地方の衰退が、著しいと言われる。確かに、注目が集まるのは、人が集まる地域であり、それは、元々、人口が集中する、都会と呼ばれる所だった。しかし、衰退の一途、と言われる地方でも、中には、多くの人々が訪れ、活気を保っている場所もある。何が、違うのだろうか。
観光地と呼ばれる地域で、活気が戻ってきた、と言われる場所は、評判程には、嘗ての活気を、取り戻しているように、見えない所が多い。確かに、観光客の数は、増えているのだが、その実体は、外国人ばかりであり、薄っぺらい内容に、過ぎないように、感じられる。人が集まれば、それが、外国からだろうが、国内からだろうが、関係はない、と思う人が居るが、そこには、歴然とした差が、存在する。特に、伝統的な場所では、それを、学校で習った人と、単に、インターネット上の情報で、引き寄せられた人の、違いははっきりしている。確かに、外国人の姿は、急増するのだが、訪問の目的は、情報で取り上げられた、少数のものに限られ、他には、見向きもしない。活気は、取り戻せたのかもしれないが、それによって、地域の人々の生活が、豊かになるとは、限らないのだ。では、本来の形とは、どんなものだろうか。ある地方都市は、海辺にあることを、利点として、依然として、活気を保っている。印象的だったのは、商店街であり、地方都市特有の、シャッターが閉まった店は、殆ど見かけられない。どの店も、歩行者に対して、何かを訴えるような、形に保たれており、通りすがりに、覗いてみたくなる、雰囲気を出している。人が来るから、この状態が保てる、という考えもあろうが、そこに、他の地域にはない、特別な秘密が、あるようには見えない。昔と同じように、客を相手にした、商売を続け、魅力のある商品を、売り続けているだけだ。客の方も、確かに、観光目的しか、持たない人が多いだろうが、それでも、つい、魅力に惹かれて、財布の紐が、緩むらしい。地元の人相手の、日常的な商売と一緒に、遠方の客相手の、非日常の商売を、行っているようだ。
政治の腐敗、もう一つ、取り上げてみよう。こちらは、政治家の水準の、凋落だけでなく、周囲の人間の水準が、更に低下することで、政策そのものが、無価値となってしまい、信頼を含め、全てが消し飛んだ、事態を指し示す。どこから、こんな没落が、起きたのだろうか。
間違いに、気付いた頃には、もう手遅れだった。それは、政治も行政も、頂点に立つ人間が、主体性を持って、推し進めることには、時代の違いは、現れないが、世代の違いが、表面化することが、必至だからだ。野心にせよ、何かしらの野望を抱き、自らの道を、そちらに向けた時代と違い、何も考えず、安易に道を選んだ人々が、その任に当たり始めると、違和感は、一気に広がり始めた。表面的には、旧来通りに、形を整えて、見えていたとしても、その中身は、殆ど検討されず、その後に、起きると予想される事態を、仮想的に検討することも、全く行われない。にも拘らず、政治家達は、その問題点を、指摘するだけの力量を、持ち合わせないから、ただ、議論の為の議論を、行うことで、役目を果たしたと、勝手に思う。だが、その過程を経て、実行する段になると、噴出し続ける問題の数々に、現場では、大混乱が続く。官僚政治の問題は、こうなると、かなり深刻化する。というのも、立案に携わった人間は、実行段階では、そこにはおらず、上の方から、無責任に眺めるだけで、一度も、問題を精査しなかった人間に、助言を与える力は、ある筈も無い。となれば、現場の混乱は、ただ、迷走へと進み、愚かな人々の、思い付きが、国民へのツケへと、変えられる。これが、腐敗の原因だが、では、その解決は、どう図られるべきか。組織の腐敗だけに、早晩に解決することは、ほぼ不可能だろう。だが、それでも、改善が図られるべきで、その為の手立ては、何かしら、講じられるべきだと思う。その為の要因は、一個人でも、小さな所から、始まるしかない。意識の問題だろうから。
政治の腐敗、と言えば、賄賂や収賄事件を、思い浮かべる人が、多いだろう。だが、今、腐敗とも思える、事態が、世界中で、起きている。国の行く末を、決めると言われ、政治家に対する、信頼が、その期待と共に、高まった時代と、大きく異なる現象が、起きている。
