パンチの独り言

(4月8日〜4月14日)
(無用な不安、事実の歪曲、無責任、責任逃れ、断定の嘘、宇宙、成る程)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



4月14日(日)−成る程

 話が通じない、と聞くと、頑固者の話、と思ってしまう。だが、世の中には、通じない話を、押し付けられることが、数多くある。何かを、必死で訴えるが、何を、話しているのか、さっぱり理解できない、という経験を、持つ人は、一杯居るだろう。それにしても、と。
 そんなことを、思いながら、ふと考える人も、居るのではないか。自分の話は、相手に通じているのか、と。最近は、こんな事象を、極端に扱う話があり、意思疎通の障害、などと呼ばれる。だが、そこまで言われたら、やはり、反論がしたくなる、となる。自分は、あれ程は、酷くない、と。何故なら、彼らの話は、要領を得ておらず、何が主題で、何を論じたいのか、さっぱり掴めない。自分の話は、主題は確かで、論旨も明確だ、と思い込んでいる。だが、相手には、通じていない、となれば、さて、どうした訳か、と。悩んでみても、解決の糸口さえ、掴むことができず、途方に暮れた、という経験も、あるだろう。では、と、考え方を、変えてみる。わかりやすい話を、する人は、どんな特徴を、持っているのか、と。確かに、あの人の話には、つい頷いてしまう、という人が、身の回りに居り、その特徴は、と考えてみる。だが、改めて、考えてみると、あの頷いた話の中身を、思い出すことができない。おや、理解した筈だが、と思うが、肝心な主題も論旨も、浮かんでこないことが、多いのだ。では、何故、あの時は、納得したのだろうか。実は、考えもなしに、頷いた話の多くは、よく考えてみると、矛盾する部分が多いのだ。だから、分かり易い話には、要注意、と言われる。詐欺に、騙される人の多くは、こんな状況にある。すぐに納得して、騙されたけれど、後から考えると、何故、あんな話に、となる。やはり、意思の疎通においては、議論を戦わすくらいが、いいのではないか。分かり易くするだけでは、駄目だと思った方が、いい。

* * * * * * * *

4月13日(土)−宇宙

 宇宙飛行の日、とスマホが表示していた。58年前の昨日、人類の歴史で、初めての宇宙飛行が、行われたのを、記念して定められた、ものだと言う。「地球は青かった」という言葉は、子供だった当時、皆が知るところとなった。外から見なければ、分からないことだ。
 その後、二大国が、競い合うことで、宇宙への興味が、世界的に広がった。それから、10年もしないうちに、月に到達すると、誰が予想できただろう。だが、その後は、別の戦いが、地球上で広げられ、経済重視の姿勢が、一方の大国の体制そのものを、破壊することとなった。冷戦時代と異なり、今では、経済の競い合いが、大国の間で、繰り広げられている。それも、片方の担い手は、いつの間にか、交代することとなり、戦争ではなく、経済競争での冷戦が、始まっている。権利主張や、自国中心の排除主義など、様々な問題が、噴出しているが、ここでもまた、将来の展開は、予想できない。誰もが、安定した生活を、望むものの、その一方で、無限の欲望が、他者を追い落とし、繁栄を築こうと、働きかける。お互い様、という考えは、ここにはなく、単純に、勝ち負けの考えが、全てを決めようとする。大国に寄り添いながら、繁栄を築いた国は、自らの欲望に、押し潰される形で、その後の衰退を招き、今に至っている。そこでは、大国間の競争とは、異なる形の、せめぎ合いが起きたが、所詮、寄らば大樹の陰、にしか過ぎず、大国の事情に、左右された結果、いつの間にか、成長の失速が、起きてしまった。今の時代を、生きる人々は、嘗ての栄光を、羨むようだが、今を、盛り上げる為に、何の意味も持たない。別の目標を、設定した上で、それを実現する為の、手立てを講じなければ、明るい未来は、訪れそうにない。だとしたら、利益追求や、権利主張では、何も始まらない。外から眺めたら、何か見えてくるかもしれない。

