盗作や剽窃など、他人の作品を、真似ることは、厳しく禁じられている。努力せずに、他人のものを、自分のものとする行為に、強い批判が浴びせられ、時に、職を失うこともある。どちらも、盗みであり、犯罪として、厳罰に処す必要が、あると言われるのだ。
文筆業や芸術家など、独自の作品を、作り出すことを、生業とする人々にとり、独自どころか、模倣品を、世に送り出すことは、どんな事情があるにせよ、禁忌な行為であると言われる。だからこそ、そんな行為を犯した人間は、業界だけでなく、社会全体から、吊し上げられる。間違いを犯せば、その代償を、という考えでは、当然のことだろう。だが、一方で、人間の成長過程を、考えてみると、そこで、模倣や真似を、繰り返したことが、見えてくる。幼少期の、言葉の獲得には、鸚鵡返しのような、模倣の繰り返しがあり、新たに覚えた言葉を、場面を変えて使うことで、正しい用法を、身に付けていく。行動においても、同じような模倣が、重要な要素として、採り入れられている。運動能力や競技技術では、獲得の為に、特に重要と考えられる。成長過程では、こんな形で、模倣や真似が、教え教わる為の、必要不可欠な手段と、見做されているのだ。だが、社会では、模倣や真似を、禁じる動きが強まり、それが、成長過程にある、若者にも、影響を及ぼしている。独自性を、尊重する動きは、正しい使い方を、教える前に、他人と異なるものを、褒め称える。最近は、そんな環境で、育った人間が、社会に出ているが、どうも、様子がおかしい。新しいことを、覚える段階でも、教えられたことと、違うことばかり行い、いつまでも、習得できない状況が続く。生き物として、本来身に付けているはずの、真似する力を、失った人が、現れているのだ。独自性は、確かに大事なことだが、模倣の上でなければ、無意味となることもある。
何事にも、努力を重ね、困難を打開する。こんな人は、他人から尊敬される存在となるが、少々、問題を抱えることになる。自分で、課題を設定し、それを克服しようと、努力する人にとって、そうでない人は、心配に思える。だから、手を差し伸べるが、どうも上手くいかない。
努力が当たり前、という人物にとって、そうでない人は、どうして、としか思えない存在だろう。だが、楽をしたいとか、現実逃避をする、という程ではなくとも、何となく、漫然と、日々を過ごす人間には、努力の意味が分からず、更に、課題を見つけることは、何処か別の世界の話、に思えるようだ。こんな具合で、ぼんやりしている人に、努力家から、与えられるのは、目標とすべき課題となる。確かに、目指すべき所が、見えるようになることで、進むべき方向も、定かとなるから、一見、楽に努力ができる、と思えるかもしれない。だが、現実は、そんなに甘くはない。少しずつ、積み重ねようと、自分なりの努力を、始めたものの、一つも解決せず、時に、近づくようにさえ、見えてこないのでは、意欲は、急激に減退する。それなら、無駄な努力より、別の道を、と思うのも、無理もない。だが、そうしては、現実逃避を、続けるだけで、何も達成できない。ということで、世は、達成感の為と称して、簡単な課題を、与えるようだが、実は、何の解決にもならない。何故なら、簡単なことはできても、肝心の現実の課題は、少し複雑であり、お手上げの状態に、なってしまうのだ。簡単なのは、やはり、努力なしでできるので、結局、それを取り入れるようにはならない。結局、こういう人を、育てるのは、難しい、ということになる。だが、それでは、何も解決しない。では、何をしたら、いいのか。一つには、課題の難易度は、そのままにしても、時間に余裕を持たせることが、あるだろう。達成できない人の多くは、実は、時間切れとなる。それなら、周囲が、我慢強く待つことで、解決するかもしれない。
嘘吐きと嘘吐きの会談に、期待感が高まる一方で、懸念も広がる図式は、何ともおかしな状況を、如実に表していた。結論は、期待も懸念も、どちらも、吹き飛ばすこととなり、嘘から始まった話では、当然の結果とも思える。だが、そこには、別の思惑もあったのでは。