大局的な判断から、政策を決定し、それを推し進める。政治家に、憧れる人の多くは、その重要な役割と、国民から、尊敬されるという事情が、大きな要因となっていた。しかし、最近の状況は、大きく変わってしまった。民主主義の典型と、呼ばれた投票が、行われた結果、行く末は、国民が、自分達で決められる、時代となったのだ。国民投票で、大切なことを、決めようとする動きは、多くの国で、進められ、それこそが、民主主義であると、信じた人も多かった。しかし、その後の展開を、眺め続けていて、強い違和感を抱いたり、自分達の決定が、棚上げにされ兼ねない、事態が起き始め、首を傾げる人が、増えている。国民投票で、離脱を決定した国は、投票を実施した政権から、引き継いだ政権が、離脱の準備に向けて、整備を進めていく筈だったが、現実には、投票前に予想されたのとは、大きく異なる事態が、次々に起きることで、立ちはだかる壁が、高くなり続けてきた。新政権は、地道な準備を、進めてきたが、あまりにも多くの、課題の林立に、期限直前となって、再考の必要性が、取り沙汰される程に、なっている。確かに、民主主義では、あったのだろうが、政策を基本として、考えた場合、それがないままに、賛否を決めたことが、今の混乱を、招いたと、言わざるを得ない。離脱の手法を、論じることなく、その賛否を決めようとしたことは、拙速としか、言いようがない。更には、政策の立案に、決定後に手をつけたことは、無理筋だったのだろう。こんな馬鹿騒ぎを、する為に、国民投票という、民主主義を行った、前政権の愚かさが、今更のように、強く感じられる。
今年は、売り手市場らしい。だが、経済の混迷は、先行きへの不安を、暗示しており、そこから、別の要因が、浮かび上がっている。買い手も、弾ける直前のような、焦りを見せず、吟味を続けている。そこには、ただ、闇雲に、人を集めようとする、気持ちは、微塵もないように見える。
だが、事は、それ程には、単純ではないらしい。狂想曲が、演じられていた時代、確かに、狂ったように、人集めが行われたが、集まる人々には、気楽さがある一方で、仕事への不安は、常に横たわっていた。その中で、不安が、杞憂に終わり、活躍の場を、見出した人がいる一方、多くの人々は、不安が的中し、与えられた仕事でさえ、容易に済ますことが、できない状態が、続いたようだ。役立たず世代、と呼ばれても、一度得た機会に、しがみつき、そこに留まった人も、多かったようだ。その状況に比べると、現状は、大きく異なっている。職を求める人々は、不安を抱きつつも、自らの能力を、過大評価し、それが、認められることが、当然と考える。自己矛盾のような状況に、採用側は、ある意味の、戸惑いを覚える。その上、職場環境の変化は、採用側にのみ、過大の圧力を与え、慎重さは、更に増大している。だから、売る側にとっても、思った程の手応えは、無いままとなり、焦りが募り始めている。活動期間に入り、多くの人々が、既に、機会を得ているが、それでも、更なる活動を、続けている。より良い機会を、得る為と考えられるが、そこにも、独特の身勝手さが、浮かび上がっている。氷河期という時代に、機会を得た人々は、やっと見つけたものに、しがみついたものだが、彼らから見れば、何とも贅沢な、状況に思える。にも拘らず、当人達は、大真面目に、自分の評価を、待ち続けるのだ。そこには、時間に対する感覚も、薄まってしまい、気短な、態度が現れている。採用側が持つ、長い目と、矛盾する事態に、どんなことが起きるか、どうもはっきりしない。
圧力の問題は、実は、自壊なのではないか、という意見がある。当人にとっては、確かに、圧力が感じられ、それに押し潰される感覚さえ、抱いている。だが、圧力が生じる場所は、何処にもなく、当人が、その相手として、指名したとしても、身に覚えのないこと、となるのだ。
海の向こうから、ハラスメント、という言葉が、押し寄せてくる前には、この考え方で、何の問題も生じなかった。しかし、あの言葉には、恐ろしい意味が込められ、現場は、大混乱に陥った。それは、圧力は、それを受けた、被害者の立場から、判断するものであり、発したと言われる、加害者の立場での、判断は、採用されない、というものだった。その結果、何が起きたのか。それまで、泣き寝入りしてきた人々が、自らの被害を、訴える機会を得たことは、保護という立場から、好ましいことと、判断され、それにより、多くの事例が、日の目を見ることになった。ところが、その一方で、この判断基準では、その存在自体を、決めるのは、たった一人の人間であり、多くの人々が、加害者と見做されることとなり、冤罪も増えていった。