不幸な人を見たら、手を差し伸べたくなる。ごく自然な気持ち、なのだが、最近、どうも、様子がおかしい。不幸な人を、救う為には、本人の希望を、叶えることが、第一との考えに、何も間違いは、ない筈なのだが、そこに、大きな間違いが、起き始めているのだろう。
その原因は何か。まず、思い当たるのは、希望、願い、要求、等々の、本人の口から出る、事柄の数々だろう。確かに、困っているのだから、その障害を取り除くことが、最優先となる。だが、今はこれ、次はあれ、その次は、といった具合に、次々に出てくるものを、叶えようとするだけで、周囲には、大きな負担となる。時には、一つ叶えたら、また一つ、それが済めば、また、といった具合に、いつ果てるともなく続く、願いの数々に、手を差し伸べたとはいえ、辟易としてしまう人も、出てくるだろう。だが、目の前に居るのは、困っている人なのだ。見て見ぬ振りが、できない人々にとって、これ程辛いことは、ないだろう。一方、願いの数々が、一度に溢れ出すこともある。こちらはこちらで、戸惑うことが多い。多くの事柄は、一度に解決することが、難しいだけでなく、実は、それぞれが、互いに矛盾する場合が、殆どなのだ。親切として、これらの願いを、叶えてやろうとするが、それが、互いに矛盾すると、一つ済ませたら、別の問題が、突き出されることになる。それが、山となって攻めてくると、心が折れる人も出てくる。それを、更に複雑にしているのは、渦中の人々の多くが、叶えられた希望に対して、それ程の感謝の気持ちを、示さないことだろう。次の問題を、口にする時、感謝の上で、そうしてくれれば、やり甲斐も出るが、そうならないと、気が滅入る。多分、文句に、耳を傾けるだけで、満足が得られるのだろうが、つい、叶えてしまう。それが、一番の問題かもしれない。
統計で、最も身近な存在は、実は、世論調査なのだろう。何か、事がある度に、新聞等のマスメディアが、挙って、行うものだが、共通点に、気付いているだろうか。全てではないが、殆どのものが、標本数を、1000と設定している。統計学で、確かさが保証されているようだ。
その根拠が、どのようなものか、明確でなくとも、保証の一言で、皆がその数字を目指す。それにより、調査の信用度が、確かなものとなる、というつもりだろう。だが、そこに、落とし穴がある。全数が、どれだけ大きな数でも、そこから、1000程度を、抽出すれば、全体の傾向を、測ることができる、と言われるが、大前提を、無視してはいけない。それは、標本が、全体の傾向から、満遍なく、拾い上げられて、いなければならないのだ。世論調査の多くは、電話を媒体として、行われているから、この国で考えれば、市外局番が、人口割合と見合う形で、選ばれる必要がある。ふた昔前までなら、それで十分だったが、今は、固定より携帯を、持つ時代であり、携帯の局番には、地域性が、反映されていない。だとすれば、どんな抽出法があるのか。毎回、その根拠が、一言で示され、無作為性が、保証されたが如く、主張されているが、実施者本人は、所詮、検証せずに、ただ漫然と、同じことを、繰り返しているに過ぎない。また、職場で、調査依頼を受けた人も、居るだろうが、無作為ゆえの、間違いとなる。これでは、同一人物への調査も、あり得ることとなり、信頼度が下がる。抽出だけでも、これだけの問題が、あるのに対し、更なる問題は、調査項目の、設問自体にある。どの設問にも、どちらとも言えぬ、という回答があり、多くの調査では、それが、大半を占めることがある。そこから見えるのは、その回答しか選ばぬ、人の数が、かなりを占める、という問題だ。実は、賛否より、そちらが、多数を占めるのなら、設問自体が、無意味と言える。これでは、統計は、信用できない、と言うしかなくなる。
綻びが、見え始めた。様々な状況を、把握する為に、行われる、データ収集は、統計と括られる。その手続きにおいて、全体を、全て集めるのは、不可能と言われ、状況を、反映するように、一部を抽出する、手立てが講じられる。そこに、細工が、施されたとされる。
