安全安心を、求める声は、強まり続けている。だが、当然の権利として、その主張が、通る度に、社会状況は、逆に、悪化の一途を、辿っているのではないか。こんなことを書くと、また、馬鹿げたことを、と冷たい視線を、浴びせられるか、あるいは、無視されるだろう。
でも、安全安心が求められる中で、人々が、どんな論調を、強めているかを、確かめて欲しい。その中には、悲観的な論調が、強められ、不安を、煽る声が、好んで使われる。悪くなるとか、できないとか、現状より、悪化する事態を、指摘することが、主体となる中で、だからこそ、安全安心が、求められるべきである、との主張が、正当なのだ、との論法が、通用するとされる。だが、この手法の欠点に、気付く人は、少ないだろう。何かを求めるのは、それが実現すれば、より良くなると、信じる心があるからだ。ところが、その一方で、主張の大部分には、不可能とか悪化とか、実現できないことが、含まれている。可能と不可能が、同居する事態に、何の疑問も、抱かないのは、何故なのか。要するに、全体を俯瞰し、重要な点を、見つけ出す力が、無いからだ。ある意味、馬鹿の一つ覚えで、安全安心を、叫んでいさえすれば、それこそ、安心だと思い込んでいる。何をすべきか、考えることなく、叫び声を上げるのは、物事の善悪や、選択の判断が、覚束無い、知恵の無い子供の、やることなのだ。社会全体に、幼児化が進行し、駄々を捏ねるだけで、やるべきことさえ、手を付けない人々が、権利の主張として、安全安心を、掲げているに過ぎない。それを、恰も重要なことと、思わせているのが、これもまた、良識の欠片も無い、マスコミなのだ。総白痴化が進めば、自分達の思うがまま、とさえ、思っているかの如く、煽り続けている。このままでは、重要なことを、達成する人間は、消えてしまいかねない。そうなってからでは、遅いんだぞ。
人間を、上回る能力を、発揮する機械に、驚きを隠すことなく、更に進歩すれば、職を奪われるのでは、との心配を隠せない。そんな時代が、愈々、すぐそこに来ている、と言われるが、どうだろうか。人間の能力は、様々な方向にあり、一つや二つ、負けたとしても。
そんな考えでは、あっという間に、地位を奪われる。という厳しい意見も、あるにはあるが、さて、現実はどうか、まだ定かではない。だが、これまでの急速な進歩から、対策を講じるべき、という意見も、出始めている。人間と機械の戦いは、今始まったことではない。強い印象を与えたのは、飛行機の空中衝突を、避ける為の手段として、人間よりも、機械の判断を、優先すべき、との結論が導かれたことだろう。高速で移動する乗り物を、操る上では、正確で敏速な判断が、必要となる。その上、数百人を乗せている、となれば、責任は重大だ。一瞬の判断の誤りが、多数の命を、失うことに繋がる、となれば、何が確実か、という点からの、決断が必要だったのだ。だが、今、かつての決断と、正反対の意見が、出されている。最新機が、同じような兆候から、墜落したという事故が、二度起きたところで、機械と人間との、せめぎ合いが、起きたと伝えられる。自動的に、事故を未然に防ぐ仕組みを、搭載した筈だが、その誤作動が、事故を招いたとも言われ、機械の判断を、優先すべきとの考えに、異論が唱えられ始めた。機械の絶対優位が、崩れたとの指摘も、あるだろうが、それ自体は、誤解と言うべきだろう。これから、徐々に明らかになろうが、判断をする部分に関しては、機械は、設定された通り、何の間違いもなく、行っている。そこに、時に、揺らぎが見える、人間の判断力とは、明らかに、違うのだ。今回の問題は、情報を収集する部分に、不具合があったと言われる。誤った情報で、振り回されるのは、人間も、機械も、同じなのだろう。
比較が大好きな国民性、これもまた、恥の文化の現れ、なのだろうか。他人が、どう動くかを、見極めることこそが、何よりも重要で、自分の判断より、そちらを優先させる。だから、心の中で、違うことを思い描いても、外に現れるのは、他の人と同じ、となる。
