パンチの独り言

(3月18日〜3月24日)
(事実誤認、劣悪な模倣、日の出、見守り、不便とは、茶番劇、事実歪曲)



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3月24日(日)−事実歪曲

 事実を、正確に伝える、という役割を、果たしているだけ、との答えが、返ってくるだろう。だが、そこに隠された、強い悪意に関して、厳しい指摘が、なされることも多い。小さな事実から、大きな主張へと、巧みに導く手法は、彼らの世界では、当然のことらしい。
 著名な賞を、受けた人々の一部には、そんな創作にも似た、行為が潜んでいる。レンズで覗いた世界は、確かに、その中では事実に違いないが、周囲から切り出されものは、カメラの後ろの世界とは、全く異なることも、数多ある。それでも、切り取られた事実こそが、彼らの主張を、全面的に後押しし、手柄へと結びつくのだ。これが、文章だけの表現では、更に、作為に満ちた内容が、作り出せる。数多ある事象のうち、自らの主張に、結びつくものだけを、巧みに選び出し、それを、極端な表現で、注目を浴びるように、演出を施す。事実を、正確に、という役割とは、全く異なることが、報道の内容を、際立たせることになり、問題提起を、強く訴えることができる。いつの間に、小説家のように、創作作業に、浸るようになったのか。おそらく、受賞履歴が、業績となり、日々の、淡々とした、事実伝達より、多くの注目や感動を、集める記事こそが、実力の表れ、とされる環境が、勇み足とも思える、事実の脚色に、精を出す人々を、持ち上げることへと、繋がったのだろう。こんな時代には、事実の矮小化ではなく、事実を端緒に、如何に、問題を膨らませるかが、肝心な作業の一つとなる。今読んでいる本は、まさに、その典型というべき、悪書の一つで、報道の立場から、小さな問題を、大きく取り扱い続けた人物は、活動の場を広げようと、独立したと思える。結果は、報道機関に属した時より、上がった自由度を、活用する内容となり、過度とも思える、飾り付けが、施された内容が、賛美と共に、持て囃される。こんな歪曲に、踊らされる人々は、騙されやすいのだろう。詐欺が流行るのも、無理のないことだ。

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3月23日(土)−茶番劇

 年度末には、各地で、別れの儀式が、行われる。この国の、伝統ある催しに、人々は、心を奪われ、袖を濡らす。だが、儀式が、儀式に終わり、鼻白むことも多い。茶番とも思える、芝居の連続に、折角の盛り上がりも、白けてしまうのだ。何とも、ばつが悪い。
 舞台裏を、覗いてみると、見えてくるのは、様々な仕掛けの数々だ。入念な稽古を繰り返し、一つの間違いも、起こさぬように、準備された舞台は、皆の感激を、引き起こす。だが、どこでも、いつでも、という具合には、事は進まない。 折角の台詞も、読み違えれば、元も子もなく、失笑を買うことさえ、起きてしまう。儀式で、そんな失態は、許されない。進行表通りに、進められる中で、文字の読み違えは、あってはならないとは言え、度々起こるもの、と言われる。送辞と答辞、祝辞と謝辞、反対にすれば、意味を成さないばかりか、非常識極まりなし、と断じられることさえある。だが、決まり文句として、使い慣れたことで、つい、取り違えてしまう。先日も、そんなことが、起きた。当人は、緊張の極みにあり、冷静な進行は、困難だったのだろう。だからこそ、もっと緊張を極め、間違いを、限界にまで減らす、必要があったのではないか。進行係の失態は、とても笑えない代物だったが、肝心の、祝われる側にも、飛んでもない間違いが、起きていた。おそらく、読み上げられる中で、自分の名前を、間違えられたら、怒りを覚えただろうに、謝辞の中で、読み上げた感謝の対象に、間違いがあったのでは、母校愛も、怪しいものだ。こんな茶番の繰り返しが、全国各地で、次々に行われる。節目の儀式は、様々な意味で、重要なものの筈が、こんな不手際で、あっという間に、崩れ落ちる。情けない限りだが、主役達が、その程度のことでは、先が思い遣られる。