* * * * * * * *

4月12日(金)−断定の嘘

 最近の映画を観ると、おやっと思うことが、よくある。際どい場面や、あり得ない設定が、映し出されるが、やはり、どこかおかしく感じる。その違和感は、以前なら、合成による、画面の乱れや、歪みなどが、原因だったが、その点は、随分改善された。それでも、なのだ。
 技術的な進歩は、単純な合成映像だけでなく、映像に、新たな描き込みをする、CGと呼ばれる技術が、導入された為だろう。画面上に、筆を入れることで、そこに存在しないものや、現実には、あり得ない存在まで、登場させることが、できる。だが、非現実は、やはり、違和感を催させる。それを、解消するまでには、至らなくとも、減退させる為の、手法が、次々に編み出され、金さえかければ、できないことはない、とまで言われている。大金を注ぎ込む、映画制作と異なり、日常に触れる、番組制作では、そこまでの技術導入は、難しいと言われた。だが、技術の発展は、装置の性能向上と相俟って、そんなものを、家庭に届けるようになった。週末の夜と朝に、流れる番組で、人気を博すと言われるものの一つに、就学前の幼児が、生意気な語り口で、出演する大人を、言い負かすというものがある。身近な話題にも拘わらず、理由や成り立ちを、知らないものに対し、大人達は、無知を暴かれ、CGで作られた幼児に、厳しく叱責される。だが、何故、人気があるのか、正直理解できない。確かに、身近な話題の、背景や真実を、暴くという筋書きは、知りたいという欲求を、持つ人々には、魅力的に映るが、実際には、歯切れの悪い内容であり、一つの意見を、押し付ける一方で、最後には、諸説紛々の状況を、静かに流す。重大事故の後で、可能性の数々を、解説された時に、歯切れの悪さを、批判し続け、安全安心を、強く要求したのと比べると、この状況は、余りに違い過ぎる。所詮、たわいのない内容だから、か。

* * * * * * * *

4月11日(木)−責任逃れ

 自己責任、という言葉が、使われ始めたのは、いつの頃か。ぼんやりとした記憶を、頼りに考えると、何となくだが、高度成長が、頭打ちとなり、経済の破綻が起きた、その後くらいから、時々、使われるようになった、と思う。当然のことを、何故、今更とも思った。
 だが、社会全体としては、全く異なる考えが、広がり始めた。それまで、国全体として、日の出の勢い、と言われ、止まるところを知らぬ程、どこまでも、突き進むと思われたものが、突然、勢いを失い、急降下したのだ。それに、巻き込まれた人々は、その悲劇が、自分ではなく、外的要因によって、引き起こされたもの、と考えたらしい。そこから、責任転嫁の声は、強まり続け、国も、銀行も、責任逃れの弁明を、繰り返していた。そこに、持ち込まれたのが、自己責任という表現だろう。自分達の責任を、厳しく追及され、窮地に追い込まれたが、その責任を、果たすことなく、国民それぞれの責任を、強調するのは、情けないとしか、言い様のない行状だが、その頃から、この国は、肝心な能力を、失ってしまった。これは、国民とて同様で、自分の責任、と言い渡されると、相手の責任逃れと、言い返す。互いに、責任を、取る気持ちなど、微塵もない訳で、これでは、何も始まらない。それでも、自己責任は、常に問われ続け、嫌な印象を、与え続けている。だが、その一方で、それを嫌う人々を、味方につけたい連中は、魅力的な言葉を、呟くことで、力をためているようだ。つまり、あなた方に、責任はなく、もっと、権利を主張すべき、という流れだ。平等を、強く求めるのも、その一つであり、一握りの人が、富の殆どを、独占する事態を、厳しく批判する一方で、その他の人々の、権利を、後押ししている。これにより、何が変わる訳でもなく、乗せられた人だけが、自己責任を、問われることになる。

* * * * * * * *

4月10日(水)−無責任

 優しい時代、と聞くと、いい時代のように、思うかもしれないが、現実には、正反対の状況が、生まれている。優しさを、追い求め続けた結果、何かしらが、手に入ったものの、その後に、厳しい現実に、直面することになる。差し伸べられた手は、鉄の爪に、変わっている。
 機会均等、平等の考えが、様々な場面に、適用された結果、確かに、望んだ機会を、手に入れることができる。しかし、その後の展開は、思わぬ方へと進み、窮地に追い込まれてしまう。特に、機会を手にする為に、様々な支援を、受けた結果、それが、将来への重荷へと、変わり始める。それなりの覚悟を、持って臨んだ筈が、金銭的な重圧に、潰される人も、出てきてしまう。そこで、批判的な意見が、出されてくるのだが、どうも、状況がおかしい。機会を得ようと、支援を要求した結果、借金に苦しめられることになるのは、支援の手を、差し伸べた組織の、責任によるもの、とされるのだ。だが、そこには、過剰なまでに、整えられた、優しさが、あるだけで、実際には、正反対の状況へと、誘い込まれてしまう。一度、はまり込めば、抜け出せなくなる、とまで言われるが、誰が、そこに向かって、進んだのかを考えれば、責任の転嫁、とも見える状況に、あるようだ。だが、こんな事態となっても、優しさに、酔い痴れる人々は、矛盾に満ちた意見を、かざしてくる。まるで、詐欺の被害に遭ったかの如く、支援を得ることで、利益を得たことさえ、まるで、騙された結果、のように扱うのだ。こんな考えでは、責任を負うことも、感じることさえ、できないだろう。それで、社会が、保たれるかといえば、とても、そうはいかないだろう。こんな事態が、長く続けば、身勝手な意見を、さも当然のように、突きつけることで、暴利を貪る人間が、雀躍することになる。そろそろ、厳しい措置が、必要なのだ。