当然、絶対指標は、存在せず、相対的な指標のみが、通用する。そんな社会では、各人の考えが、反映されることなく、何事も、多数派が、決めることになる。何が正しいかより、何が魅力的か、という点の方が、優先される。究極の民主主義、とも思えるが、実は、何も決められない、愚かな民衆が、集団を形成するだけで、主体性は、一欠片も無い。この姿勢は、国内だけでなく、外との関係でも同じで、外交をはじめとして、煮え切らない姿勢が、厳しい批判を受ける。だからこそ、一つの国に寄り添う姿勢が、強まるばかりだが、これとて、批判をかわす、唯一の手段なのかもしれない。さて、そんな中で、主体性のみが、際立つはずの世界でさえ、比較が、優先するようになった。研究者は、独自の路線を、展開することで、自らの業績を、際立たせる人間の筈が、最近は、全く異なる様相を、呈していると言われる。研究費を、集める為に必要なのは、流行に乗ることであり、他の研究者が、挙って参加する分野こそが、その対象となる。注目を集めるのは、独自の研究や、質の高い研究ではなく、皆がやっている研究なのだ。国全体の研究水準さえ、比較によって、厳しく査定される。急速に台頭し続ける、隣国の研究が、数値を上昇させ、追い落とされている、と言われるが、比較の根拠となる数値が、どのように算出されるかは、論じられることはない。そのカラクリに、気付く人は居らず、著名な科学者でさえ、その片棒を担ぐ始末、どうなってしまうのか。低水準の研究でも、互いに支え合えば、数値を稼げる、この仕組みを、数の論理で、押し切れば、勝ったふりができる。
我慢すればいい、と読めたのではないか。恥の文化で、体裁を気にした結果、折角の支援を、断ったという話に、誰にも知られず、受けることができれば、我慢しなくていい、と言われる。だが、これらの話は、本当に、我慢の問題なのだろうか。変だ、と思えるのだが。
弱者保護の話、とするのは、おかしいと思う人もいる。資格があり、権利が成立すれば、それを履行するのは、当然と見るからだ。弱いか強いか、ではなく、資格の問題とする訳だが、その決め手となったのは、何なのかを、論じないままに、権利の有無だけを、論じるのは、どこかおかしな気がする。何故、そのような措置が、必要とされたのかを、吟味すれば、そこに、困窮や貧困など、周囲と比べて、劣る環境が、確かにあることが、見えてくる。その差を、埋めるための措置として、支援が整えられるが、そこに、別の差別意識が、歴然とあり、一つの差を、埋めることが、別の差を、明確にすることに、結びつく。この国で、昔から続いてきた感覚では、初めの差を、生じた原因は、社会環境だけでなく、自身の中にもあるから、そちらに、先に取り組む必要がある、と結論づけてきた。努力したが、差が縮まるどころか、更に広がった、という結果を受けて、手を出してこなかった、支援への要請に、手をつけるようになる。この手順は、所詮無駄なもの、と考える向きでは、最近の動きのように、初めから、遠慮せずに、手を挙げられるように、という仕組みが、最善の策と見做される。だが、それでは、自立の道を、自ら断つことに、なってしまう。それにより、深い穴に、入ってしまい、抜け出せなくなるのだ。これこそが、明確な差を、確実なものとする、原動力となる。差別を無くそうという動きが、実は、別の差別を作り出し、取り戻せなくなる。そんなことをするより、まずは、自助努力を、促してこそ、社会全体が、整うのではないか。
恥の文化、と呼ばれたものが、失われつつある。出典は、「菊と刀」だそうだが、改めて、捉えられることで、認識を、新たにしただけで、根底にあるものには、何の変化もなかった。しかし、今、徐々に、それが、失われつつある。そんなことにも、気付かないのか。
世間体を気にする、とか、体面を重視する、とか、そんな表現は、何か悪いことのように、使われてきた。だが、体裁を気にするのも、心の奥底に、潜んでいる、ものの考え方から来る、との指摘は、ある意味、的確なもの、と見做されてきた。罪とか罰とかを、議論するのが、常となっていた、西洋と違い、この国は、全く別の視点から、人々の生活に、秩序が、もたらされていた。それを眺め、強い違和感から、どこに違いがあるのかを、考えた結果、導き出されたのが、恥という感覚を、基準とする人生観だったのだろう。それが、今、破壊されつつある。西洋の文化を、盲目的に採り入れた時代から、一世紀半の時を経て、何故、今更、こんなことが、起き始めたのか。一つの起点は、弱者保護、の考えが、徹底されたことに、あると思う。