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3月22日(金)−不便とは

 便利を求める声に、応えた結果、こうなったのだろう。だが、その過程で、見過ごされたことは、沢山ある。休みなく、働く人々の、要望に応えることは、効率を、無視したものだが、それが、まるで、効率を良くするかの如く、扱われたことは、殆ど取り上げられない。
 海に向こうから、やってきた業態は、まるで、新しい提案のように、扱われた。しかし、都会では珍しくとも、田舎では、同じ業態は、数多く見られていた。専門性を追求し、より良い品を、より安く扱うことは、多様な世界では、当たり前のものだろう。だが、数を揃えられる環境では、可能なことでも、村に一つの店、という状況では、全く異なる考え方を、適用する必要がある。だからこそ、何でも揃う、萬屋、という商売が通用し、質や値段の代わりに、便利さを優先させた業態として、活躍していた。新業態のように、扱われたものは、都会で人気を得て、客の要望に応える形で、商品の品揃えや、営業時間の変更が、行われた。田舎の様子も、当時とは、大きく変貌し、どんな所にも、煌々と光を灯した、店ができるようになった。当然、昔風の萬屋は、すっかり姿を消し、今風の店に、変わってしまった。導入時の店の名前が、営業時間を表す、と言われたのも、遥か昔のこと、今や、一日中の営業が、当たり前となった。ところが、その状況に、変化が起きている。便利とは何か、を問うのではなく、無い袖は振れない、という形で、人手不足を、訴える声が、高まったのだ。深刻な問題、とする向きもあるが、実際には、本質的な問題は、取り上げられない。便利とは何か、効率とは何か、議論することなく、ただ、漫然と、要望に応えた結果が、現状だとすれば、その要望を、再検討する必要が、あるに違いない。思いつきの行動を、許す環境が、様々な問題を、招いていることは、この見直しを、いい端緒として、使うべきことを、明示している。

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3月21日(木)−見守り

 記憶は、薄れていくのだが、確か、この独り言を、書き始めてから、1年程経った時、母が亡くなった。それから、15年程経ち、今度は、父が亡くなった。周囲の人からは、寂しくなったでしょう、とか、大丈夫か、とか、そんな声を、掛けられるのだが、どうも違う。
 肉親の死は、確かに、悲しいものだろうが、それにより、心に穴が開き、辛い日々が、続くというのは、全く、人それぞれの話、なのではないだろうか。一時の悲しみ、身近な人を、失うことにより、そんな思いが、過る人が、殆どに違いない。だが、その後の展開は、人により、全く異なるのだ。悲しみに、打ちひしがれ、立ち直れずに、時が過ぎていく。そんな人が、居る一方で、徐々に、気持ちを取り戻し、立ち直る人も、居る。その違いは、何処にあるのか。確かなことを、言うことは、難しい。だが、人それぞれに、周囲との関係から、また、自分自身の心の中から、生まれ出ずるものによって、時の流れが、違っていくのだ。自分自身に、当てはめれば、はっきりとしているのは、思い出に浸らず、現実と向き合い、歩き続けていく、という気持ちが、強くあったことと思う。だからと言って、誰もが、そうなるとは、限らない。夢の中に、居続けようとし、現実と、向き合うことが、できないままに、時が過ぎていく。そんな彼らに、掛ける言葉は、見つからない。兎に角、自身の力で、何とかするしか、方法は、無いのだろう。助言や、慰めの言葉は、時に、邪魔なものとなり、人を、遠ざけることに、なることさえある。温かく見守ることは、嘗ては、当たり前に、行われてきたが、今の時代は、優しさが、第一と考えられ、見守ることは、放置と同じ、と見做される。そんな中では、つい、関わろうとしてしまい、人の心を、乱すことさえ、起こしてしまう。そっと、見守ることの、大切さを、考えて欲しい。

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3月20日(水)−日の出

 大昔、日出づる処の天子、と書いた挨拶で、大国の王から、叱責をかった、と伝えられるが、十何世紀も経て、再び、太陽と称せられた国は、日の出の勢いを、誇っていた。国を支えた、工業製品の生産性に、問題が無かったが、経済を操る人々の、傲慢が、打ち壊した。
 稼いだ金の行方を、模索した結果、過剰な膨満を招き、実体のない投資は、進むべき方向を失い、破裂へと繋がった。地道な生産に、集中した時代と異なり、手持ちの金を、いかに運用するかが、最大の問題となった時、多くの企業でも、特に、金融機関の暴走が、起きてしまった。生産は、伸び続けても、消費が、伴わない国情に、この展開は、ある意味、必然となったのではないか。それから30年弱、低迷する経済は、一向に、回復の兆しを見せない。その間に、生産技術さえ、盗んでいった国は、高成長を誇り、経済大国へと、変貌していった。嘗ての大国だが、何度も国自体が、変わることにより、疲弊が続き、ついには、制度そのものが、国民全体のもの、となることで、停滞は著しいものとなった。だが、崩壊を危惧した人物が、登場することで、国の制度を保ちつつ、先進国と同じ仕組みを、採り入れようとする試みが、始まった。そこからは、徐々に、回復の兆しが、現れ始め、隣国の親切も相俟って、急速な成長が、始まった。こちらの凋落が、始まる直前の変化は、余裕を見せながらの親切に、触れることを可能とし、本来なら、冷戦の敵対勢力として、注意を要する筈が、それをも上回る、支援を得ることができた。今の、あの国の人々に、こんな経緯を、説いたとしても、誰も、本気にしないが、その事実は、様々な歴史と共に、忘れるべきではない。ただ、国内消費の成長が、人口の多さに、支えられることで、一気に膨らんだのは、この国の膨満とは異なる、別の問題を招きつつある。実体があるだけに、その減速は、強い打撃となる。愈々、日沒する処、の話が、現実になるか。

