立たない場合が、数え切れぬ程に、あるからだ。暗記はできても、思考ができない人は、仕事には、使えないとか、折角の記憶も、正しく使えねば、ただの記憶装置に、過ぎないとか、無駄と片付けられる。特に、最近は、記憶だけなら、機械に頼った方が、遥かに確実であり、完璧でなく、中途半端なものでは、役立たないから、切り捨てられるのも、止む無しといった所か。本来なら、記憶に頼り、その情報を元に、判断を下すことが、要求される訳で、記憶が乏しいのも、役に立たない。だが、判断力こそが、不可欠であり、それ無くしては、宝の持ち腐れ、にしかならない。では、判断とは、何だろう。その疑問に、答えられないのでは、やはり、役立たずだ。見方を変え、視点を移す。そんなことさえ、できないのでは、無能と言われても、返す言葉もない。

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2月16日(土)−陳腐な筋

 三週間前、不正騒動の、違和感について、書いてみた。その後の展開は、流石に、指摘した人物に、矢を向けることは、起きなかったものの、別の問題が、次々に噴出し、終息の気配は、見えてこない。いつもながら、何故、こんな騒動に、なってしまうのか。
 この展開は、時に、小説より奇なり、などと評せられるが、現実には、低俗小説程度の、筋書きでしかなく、込み入った内容、などと呼べる代物では、決してない。にも拘わらず、これ程の騒ぎになるのは、下劣な筋さえ、読み切れぬ、愚かな人々ばかりが、発言しているからだ。三週間前の指摘でさえ、当時、触れられることなく、たとえ、それに、触れたとしても、穿った見方とか、あの人がそんなこと、などと、厳しい批判に、晒されるだけだったろう。それ程、問題の本質を、見抜く力もなく、惚けた人が、世には溢れている。逆に言えば、平和惚けが、世に蔓延っている訳だ。他愛もない話に、花を咲かせるだけで、真の悪人共は、のうのうと、私腹を肥やしている。金銭的なものであれば、犯罪として、厳しい罰に、処せられるだろうが、名声という形の、名誉であれば、詐欺行為と雖も、罰せられることは、少なくなる。だが、たとえ、名誉だけでも、都合のいい結果を、導き出したとすれば、その行為自体は、厳しく断じられるべきだ。恣意的、作為的、などなど、どんな言葉を、尽くしたとしても、所詮、表面的なものに過ぎず、あの連中の犯した罪を、断じることには、ならない。直接、手を下した役人共が、唾棄すべき存在であることは、明白だが、それに、圧力をかけ、その罪を、自ら犯させるような、事態に追い込んだ連中は、極めて重い罪を、犯している。これを、忖度などという、一言で、片付けては、卑劣な行為は、決して無くならない。だが、筋を読むことさえ、できぬのでは、また、同じことが、繰り返されるだけだろう。

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2月15日(金)−ご都合主義

 学問の世界では、確立したものと、そうでないものを、区別しようとする。例えば、進化論は、確立されたものではなく、単なる、学説の一つ、と見做される訳だ。一方、数学や物理学は、確固とした体系が築かれ、その中に、更に細かな学問が、鏤められる。
 学問体系として、認められず、未だに、発展途上にあり、確立されていないのは、様々な事情によるのだが、例えば、進化論は、その流れの中で、これまでに辿った道筋が、唯一無二のものか、あるいは、単なる偶然によるものか、定かとはならず、恐らく、学問となるのは、難しいと考えられている。進化の過程を、実験で確かめることが、難しいのも、要因の一つだろう。一方、数学の一分野として、近年、著しい進歩があると、注目されているのは、確率論だろう。これも、学問体系に、組み込まれていないが、その理由の一つに、試さねば、確かめられない、不確定のもの、という考えがある。ある意味、当然のことだが、確率とは、可能性を示すだけで、確定できないものだ。だからこそ、そこに、面白さがある、という考えが、主流となるが、数学分野では、それでは、端から、体系化できないことになる。恐らく、進化論と同様、論に留まるのだろう。一方で、同じ数学の中で、台頭が著しいと見られる中に、統計学がある。こちらは、いつの間にか、学を授けられ、確立したものと、見做されている。だが、解析的に、適用することから、学問体系と、見做されているだけで、その手法を利用して、解釈を施すことに関しては、その範疇に、入れられていない。単に、手法として、数学的に正しいと、評価されているだけで、その結果から、持論を展開する点には、数学は、一切関与しない。ここに、大きな問題がある。世の中は、持論を、正当化する為に、この手法を用い、都合のいい解釈を、施す傾向がある。どの手法を使えば、都合が良くなるか、については、個人の判断に委ねられ、学問とは、無縁の世界に、入り込む。あの不正も、そんな背景から、生まれた、操作の一つなのだ。