そのような形で、別の意味の被害者を、出し続ける仕組みに、異論を唱える人の数は、増え続けているが、擁護に当たる、弁護人からは、それに対する意見は、殆ど出てこない。何しろ、弱い人間を、救うことが、第一の使命なのだ。となれば、例外に関しては、無視するのが、最善の策となり、被害者は、増え続けている。釦の掛け違い、とも言われる現象だが、巻き込まれた人間にとっては、大きな圧力になることだろう。この問題を、解決する為には、大元にある考え方を、再検討するしかない。ただ、たとえ、そうしたとしても、問題解決に至るかは、定かではない。それどころか、更に混乱させるだけ、となりかねないのだ。
圧力に、潰される人の数が、急激に増加している。以前は、調査自体が、行われておらず、比較対象が、ない状態なのだが、それにしても、何故、これほどに、増えているのか。話題として、取り上げられるようになった、という理由が、度々、引き合いに出されるが。
殺人事件をはじめとして、若年層が、関わった事件も、急増している、との印象が持たれるが、刑事事件として、取り扱われるから、敢えて、調査を行わずとも、集計は為されている。そこで見えるのは、実は、数が増えたのではなく、人々の扱い方が、強まったことで、印象に残るようになった、ということらしい。つまり、人の感覚は、数だけで、左右されるのではなく、どう印象付けられるか、その過程から、強く影響を受ける。逆に言えば、そういう力が、働くことによって、人々の印象は、どうとでもなる訳だ。これは、圧力に関する話にも、適用できる。虐めから始まり、職場にまで、この見方が、適用されるようになると、その数は、急速に増していった。ただ、騒ぎになるから、というのが、一番の理由ではなさそうだ。確かに、大袈裟に、騒ぎ立てることで、自分の利益を、得ようとする人は、この機に乗じて、暴れているように見える。しかし、その一方で、自分で、圧力を作り出し、それに、押し潰される人間が、増えていることも、大きな要因となっている。命令に従い、それだけを、行うことで、義務を果たそうとする、心の動きは、ある線を越えると、命令を、圧力と置き換え、それに、潰されていく。自ら欲してきた、命令が、いつの間にか、圧力へと変わり、それが障害となる、という図式は、上に立つ人間にとって、警戒を要するものだ。言われたことしか、行えない人々に対しても、期待を抱けば、その上を、要求するが、それは、実現しない。そこで、何もかも、命ずるようになると、それは、過度な負担となり、圧力になる。誰が、原因を作っているのか、見えているのではないか。
論理的思考の大切さを、何度も強調しているが、その理由は、簡単なことだろう。非論理的な話を、実しやかに伝え、人々を、騙す悪者が、社会に溢れているからだ。それを、見破ることさえできず、歪曲された期待を抱き、皮算用だけが肥厚し、破綻を来す。
自業自得と、断じるべきの行状に、同情を表し、手を差し伸べることは、常識からは、かけ離れている。にも拘わらず、そんな愚行が、横行するのは、世の中全体に、論理が失われ、非論理的な、感情話を、鵜呑みにする人が、急速に増えたからだろう。その上、論理性の欠落を、指摘する人々は、非情な人間として、逆に糾弾される、雰囲気が作り出されている。これでは、論理が、蔑ろにされ、正しい見方は、口に出すことが、憚られるようになる。こんな時代に、育つ世代は、悲惨な道筋を、進むしかない。だが、実際には、社会としては、狂った方向に、走っていても、より小さな単位である、家族においては、たとえ、外には働きかけずとも、家族なりに、論理性を保持し、それを語り伝えようと、する動きは残る。狂気に満ちた社会においても、この形で、隠れて伝えられれば、何とか、正しい道は、継承されるだろう。本来、論理に合う形として、合理が、用いられているが、今の世の中では、合理と称する、私利私欲に満ちた、暴挙が、押し切られている。これは、論理の欠片もなく、身勝手な理屈を、押し通そうとする、愚かな人達が、行うことであり、感情に振り回される、民衆を味方に、私腹を肥やしている。これでは、合理ではなく、合利ではないか。論理を排除し、感情に訴え、実は、自分に利益が上がるように、働きかける訳だ。この国では、個人が、専らやっているが、隣国では、国を挙げて、世界の中で、自らの利益のみを、追求する悪行を、進めている。これもまた、合利なのだろう。