弱者こそが、最強の存在。こんなことを、書き続けても、世の中は、変わろうともしない。無駄の一言で、片付けられてしまうが、誰かが、しつこく、書き続けなければ、愚かな人々は、無駄なことを、やり続けるだけだ。時に、人間性の表れ、と誤解するだけで。
では、対抗措置は、あるのだろうか。これについても、何度も書いてきたが、論理という武器を、手にするしか、方法はない。優劣は、何処にでも、確かにあり、厳然とした差が、存在する。だが、優れたものと、劣ったものを、区別している原因は、論理的に、説明可能なのだ。富裕層と、貧困層に、ある違いについて、それを、無くすことばかりに、目を奪われるが、何故、その違いが生じるかに、目を向けなければ、根本の問題は、解決へと向かわない。表面的な違いを、無くす努力を、無駄の一言で、片付けようとすると、猛反発が、返ってくる。だが、ほんの一時、解決したように、見せることで、根本の違いを、解消しなければ、早晩、元の状態に、戻るだけのことだ。機会を与え、貧困からの脱出を、目指させようとする動きには、努力ないままに、与えられたもので、満足する心が、残るだけという事実に、目を向けようとせずに、献身に、心を奪われるだけの、非論理的な考えが、満ち溢れている。困っている人に、とか、貧しい人に、とか、そんな掛け声が、高まれば高まる程、肝心の中身と、成果については、目が向かなくなる。施すことに、心奪われ、与えることに、満足する。そんな人には、解決は、手に入らない。それどころか、いつまでも残る、問題があればこそ、自らの慈善に、意味を持たせられる。弱者が、居てこその、意味ある行為、となるのだ。実際には、弱者を作り続けることこそが、自分達の慈善を、正当化できる、唯一の手段に違いない。
困っている人を、助けたい、と言う人に、止めておけ、と言う人は居ない。お互い様、とか、人助けは、人間性の表れ、とか、そんなことも、よく聞くけれど、それだけでなく、助けられるのなら、何とかしてやりたい、と思う人が、世の中には、一杯居るのだ。
だが、その前に、と思うことも、多くある。旅先で、病気になった時、自覚症状さえ、表現できずに、困った人が、居る。そこで、保険で、翻訳者を手配する、という仕組みがあるようだ。確かに、日常会話程度なら、何とかなるが、痛みや不快感など、その場所も含めて、伝えようとすると、容易ではない。それを、正確に通訳してくれる人が、来てくれたら、それ程に有難いことはない。そんな事例が、沢山あるのに、気付いた保険会社が、その手配ができる仕組みを、導入した訳だ。では、外国で働く場合は、どうだろうか。旅行保険は、使えないから、困った時も、自分で解決するしかない。そんな経験をした人なら、どれ程の苦労でも、自力解決が、基本となることは、当然理解している。だが、困っている人を、放っておけない、と思う人にとっては、そんな場合でさえ、手を差し伸べたくなる。特に、医療の現場では、大きな問題がある、と伝えられ、中でも、翻訳者の不足が、深刻だと伝えられる。保険にも入らず、旅先で、発病した時に、助けを求めた、という話までは、それでも、ギリギリ理解できなくもない。だが、働く為に訪れた国で、病気になった時に、意思疎通で困った、という外国人を、助けるためのボランティア、となると、流石に、理解に苦しむ。困っている時は、お互い様、との意見もあるが、別の見方では、困った時も、自力解決を目指す、という生き方もある。何故、何もかも、整えてやろうと思うのか。その思いを、理解することはできない。だが、これを、社会問題として、捉える姿勢には、理解できないどころか、嫌悪感さえ覚える。
視野を広げることや、多面的に捉えることの、重要性が、これ程に取り上げられるのは、近年に無かった傾向だろう。ただ、理由は、簡単なことだ。世間全般に、その能力を有しない人々が、溢れていることで、様々な障害が、顕在化してきたからで、慌てているのだ。