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2月14日(木)−胸を張る

 毎日のように、毅然とした態度を、貫くようなことを、書き続けているが、ここだけのものでは、ない。日常でも、同じような態度を、示していると、周囲から、どんな目で、見られるのか、ここに、実例がある。弱さが、最強の道具、となる時代には、逆効果となる。
 何かを、主張する度に、相手から漏れるのは、正論だが、という溜息交じりの、揶揄なのだ。ここにも、現代社会が、抱える大きな問題が、あるのだ。正しい意見は、周囲に、悪影響を、及ぼすと言われる。誰もが、納得していても、論を曲げて、同意を得ることこそ、議論の意義が、出てくると、考えられているのだ。だが、こんな現場で、実際に行われているのは、主張もせず、間違った提案さえ、無難を求めて、そのまま通させる、御飾りに過ぎない、会議となる。これが、日常化し、社会全体に広がった結果、最近話題となる、問題が、生じていることに、無難を求める人々は、どんな責任を、感じるのか。ほぼ確実に、彼らは、何の責任も、感じていない。何故なら、会議の場での、自らの役割に、思いを馳せたことさえ、無いからだ。根底にあるのは、無責任であり、それを、暴かれぬように、粛々と、議論を進めるふりをして、提案を、通過させている。そこで、問題点を、指摘すれば、議論が長引き、時に、結論に至らず、延長を余儀なくする。それこそが、全体への迷惑、と受け取られており、ただ、設定された時間が、過ぎることを、考えている。根底には、無難だけがあり、無責任が、横たわる。これが、常態化することで、何が起きたのか。今の状況は、氷山の一角でしかない。弱さを、前面に押し出し、耐えきれなかったとか、恐れを抱いたとか、悲鳴のように、訴えさえすれば、許される。大事に至らねば、それでも、問題なしとなる。それが、表面化した途端に、怒りをぶつける人々が、集結したように見えるが、実際には、彼らも、所詮同じ穴の狢である。毅然とした態度を、貫く為に、必要なものを、持たないからだ。

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2月13日(水)−最強の存在

 今、最強の存在は、弱者なのではないか。何度も、何度も、そんなことを、書き続けてきたが、世の中の人々は、全く気付く気配がない。だが、身の回りを、眺めるだけで、実例が、転がっていることに、簡単に気付ける。では、何故、それに気付かぬふりを、続けるのか。
 それは、彼らの存在を、指摘して、それが、過剰な要求や、誤った状況にまで、言及した途端に、世間から、総攻撃を受ける、からではないか。典型の一つは、女性が、被害者になった時、その状況を、招いたのは、自身ではないか、との指摘だろう。自分の身を、守る為の手立てには、危うきに、近寄らぬこと、と言われる。それは、当然のことだが、被害者に向けては、禁句の一つとなる。弱者は、保護の対象であり、腫れ物に、触れるように、扱うべき、と言われるからだ。だが、被害に遭う前は、そんな警句を、与えていただろう。それが、瞬間的に、ひっくり返る。子供が、自殺すると、途端に、周囲の問題が、取り上げられる。学校で、如何なる暴力が、行われたかが、次々と、暴露され、それが、直接の原因、と追及される。問題が、そこにあったことは、事実だろう。だが、一線を越えた理由は、それだけか。逆の見方をすると、別の様相が、見えてくる。越えそうな気配が、感じられた時、周囲が、それに気付かないとか、見過ごしたとか、そんなことがあり、結果として、事件が起きたと見れば、それを、身近でできる存在は、親をはじめとする、家族だろう。彼らは、被害者の家族として、学校などの存在の責任を、厳しく追及する。指摘したのに、訴えたのに、苦情を出したのに、と並べることで、自分の責任を、果たしたと言うのだろうが、それだけだろうか。その朝、何事もなく、学校に送り出し、事件が起きたことに、何の責任もないのか。死者を冒涜するのではない。生き残った人々には、それぞれに、責任があるのだ。それを、一方的に、糾弾するのは、やはり、おかしい。その結果、弱者が最強となるのだ。