嘘吐きの国家は、早速、自らの主張を表明し、いつも通りの、責任転嫁に、躍起となっている。ここで、罵り合いに、転じれば、これまでの努力が、水の泡となる、と思えば、相手の思う壺だろう。何が真実で、何処に嘘があるのか、冷静を保ちつつ、明確に示せば、交渉上手などと、過大な評価を受ける国の、恥を晒すこととなる。但し、喧嘩腰の必要は、全くない。それだけの価値は、あの国には、無いのだから。一方、国家ではなく、個人としての嘘吐きについては、今回の会談自体、突然の思い付き、としか思えないが、実際には、同じ時期に、本国で行われた、元顧問弁護士による、議会証言を、標的としたものだった、のではないか。裏切りにより、責任を負わされた側からは、当然、しっぺ返しが、戻ってくるのだが、脛に傷持つ嘘吐きには、法律的にも、厳しい指摘がある、との予想が立っていただろう。それをも、上回る成果を、上げさえすれば、支持率の回復が、見込めるとの思惑が、あったに違いない。だが、所詮、幼子にも似た、身勝手な言動を、続ける国家を、相手にした交渉では、成果なぞ、見込める筈もなかった。交渉の席を、中座した気分は、まさに、最悪のものだったろうし、その際に、本国から伝えられた、証言内容も、予想通りに、最悪のものだったろう。まるで、舞台での芝居の如く、光を浴びれば、それで十分との目算は、見事に外れた訳だが、手柄欲しさに、過ちを犯すよりは、ずっとましな結末となった。たった一人、あの嘘吐きを、除いては。
申告期間も、ほぼ半ばに、達しようとしている。国を挙げての騒動だが、多くの給与所得者には、無縁の催しだ。海の向こうでは、職場での調整はなく、全家庭が、挙って申告する仕組みが、取り入れられている。いたって単純な、方式であり、面倒を感じる人も少ない。
それに比べ、こちら側では、自営業など、自らが収支を申告すべき人々は、勿論のこと、給与所得者でも、申告が必要となる場合がある。最近は、副業の勧め、のような動きが、急となっているが、彼らも、その対象となる。調整を、義務付けられるのは、各人一つの事業所とされ、そこでの申告により、副業さえなければ、全てが完結することとなる。だが、副業での収入があれば、それを申告しなければ、ならないとされる。その原因は、全体の収入を、把握することが困難で、片方からは、通常の所得税や住民税が、徴収できるのに対し、その他からは、源泉と呼ばれる、基本的な徴収のみで、正しい税率が、適用できないからだ。当事者が、それをそのまま申告すると、正規の税率が適用され、新たな税金を、納めなければならなくなる。ただ、雑収入と呼ばれる、給与とは異なるものでは、必要経費が認められ、その申告により、節税できる場合が多い。そこで、様々な形で、領収書をかき集め、経費として、申告する。ただ、この仕組みは、日々の努力が、要求されることになる。何故なら、通常の給与所得に対しては、経費が算入されており、新たに組み込むことが、難しいのだ。だから、普通には、保険料や住宅ローンなどを除き、殆ど全てが、経費とは見做せず、逆に言えば、努力をする必要も、無くなっている。では、海の向こうではどうか。確かに、記録は必要だが、通常の給与にも、別建ての経費を申告でき、税金の還付が、できるのだ。それこそが、全員からの申告を、可能とする仕掛けだろう。戻ってくると思えば、せっせと申告する。基本となる考えに、大きな違いがあるようだ。
民主主義に対する考え方に、近年、大きな変化があった、と言われる。寄り添う、などという言葉の使い方も、以前ならば、距離を置く中でのものだったが、今は、まさに、側に居るという意味が、込められている。その結果、人気は高まったが、失われたものも多い。
特に、大きな変化があったのは、客観的な視点が、失われたことだろう。寄り添うことで、その輪の中に入り、我が事として、取り組む姿勢が出れば、仲間という意味も込め、人々の関心は高まる。だが、当事者となれば、仲間にだけ、通じる考えを、優先することになり、外からの視線は、完全に失われる。仲間にして貰い、人気が集まれば、あらゆることに、有利に働く、という訳だが、それによって、問題の捉え方も、渦中の人々と、同じことになる。それが、最重要課題となるが、問題の分析において、片方の見方だけとなり、全体を見渡すことも、自ら捨てることになる。人気だけで、事が済むのなら、それでも良かったろうが、政には、それだけでは、不十分となるのだ。支持者だけに、寄り添う形は、国を支える為には、歪んだ形となり、一部に便益を図ることとなり、全体としては、不満が高まることになる。選ばれる方も、選ぶ方も、このことに気付く気配もなく、極端な状況は、強まり続けている。全体として、不十分でも、自分達にとって、良い形であれば、それで良い、ということなのだが、全体の均衡を考慮せずに、一部の利益を求めれば、国としての秩序は、大きく乱される。最近の隣国達の動きも、海の向こうの大国の動きも、そんな傾向が、高まりつつあり、歪みが蓄積することで、取り返しのつかない事態を、招く恐れも、高まっている。客観性も大きな課題だが、俯瞰的な見方を、失ってしまうことこそが、大問題となり兼ねない。誰も、気付かないのだろうか。