だが、突然、指摘を始めたとしても、簡単には、変わらない。その理由も、簡単なことだ。全般に、能力を失ったことで、どう取り戻すべきか、方策さえ、見つけられないからだ。無能な連中が、問題を指摘しても、無い物ねだりにしか、ならない。本来、背中を見せることで、次代を継ぐ人々に、能力獲得の為に、必要となる端緒を、伝えてきたが、肝心の背中が、指針さえ示せない。この状況では、解決の糸口さえ、見いだせないのが、当然のことだ。では、指南書は、どこにもないのか。多分、これまで、いい加減な対応しか、してこなかったことの、ツケが回ってきた、とでも言うのだろう。改めて、文字を起こそうとしても、皆が失ってしまったことで、何も思いつかないのだ。少し過去に戻り、高度成長を続けていた当時の、やり方を、思い起こせば、断片を掴むことが、できるだろう。だが、それを、束ねて、全体として、役に立つ形にする為には、広い視野と多面性が、必要不可欠となる。だが、そこには、何も存在せず、空っぽでしかない。これでは、埒があかないのも、無理はない。この所、何度も話題にしている、統計の問題も、そこで不正を、押し通した背景も、更には、悪書と断じた、除染に関する問題も、どれもこれも、狭い視野で、私利私欲に駆られた、無能な人々によって、作り出された、混乱に過ぎない。本来なら、傍目八目として、冷静な判断と、的確な指摘を、できる筈の人間さえ、感情に流され、寄り添うことを優先し、渦中に入り込むようでは、無駄な存在にしかならない。
直感というより、単純に、勘に過ぎなかっただろう。だが、その後、次々に噴出する、不正の跡形から、徐々に、件の人物の関与が、見え始めた。世論は、歴代の担当大臣の責任を、最大の要因、と見做しているが、劣悪な報道に、教唆されただけなのだろう。
それに次いで、責任を問われたのは、あの役所の役人、となっていたが、その頂点に、当時君臨していたのは、冤罪からの復帰の末に、そこまで上り詰めた、件の人物、その人だった。官邸の関与、について、今更、議論の余地はない、とのことだが、たとえ、その圧力が、強大なものだったとしても、他省庁が、それに、従わねばならない、という訳でもなかろう。もし、そうなら、全てを、官邸が決め、その方針を、役所は、粛々と進めるだけでいい。となれば、大臣どころか、事務次官という、役人の頂点という存在も、無用のものとなる。どんなに、世間の注目が集まったとしても、不正を進めたと、疑われる時期の、最高責任者の責任が、問われずに済む訳ではない。逆に、あれ程の注目があったからこそ、その裏での不正が、露呈せずに済んだ、だけなのかもしれない。もっと、穿った見方をすれば、その為の任用、だった訳で、人気取りだけでなく、自らの政策を、正当化する為の、布石に過ぎなかった、と見えなくもない。以前、その著書から、責任に対する考えだけでなく、守秘義務などの問題さえ、考えられた、別の省の、元事務次官の、非常識さに、呆れた話を書いたが、この人物も、報道が絶賛した程の、人格者ではなかった、ということだ。まだ、官邸の関与と、統計不正の始まりが、疑われる時期と、件の人物の在任期間との、偶然の一致に、話が及ぶ気配は見えず、おそらく、そんな所に、目を向ける人も、殆ど出てこないだろう。だが、偶然と雖も、重なりは事実であり、そこに、答えを求めるべき、という考えがあってもいいのだ。
活字離れ、が言われて久しいが、現状は、少し違っているようだ。皆が、手にして、覗き込むのは、端末であり、そこに表示されるのは、画像だけでなく、文字なのだ。情報伝達に、媒体が必要なのは、ヒトという生き物が、手に入れた、最大の成果であり、武器なのだ。
だからこそ、活字から離れる現象は、まるで、遥か昔の、原始の生活に、戻ることに繋がる。言語として、利用することは、活字にせずとも、音声で、可能となる。だが、それを、記録に残すには、活字が、最も簡便で、時間の節約にも、繋がる。それを、捨てることは、何の意味もないが、端末に比べると、印刷されたものへの、依存度は、激減したと言われる。確かに、便利な道具が、登場したことにより、その傾向は、強まるばかりだが、離れ始めたのは、それ以前のことだった。だとすれば、手に取ること自体に、魅力が感じられず、価値が無くなったことを、原因の一つ、と見る必要がある。それでも、依然として、出版業は、重要な仕事の一つ、と数えられている。斜陽、と言われても、何とか、生業として、成り立っているのは、まだ、魅力が残っているからだろうか。毎月、読んだ本として、紹介する立場から言えば、楽しみがあることは、確かだと思える。ただし、その中には、悪書、としか言いようのない、劣悪な内容も、珍しくない。いつもなら、どんなに嫌悪を覚えても、最後まで、読み進めるが、これ程までに、無知が極まり、邪悪とも思える内容に、流石に、手を離さざるを得なかった。重大事故後に、国を挙げて、取り組んだ事業の一つである、除染について、社会問題として、論じた内容だが、問題の本質を、捉えることなく、瑣末な問題ばかりを、大袈裟に取り上げるのは、出版界の問題ではなく、報道の問題であり、弱者に寄り添う姿勢は、ここでも、問題のすり替えに、使われた。あまりに酷い内容に、拒否反応が、出てしまう程だった。その意味で、邪悪と言うべきだろう。