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2月12日(火)−強さ

 弱さを、強みとする。弱点を、克服するのではなく、それ以外の面を、如何に伸ばすか、が肝心と見做し、指導の道筋を、考えようとする。そんな動きが、指導面での、新しい考え方として、世の中に、浸透した時期があった。まさか、こんな展開に、なるとは思わず。
 この所、何処も彼処も、という状況で、盛んに報じられるのは、ある少女の虐待、の問題である。だが、これも、例に漏れず、懲りない連中の、的外れの指摘ばかりで、辟易とさせられる。何故、これ程までに、思慮のない意見ばかりが、掲げられるのか。また、犯人探しのように、落ち度のあった人を、引っ張り出すのか。こんなことを、繰り返しても、解決の手立ては、見出せる筈もない。個別の例において、誰が、どんな失態を、犯したのかを、指摘したとして、同じことが、繰り返される保証は、何処にもない。何故、その失態が、起きたのか、を解明しない限り、解決策など、影さえも、見つからないだろう。ここまでの、大騒ぎを眺めて、感じたことが、一つある。と言っても、これまで、繰り返し書いてきたことと、何も変わらないのだ。弱者保護、という風潮が、根っこにあり、弱者となることが、唯一の逃げ道、のように振る舞う。弱さを、強みとする、という考えとは、似ても似つかぬものだが、浅はかな人々には、同じに映る。強硬な姿勢に、耐え切れなかったとか、脅されて、恐怖を感じた為とか、言い訳が、並べられるが、そこに、ある共通点が、見出せる。それは、「弱い」ということだ。強大な権力に、虐げられた民衆、という図式が、嘗てあったことは、確かだが、ここで、弱者を演じるのは、権力の側であり、本来の役柄と、正反対の図式となる。だが、弱さが、同情へと繋がる風潮で、この演じ方は、最善の策、と見做される。愚かな連中の、情けない姿に、厳しい言葉が、浴びせられるが、実は、的を外している。毅然とした態度を、貫くことの重要性を、尊ばない風潮が、根っこにあることに、気付いていない。そんな態度を見せたら、傲慢などと批判する一方で、こんな事件では、逆上するのでは、解決は、遠去かるだけだ。

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2月11日(月)−反復練習

 人材育成、などといった、大層なことではない。日々の勉強に、関する話題なのだが、おかしい、としか思えない。昔から、赤ペン先生、などと呼ばれた、添削による、通信教育を、行ってきた企業が、最近の教育方式を、披露する広告に、そう感じたのだ。
 昔は、手紙の遣り取りで、先生と生徒の、関係が結ばれていた。逆に言えば、片道二日か三日、時間をかけ、更に、そこに、添削の手間がかかるから、月に二、三度の遣り取り、だったようだ。それが、情報社会の発展から、通信手段が、大きく変貌し、今では、普段、学校の教室で、行われているのと、同じやり方でさえ、可能となっている。つまり、学校や塾での、直接指導と同様に、その場で、遣り取りができる訳だ。となれば、その利点を、活かさねば、となる。だが、どう活かすのか。その場での指導では、間違いを指摘し、正しい方法を、伝授できる。まさに、添削と同じことを、即時に、行うことが、できる訳だ。ところが、それでは、添削と変わらず、利点を、活かしたことに、なっていない、とでも言いたいのか。広告では、違うことを、特徴として、主張していた。それは、正しい方法を、伝授するだけでなく、それを、すぐに、実践するというものだった。つまり、間違えた問題を、すぐに、やり直すことで、克服させる、ということだ。これを、成る程、と思うのは、多分、ある年齢より、下の世代だろう。最近は、このやり方が、常識のように扱われ、同じ問題集を、何度解いたか、を自慢げに、発信する受験生も、居るらしい。実は、これが、確実な方法として、使われ始めたのは、受験を控えた学校らしく、塾でも、同じことが、行われている。反復練習を、受験問題に、実践するとは、何事、と思うのは、上の世代のようだ。これが、傾向と対策の典型であり、合格への近道、と言われる。何がおかしいか、気付かぬ人には、人材育成は、無理だろう。

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