一事が万事、こんな具合に、都合よく処理されていた、と考えれば、それが、政府が主導した、調査の全てに、施されていたことは、すぐに明らかとなる。ただ、あまりにも、多数の事柄において、調査が、行われてきただけに、それら全てに、検証を施すことは、困難だろう。ただ、あの宰相が、毎回、自慢げに語っていたものだけでも、厳しく調べなおす必要は、あるだろう。何しろ、それを根拠に、自らの地位の、確保を図ってきただけに、それ自体が、崩れてしまえば、存在価値は、一気に凋落するからだ。そんな気配からか、はたまた、単に、新たな結果が、もたらされたからか、突然の表明が、あった。戦後最長と言われた、好景気に関して、庶民感覚では、理解不能とされたことは、皆の記憶に、新しい所だが、その話が、根底から覆されるような、結果が見えてきた、と伝えられる。もう、景気は、山を越し、下降段階に、入ったというのだ。ただ、これでは、庶民感覚との乖離を、説明できない。上昇期でさえ、景気の良さは、全く感じられない、という意見に、今回の結果は、依然として、一致していないからだ。本当に、統計自体に、操作が施されていたのだったら、この好景気の期間、全てにおいて、誤った結果を、導いていたとなりかねないのだ。人気商売の多くが、こんな操作を繰り返し、高い人気を、装っているが、国を挙げて、そんなことを、行い続ける程に、不思議なくらい、平和な時代が、続いている証左なのだろう。統計が、私利私欲を、満たす為の手段となっては、情けない限りだ。
毎日、話題を考えつつ、書き始めるが、どうも、うまくいかない。身内の不幸により、ここ数日、あたふたとしていたので、おそらく、その為だと思うが、どうだろう。何か、考えつけばいいのだが、どうにも浮かばない。では、やめておけば、とも思うのだが。
どうにも、煮え切らない状況が、続いている。思い切って、やめておこうとも思ったが、何となく、書き始めてしまった。だが、数日間、そのことばかりを、考えていた為か、何の考えも、纏まらない。そんな文句だけを、書いていても、行は埋まるだろうが、それでは、何ともならない。人の心の平安は、こういう時にも、必要なものらしい。落ち着いて、考えるからこそ、論理が纏まり、話の筋立てが、できる訳だ。となれば、今の状態は、最悪と言える。身内を亡くしたから、と言っても、それが即座に、悲しみに繋がる訳ではない。というより、安定が失われ、落ち着かない状態に、陥るといった方が、適切だろう。時間が必要、というのは、こういう状態を、指すのではないか。徐々に、回復するのか、明日になれば、また、始められるのか、誰にも分からない。でも、待つことだけが、大切なのだ。焦ってみても、何も起こらず、更に、悪化する場合さえ、あり得る。だとしたら、こんなことを書くのは、もう止めておけば、いいだろう。また、書き始める時が、やってくるのだろうから。今日の所は、この位にしておこう。訳の分からぬことを、書き並べても、無駄なだけだから。では、この辺で、また次の機会に。
本当に、この国の人々は、どうなってしまったのか、と考える人も居るが、実は、国どころか、星全体が、おかしな状況に、なりつつある。なってしまった、と過去形で、書いた方が適切かもしれない。一つの国では、大国に、対抗できぬと、共同戦線を、はったのも、一例だろう。
折角、皆が一緒に、協力して、大国に対抗する、という理念で、始まった仕組みも、ここに来て、崩壊し始めている。と言っても、明日には、また、違う風が吹くのかも、とも思える程に、不安定な状況が続き、期限が迫るのに、煮え切らない状況が、続いている。あの国の、離脱を決めたのは、国民全体であり、それは、民主主義に則れば、最も尊重すべき、結論となる。だが、そこでの多数決は、所詮、多数派と少数派を、分けただけであり、事前に、様々な議論があったとは言え、国民各人の、想いが反映されただけのことだ。国全体として、どうあるべきかは、各自の考えが集まれば、形作られる筈、という想いが、あったかどうかは、今となっては不明だが、ここまで来ても、まだ、議論が続き、再度の投票を、などと言われるようでは、あの節目は、何の意味もなかった、と言わざるを得ない。民主主義が、これだけの繁栄を、築いて来たことに、間違いはないが、今、大国の一翼をなす、あの国は、民主主義とは程遠い、政策により、成立している。だからこそ、対抗するには、これまでとは、異なるやり方を、する必要があるとの考えか、海の向こうの大統領は、身勝手な政治を、押し通し、恰も、私利私欲に、走るが如くの状況が、続いている。流石に、民主主義の鑑とも言われた国だから、様々な制動がかかるが、それとて、暴挙を防ぐことには、なり得ない。もう一つの鑑だった、あの国が、まさに民主主義の典型としての、投票に、身を委ねた結果、今の混乱に、陥ったことを思うと、何かを、変える必要が、あるように思える。