隠蔽体質への批判が、強まり続けている。だが、表面的なことだけで、本質を捉えることなく、根絶は、不可能とも思える。対策と称して、様々な制限を、導入しているが、鼬ごっこの感は、否めない。バレないように、という考えには、悪知恵が、尽きることは無い。
では、最も大きな原因は、何だろうか。関わる人間こそが、最大の要因に違いない。隠蔽には、それに関与する人間が、必ず存在しており、彼らを、罰したり、退けたとしても、次々に、跡を継ぐ者が、現れ続ける。では、全ての関係者が、隠蔽に加担するかといえば、そうではない。飽くまでも、毅然とした態度を貫き、隠蔽に加担するどころか、それを妨げようと、努力する人の数も、無視できない。だが、組織の都合、と称して、彼らの排除や、彼らへの圧力が、断行され、まともな人々は、肝心な仕事から、外されてしまう。要するに、中枢に居座る、権力者達が、都合よく進める為、として、悪いものを隠し、改竄さえ行う訳だ。それに加担する人々は、覚え目出度く、昇進の道を、邁進できる機会を、与えられて、褒美を手にすることができる。しかし、不正の代償は、その場ではなく、一足遅れて、届けられる。折角手に入れた、地位さえも、奪われることになり、社会的にも、抹殺されてしまう。自業自得なのだから、同情の余地は、全く無いのだが、問題は、不正の最中に、放追された人々に、光が当てられないことだろう。正しいと、信じたことを、貫くことで、権力側から、冷遇された挙句、誰からも、顧みられることなく、舞台を去った人々は、あらゆる機会を、失うこととなる。不遇に陥らぬ為に、隠蔽に加担するという考えが、世の中に罷り通るのは、こんな事情なのではないか。周囲との関係が、何よりも重視される時代に、果たして、全てを失ってでも、正論を貫けるか。実は、難しくはないのだが。
情報が、物を言う時代、と言われてから、随分と時間が経過した。その後の展開は、様々なのだが、特に目立つのは、嘘の情報に、振り回される人の数が、増えたことだろう。以前から、騙される人は、それなりに居たが、それが、更に増えたのは、情報が肝心、という言葉のせいか。
他人の知らないことを、手に入れることで、出し抜こうとするのは、こういう時代を、生き抜く為の手段、と一部では信じられている。だが、知られていないことの多くは、実は、不確かなことに過ぎず、それに乗せられて、騙されることに、繋がるのも当然だ。その中で、この傾向を、更に強める動きが、急激に高まっている。大量の情報を、掻き集めようとする動きが、現実的となり、一部の情報技術に関わる企業は、それを、自らの利点として、活用しようとする。その勢いが、強まるにつれ、何やら、不穏な動きも、始まっており、不安を煽る輩が、暗躍するのも、当然のことと思える。だが、単に情報を集めても、それを、俯瞰的に捉える手法が、整わなければ、宝の持ち腐れに、過ぎないこととなる。ただ眺めるだけで、本質が見抜けるのは、情報量が、少なかった時代には、可能だったろうが、今や、そんなことが、通用しない程に、膨大な量の情報が、収集されている。だからこそ、統計手法が、絶対的に必要不可欠な、ものとなるのだが、今のこの国の状況は、全く、惨憺たるものだろう。国の行うことでさえ、恣意的な操作が、疑われるのでは、統計に対する信頼は、地に墜ちてしまう。本来、統計は、その為に発展したものであり、中立的な立場では、使いこなせぬものなのだ。それを、恰も、万能の道具のように、掲げる姿勢にこそ、問題の根幹がある。馬鹿げた動きを、冷静に見直し、そこに潜む危険性を、十分に理解してこそ、統計を、使いこなせるようになる。だが、今のままでは、何時のことやら、先行きは、真っ暗だ。