寄り添ってこなかった、という発言には、どんな意味が、込められているのか。現状は、自分達のことではなく、他の国に対して、補償を求める、という形でしか、現れておらず、自らのことを、示しているとは、とても言えない状況だ。そこに、この発言では、意味深となるのでは。
戦時中の、強制的な動きは、当事者が、責任を負うべき、との姿勢を、築き始めているように、見えるけれど、こちら側は、全く異なる見解を示す。戦後、それを含め、国を対象とする補償により、全てを片付ける、という取り決めの、ことを指している。この国も、もう一つの隣国も、歴史のことを、引き合いに出すのが、得意なのだが、より近い所に起きた、取り決めに、目を向けようとはしない。遠い昔の話も、近い所の話も、どちらも、不都合が目立つから、別の理由を持ち出し、不採用とする訳だ。だが、国と国との約束、という意味では、近かろうが、遠かろうが、また、国が変わったり、政権が変わったり、したとしても、勝手に反故には、できないものだ。これが成立しなければ、国同士の秩序は、保てなくなる。これ程明らかでも、あの妄言の主達は、主張を強め続け、愚民達の応援を得て、国際的な不条理を、押し通そうとする。付き合うべきか、無視すべきか。罵り合いを始めれば、また、国の間の紛争へと繋がり、引き返すことのできない所まで、突き進まざるを得なくなる。それを良しとする人間は、おそらく居ないだろう。だが、今の勢いは、それ程の先見性を、持ち合わせぬ能無しが、担いでいるものだ。だとすれば、冷たく見守るのが、得策だろう。寄り添うという言葉を、どんな意味で、使ったのか。まさか、貪る人々の、後押しという意味では、あるまい。自国内の騒動を、外に導こうとする動きでも、ないと考えたい。そうでなければ、あの小国は、恥を晒すことになり、多くの国から、見放されるのだから。
隣国の要人達が、勝手な事を、叫んでいる。こちらから見れば、相手の言葉を、そのまま投げ返すべき、とも思える程だが、その価値を、認める必要は、全くない。この国の、自信を無くした人々は、こんな妄言にも、過剰な反応を示すが、無意味なことは、やめるべきだ。
それぞれの国の政を、担う世代は、その殆どが、あの戦争を、記憶ではなく、記録でしか、知り得ない人となった。その意味では、批判にせよ、反省にせよ、経験からではなく、伝聞のみに、頼ることとなる。となれば、先の大戦に限らず、もっと前から、様々な関係を、引き合いに出して、自らの論理を、補強することが、可能となる。その中には、根も葉もないものが、あるだろうが、書物として残された内容として、大手を振って展開できる。そこには、例の如く、論理より、感情が優先され、事実より、伝聞が優先される。人の口にのぼる話は、真実として、信じられたこと、ということから、いつの間にか、事実とすり替えられる。感情に訴える内容であれば、それが、いとも容易く、世論へと転換される。人気商売の人々は、まさに、ここに便乗しなければ、凋落の憂き目に、見舞われてしまう。となれば、それが、事実だろうが、なかろうが、世論の勢いに乗せて、言を強める必要がある。こんな背景しかない、何とも危うい言動だが、当人は、自らの価値を、この機に高めようと、目論んでいるのだ。こんな妄言に、怒りを覚える人も、当然居るに違いない。しかし、反論は、件の人物達に、届くことはなく、話題性の高まりは、彼らの思惑に、有利に働くだけだろう。我慢ではなく、静観することが、実は、効果的になるのだろう。あの国達の、愚かな人々による、世論には、確かに、何の効力も示さず、調子を上げるだけだろうが、世界全体を見渡せば、冷たい視線が、送られ続けている状況に、変化が生じる訳でもない。これまでの歴史を、冷静に見返せば、どちらが正しいかは、明白なのだから。