* * * * * * * *

4月9日(火)−事実の歪曲

 偶々、テレビの株式番組から、「木を見る季節」という話題が、流れてきた。全体ではなく、個別の銘柄に、注目すべき時期、という話だが、こういう話ではなく、個別ばかりで、全体を見渡せない話が、流れてきた。人材登用での男女差別への、強い拘りに、呆れてしまう。
 女性の一部には、自らの冷遇が、男女差別の習慣に、よるものだとする、強い考えに、取り憑かれた人が居る。これを、面と向かって、論じ始めると、あっという間に、感情的な話になるが、本人は、事例を挙げることで、論理的に、説明していると、信じ込んでいる。そこに、取扱注意、という警句が、添えられる訳だが、彼らが、好んで用いる、事例の多くは、確かに事実であり、それ自体が、妄想によるものではない。だが、よく似た事例が、全く異なる状況で、起きていることについて、彼らは、関心を持たない。それは、自身の考えに、沿わないものであり、時に、不都合となるからで、触れないことが、戦略の一つとなる場合もある。そこまで、悪意と見做すべきでは、ないだろうが、それにしても、何かにつけて、男女の違いを、引き合いに出す姿勢には、辟易とさせられる。彼らの視野の狭さは、別の場面に、出てくることが多く、そちらにも、注意を払うべきだろう。それは、男女差の話ではなく、同性の登用に、関する話だ。時に、同性の人間の一部に、盛んに活用される人材が、登場することがある。その際に、どんな反応を、示すかについて、注意を払って眺めると、彼らの本性が、現れてくることがある。要するに、何かにつけて、突っかかるのは、嫉妬によるものに過ぎず、自分と他人で、異なる基準で、評価している場合が、非常に多いのだ。ここには、男女の違いはなく、単純に、自己評価と相互評価を、全く異なる手法で、行う人々に、よく見られる。この時も、議論に参加していた一人は、以前、既知の事実を、自らの発見と、強く主張していた。原因が、自分にあるとは、決して思わないのだろう。

* * * * * * * *

4月8日(月)−無用な不安

 安全安心という、迷信が、世の中に、広がり続けており、それが、元凶となる、様々な問題が、起き続けている。一見、正しい見方のように、見えるものの多くが、実は、歪曲されたもので、混乱を招いた挙句、不安だけが広がり、危険度が、増しているのだ。
 これを、昨日の話と、結び付けると、次のようになる。安全安心を求める中、実は、ありもしない不安を、煽り続ける声が、高まっていく。その中で、安全を実現する為に、必要となる技術は、達成できないもの、と紹介される。だから、不安は、いつまでも残り、安心は、求め続けても、手に入れられないもの、となってしまう。この矛盾に気付かず、可能と不可能を、取り違えて、主張し続ける人々に、安心は、やはり訪れそうにない。だが、社会全体が、そんな状況に陥ると、閉塞感が強まり、不安に苛まれることになる。それこそが、一部の施政者にとって、思う壺なのだろう。海の向こうで、盛んに使われるのは、この手法だが、こちら側でも、同じような状況が、作り出されている。だが、これは、施政者より、情報伝達者によるもの、と言うべきだろう。何十年もかかる、作業の進捗状況は、芳しいものとは、見えてこない。そこに、便乗するかの如く、できないことを、強調する風潮は、今の安全安心という、歪曲された考え方に、寄り添うような姿勢を示す。結果として、駄目だとか、不可能だとか、上手くいかないとか、そんな言葉が、連発されて、一部の人々は、我が意を得たり、となっている。目指すべきは、解決の手立てを、築くことであり、困難な問題を、解くことで、目的を達成することなのに、それと、正反対の状況を、作り出すことで、自分の意見に、沿わない人々を、陥れようとしている。感情に走る人は、何の違和感も抱かないが、論理で眺めれば、間違いだらけなのに。

(since 2002/4/3)