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3月19日(火)−劣悪な模倣

 子供の数が、減り続けている、と言われる。次代を担う世代が、減少することに、強い危機感を、訴えるけれども、遠い未来ではなく、すぐそこにある問題が、既に表面化している。義務教育期間は、その影響が明らかで、各地で、学校の統廃合が、進んでいる。
 このような、公共性の高い事業については、ほぼ全てが、税金で賄われ、たとえ、無駄が出たとしても、必要悪のように、扱われる。今、減少の一途にある、地域とは違い、都会では、局地的に増加が見られ、新しい学校の建設が、間に合わない地域もある、と聞く。これとて、長い目で見れば、10数年後には、無用の長物となりかねない。だからと言って、遠い学校に、通わせるのは、都会の便利さに、合致しない条件となり、嫌われる原因となる。まさに、住民様様だが、当然のことと見るべきだろう。それらとは違い、進学の意思により、数が決まる世代については、その減少が、より大きく影響している。既に、高校の統廃合は、各地で進んでおり、伝統が失われるなど、問題を指摘する声も、強まっている。だが、それより更に深刻なのは、大学の状況だろう。減少が、直接の影響を及ぼし、そろそろ、定員割れの深刻化から、廃止を決め始める所も現れ、公のものにまで、広がり始めている。監督官庁は、様々に、工夫を凝らした政策を、打ち出しているが、所詮、海の向こうの複写に過ぎず、それも、性能の悪い機械のように、所々、不鮮明な部分があり、一部しか、真似できていない。海の向こうも、別の問題が、噴出し、失業率の低下にも関わらず、卒業後も、社会に進出できない人々が、街に溢れている。猿真似をせよ、とは言わないが、欠陥のある仕組みの、一部だけを、写し取るのでは、不完全なものしかできない。そこには、本質を見抜けず、ただ、模倣品を作る、悪徳業者がいて、勝手な論理を、展開している。窮地だからこそ、本物を作ることを、第一の目標として、改革を図るべきだろう。

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3月18日(月)−事実誤認

 地方どころか、国自体が、衰退の一途にある、と見る向きもある。だが、日々の生活において、そんな不安が、過ることはない。にも拘わらず、声高に、悲観的な筋書きを、訴える人々からは、衰退どころか、壊滅や滅亡といった、悲劇的な表現さえ、聞かれている。
 先見性の高さを、誇る人々は、確実な見通しと、主張しているが、その根拠には、あまりにも多くの、不確かさが含まれ、不確実性は、高いままで、放置されている。彼らの多くは、国内においても、衰退しつつある地方が、更に、落ち込み続け、大都市だけが、生き残れると、大真面目に、論じているが、こちらも、目の前に横たわる混乱を、うわべだけ捉えたものに、過ぎない。活気のある地方と、そうでない所で、何が異なるのか、明確にすることなく、成功に目を奪われ、失敗に目を向けない。こんな人々が、先行きを見通せるとは、とても思えない。どころか、彼らの不用意な発言が、国の行く末を、決めかねない現状には、別の意味の、大きな不安が潜んでいる。だが、不安を口にし、危険を指摘することが、多くの人々の性癖となり、それが、当然のように扱われる時代には、こんな暴挙が、罷り通っている。実際には、不安がない訳ではなく、改善の余地は、広くあるのだが、だからと言って、衰退の一途であるとか、滅亡さえ見え隠れする、などという発言は、妄言としか、言いようがないものだ。国にしろ、地方にしろ、そこに住む人々が、日々の生活を、保つ努力は、必要とされるが、その為には、過度な不安を、口にすることは、避けるべきだろう。避けると言うと、逃げることのように、受け取る向きがあるが、見通しもなく、悲観的な意見を、出すことによる、悪影響は、取り除かねばならない。楽しく暮らす為に、何が必要か、考えることの方が、遥かに健全に思える。

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