懲戒権、という言葉が、紹介された時、どんな印象を、抱いただろう。本来の意味は、人を懲らしめる権利、ということだが、法律の中で、この言葉が用いられたのは、親と子の関係に、おいてのものだった。そんな権利が、あったのか、というのが、反応の殆どだったろう。
では、そんな権利が、保障されているのなら、何をやってもいい、となるか、といえば、そうはいかない。元々、法律とは、実社会で行われることを、反映したもので、現実に即さないものは、無いことになる。だが、制定から、何十年も経過すれば、社会も変化し、それに合わせて、条文も、変える必要がある、という意見が、最近は、頻繁に聞かれる。ただ、そこには、間違った解釈もあり、表面的な変化に、則するように、と言いつつ、異常な状況を、反映させては、取り返しのつかないことになる。憲法をはじめとして、この議論については、過激な意見の一方で、慎重論も出ており、結論を急ぐ必要は無い。同様に、懲戒権、という文言についても、いじめや虐待が、社会問題となる中で、排除しようという意見が、強まっているが、この問題自体が、文言の有無で、左右されると思う人は、まず居ないだろう。非常識としか、思えない言動を繰り返す、親達の暴行は、そんな文言を頼りに、行われている訳ではなく、単純に、その場の怒りを、打つけているに過ぎない。それを、法律で、などと考えること自体、社会の状況が、反映される法律の、本来の姿を、見失うものと言える。縛られることを、安心材料と考える人々は、こんな下らぬことを、必死で訴えるが、問題の本質を、見ようともしない、愚かな行為、と断じるべきだろう。こんな話ばかりを、毎日のように取り上げる、無知は、社会全体に、蔓延している。自らを律することの、重要性を、改めて、考える必要がある。
模倣の話を、昨日は書いたが、少し違うものの、やはり、小さな頃には、身に付いていたのに、成人近くになって、上手く行かなくなった人の例に、次のようなものがある。折角、指示しても、それを守らないとか、教えられたことを、そのまま行えない、という人の話だ。
真似を盛んにしていた時期、その中で、鸚鵡返しを行い、正しい使い方を、その場で学ぼうとする。時に、ブツブツと、喧しくなることもあるが、口の中や、頭の中だけで、事が済む場合も、あるようだ。だが、大人になると、その様子が、一変する。じっと、耳を傾け、相手の指示を、一言残らず、受け取ろうとする。その姿は、真摯な姿勢に思え、確かに、受け止めているように、思えたのだが、その後の様子を眺めると、何一つ、伝わっていないことに、気付かされる。何故、こんなことが起きるのか、すぐには理解できないが、何度も、こんな状況を、見せられると、どこがおかしいのか、少しずつ理解できてくる。それは、真剣な表情を見せ、一言残らずつかもうと、耳を傾けている姿が、実は、何の反応も、示していない、ということだ。ここからは、教える側は、確認を、課そうとする。多くの場合、教えた後で、何を指示されたのか、言い返させようとするのだ。だが、このやり方では、問題は、解決しそうにない。確かに、何を伝えられたかを、確認することで、定着させる効果は、出てくるに違いない。しかし、この問題を抱える人物には、これが、殆ど功を奏しない。何故なら、受け止めようとするのは、ただ、表面的なことであり、次に何をするかが、残らねば、無意味となる。まずは、鸚鵡返しを、教える前に課題として与え、そのつもりで、こちらの話を、聞かせるのだ。それにより、何を手に入れるかが、明確となり、その確認が、すぐに行えるようになる。その上で、どれだけ正確に、言い返せるかを、確認すればいい。この効果は、やってみると、すぐにわかるだろう。