何の結びつきも、無いと感じる人が、多いだろうが、実は、弱者保護が、弱者を選び出し、支援を徹底する形で、進められることに、問題がある。本来、支援が必要か否かは、それを受ける人、それぞれが、決めるべきことだろう。その中で、支援を求めることも、恥の一つと、考えるかどうかは、重要な決め手となる。だが、保護を訴える人々は、そんな事情を、考慮することなく、全ての弱者に、支援をすることこそが、必要と考えるのだ。とすると、何が必要か。世間体や体面を、気にする人々に、その配慮を、しなくても済むような、仕組みを整えることだ。今は、そんなことが、行われつつある。これで、本当に、支援が必要な人に、届くようになる、との考えは、実は、大切にしてきたものを、失わせることにならないか。こんなことを、書こうものなら、炎上必至だろうか。
諸手を挙げて、歓迎する姿には、無知蒙昧の雰囲気が、満ち満ちている。流行を、追い求めるのは、商売の早道、とも言われるが、中身が伴わず、上辺だけのものでは、結局、銭失いになるだけだ。相場の動きが、芳しくなく、他に、投資対象を、求める人に、売り込むのだが。
多くの情報を、収集することで、判断の基準を、定めようとするのは、経験に基づく、決定を下してきた、人間の常道として、使われ続けてきた。しかし、経験を、積まねばならぬ状況は、安易で確実な、方法が好まれる時代に、最も嫌われるものの一つに、数え上げられる。じっと我慢する期間が、長ければ長い程、日が当たらず、冷遇される気持ちが、強まり続ける。だから、その作業を、機械的に行えれば、それで十分、となる訳だ。そこに登場したのが、ビッグデータと呼ばれる存在だが、それだけでは、不十分との指摘があった。ただ単に、情報量が増しただけでは、それを処理する能力が、伴わず、宝の持ち腐れ、となってしまう、と言われる。そこに、登場したのが、解析に役立つ、と言われる、人工知能、時にArtificial Intelligenceの頭文字をとって、AIと呼ばれる存在だ。大量の情報を、解析することで、最適解を導く、という手法は、人間の経験則と、同じ手順を追って、作り出されるが、処理速度を、急激に増すことで、実現された、と言われる。人間の直感こそが、勝利の要と言われた、盤上の勝負でさえ、頂点に立つ専門家を、凌ぐ能力を、獲得した、と言われる程だ。だが、これを万能と見るのは、軽率な判断だろう。先日、話題として、紹介されたのは、病理組織検査を、人工知能に判断させ、過疎地域の病院でも、専門的な診断が、可能となるという話だったが、一つの大きな点が、欠けていた。標本を、誰が作るのかに、一切触れず、恰も、専門的な判断が、可能となる、との主張では、その質を論じる姿勢が、全く見られず、まだ長い道程に、見えた。情報が、不完全では、解析が、覚束無いのだ。
独り言の頁に、訪問数を表示させている。延べであり、実際の訪問者数を、示したものではないが、記録として、残そうと設置した。その始まりは、独り言を始めてから、二日後なのだが、これまでに、四万を超える数、となっている。最近は、少ないようだ。
17年前に、独り言を、始めた時も、今回と同じ、月曜日だった。本来、一曜日ずつ、毎年ずれる筈だが、閏年があるので、7の倍数とはならない。おそらく、2回目か3回目だと思うが、調べていないので、確かなことは、書けない。何れにしても、始めは、続くのかとの懸念が、あったものの、こんなに長く、続くとは思わなかった。途中、様々な事情で、書き込むことが、できなかった日があり、皆勤賞とは、いかなかったが、我ながら、よくやったものだ。今週で、週の数としては、887となる。ファイル名を、作り直すのは、面倒だから、今の所、999週目で、終えようと考えている。残り、2年余り、となる。まだまだ、先は長い。ただ、書くべきことは、有り余るほど、ある。それだけ、世の人々は、馬鹿げたことを、繰り返しており、非常識を、批判する対象は、無くなることは、決して無いだろう。こちらの意欲が、減退すれば別だが、それも、今の所は、起こりそうにない。ただ、読みに来る人は、依然として少なく、急に増える気配も、無い。だとすれば、本当の独り言として、続いていくだけとなる。それでも、こんなに長く続いたのだから、簡単には、辞めることは、ないだろう。もし、新しく覗く人がいたら、もう暫くの間、お付き合いいただきたい。