パンチの独り言

(4月15日〜4月21日)
(積極参加、ゴミ教育、代表、十連休、懐古主義、発言、愚の骨頂)



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4月21日(日)−愚の骨頂

 暴言、妄言などと、指摘された途端に、個人的発言、との言い訳としか、思えぬ発言を、する人間は、やはり、愚かとしか、言い様がない。第一に、自分の発言を、取り上げてもらえるのは、個人としてではなく、役職によるもの、だという認識が、無いことに、愚者の典型が見える。
 最近、愚かな言動が、目立つ世の中に、なってしまった、と思えるのは、こんな所にも、現れている。原因ではなく、結果のみで、判断するしかないが、その結果を招いたものは、発言者の無知なのだ。役職に就いた途端に、それまでの思いを、吐露するのは、どういう心理によるものか。選ばれた者、という意味では、選挙を経た時点で、既に、その資格があると、思うのは、凡人だからか、彼らは、選ばれたことに、何の意味も、感じておらず、その更に上の、政府の要職なるものに、選ばれることこそが、肝心と思っているようだ。だから、就任会見で、意味不明な主張や、甘い認識に基づく挨拶を、喜びに満ちた表情で、発する。だが、そこには、浅慮しかなく、元々の、議員に選ばれたことさえ、過ちだったと、清き一票を、投じた人間に、強い反省を促す。これ自体、おかしなことだが、こんな愚行が、繰り返されるのが、世の常となっており、誤った発言の後に、言い訳を繰り返すことが、当たり前のことになっている。でも、よく考えたら、こんなことを、平気で行うのは、世の中の、ほぼ全ての人間に、当てはまることであり、発信源を、手にした途端に、差別的な発言を、掲示したり、罵詈雑言を、繰り返す人が居る。ここでは、匿名性、ということが、最大の要因となっているから、事情は、随分と異なるが、結果は、同じ所に行き着き、愚かさを、世に晒していることに、変わりはない。馬鹿は、死んでも、治らない。

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4月20日(土)−発言

 失言、暴言、様々な言葉が、発言者の意図とは、異なる形で、取り上げられる。ウケ狙い、笑いを誘う、そんな意図では、場の雰囲気と、異なる形で、取り上げられれば、罵詈雑言のように、受け取られる。ただ、懲りもせず、繰り返されると、首を傾げるしかない。
 昔なら、ここだけの話、で済んでいたが、今や、それでは、済まされぬ話、とされる。何処が、違うのだろう。一つには、昔なら、人の拙い記憶に、頼るしかない中で、こんな主旨だった、と伝えられても、真意が違う、と釈明すれば、事が済んでいた。だが、今では、各自が保有する、通信機器で、録音できるので、それがそのまま、流布されることになり、真意も何も、発した言葉が、どう受け取られるか、が肝心となる。真意も何も、その場で、意見を流す、画面の人々の判断や、画面のこちら側の、受け取り方が、全てとなる。釈明も、言い訳としか、受け取られず、責任問題へと、発展すれば、追及の手は、緩まぬこととなる。こんな事態は、どんなに味方ばかりの、環境でも、起こり得ると、考えねばならない。となれば、発言への注意は、細心のものが、必要となるが、それは、原稿でも用意しないと、実現できないだろう。時には、誰かが、用意してくれた原稿でも、発言者の、それまでの経験が、曲解を招くこともある。だとしたら、どう防げばいいのか。唯一の方法は、黙り込むことだろう。発言すれば、何かが起きる、となれば、発言しなければいい、ということだ。だが、こういう事態を、招く人の多くは、挨拶を要求されたり、見解を求められたりする。それを、拒絶すれば、別の憶測を、招くこととなり、無言が、雄弁となって、伝わることさえある。結局、どうにもならないのだ。それより、日頃の行いが、反映されるのなら、それを、何とかせねばならない。そちらは、どうにかなるのではないか。

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4月19日(金)−懐古主義

 高度経済成長を、支えたのは、企業の努力、と考える人は多い。確かに、成長を支えたのは、生産性の向上であり、輸出の成長だった。だが、それを導いたのは、個々の企業の方針ではなく、国が決めた方針、つまり、適切な政策の策定、によるものだったのではないか。
 こんなことを書くと、今の政府を念頭に、そんな知恵がある筈もなく、旗振りだっただけ、などという、反論が飛んでくるかもしれない。だが、そんな批判しかできない、無能な評論家は、さっさと、舞台を降りてもらい、今一度、嘗ての栄光を、支えたものを、分析した上で、黄昏時にある、と言われる、国の再興を、目指すべき、戦略を考えるべきでは、ないだろうか。国家間の紛争の、種ともなった、貿易不均衡は、成長期にあった、この国を、支えていたが、それにより、嘗ての力関係までが、崩壊しつつある中、国を挙げての方式に、強大な圧力がかけられた。護送船団方式、などと呼ばれる、政府が先導する形での、全体主義こそが、あの繁栄を導いた、との分析は、今でも通用するものだが、その後の、強大な圧力の下、大国に靡いた政府は、自らの切り札を、破り捨ててしまった。その後の、衰退について、経済的な破綻を、最大の原因と、挙げる評論家は、数多いるけれど、失墜からの回復を、進める為の方策を、探し当てた人は、殆ど皆無だろう。もう一度、あの繁栄の時代を、迎えたいと願うのなら、政府主導の方針決定が、不可欠となる筈で、それに沿った形での、企業努力こそが、成長回復へと結び付く。業界再編など、小手先の手当てが、行われたとしても、再建過程で、他国の企業に、身売りせねばならない事態に、危機感は、一層、募るだけとなる。ただ、現状の政府、官庁の、金も知恵もない状況には、導く力はなく、懐古主義と揶揄されかねない。改めて、基盤から、築き直す必要がある。

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4月18日(木)−十連休

 休みが、増えることに、反対する人は、居ない。と言われるが、本当だろうか。実は、懸念を示す人は、数多く居る。だが、国を挙げての行事の為、と称して、そんな声を、押し潰そうとしている。政を、行う人々の、無責任ぶりが、明らかになるのは、何かが起きてからだ。
 だから、押し潰してもいいが、少なくとも、懸念の声に、耳を傾けた上で、それへの対策を、講じる必要がある。だが、愚かな要人達は、そんなことに、目もくれず、祭りへの参加を、心待ちにしている。騒ぎに乗じて、自らの存在を、目立たせようとするのだ。自分のことだけ、考えていれば、それで十分、という訳だろう。だが、その日が、近づくにつれ、懸念の声は、数々、取り上げられ始めた。最も大きいのは、いつものように、経済への不安のようだ。連休となれば、市場も開かず、世界情勢に、急激な変化が起きても、対応ができない、と言われる。確かに、心配となる部分も、あるようだが、杞憂にも思える。政策的なものであれば、市場の状況とは別に、対応は、施される。また、世界で見れば、他の国でも、同じような状況が、見られることから、心配無用とも思える。それより、心配すべきは、毎年繰り返される、情報網の問題だろう。休み中に、使わなかった状態から、通常業務に、戻った際に、異常を来すことに対し、毎年、警戒が伝えられる。それが、更に、日数を増せば、危険度は、高まる筈だが、そちらへの警告は、余り聞かれない。ここでも、お祭り騒ぎに、水を差すこと、のように受け取られ、違いが、出ているのかもしれない。だが、事が起きれば、国中どころか、世界への影響も、甚大なものとなる。あの人々は、たとえ、そんなことが起きても、何の責任も、感じないだろう。余計な心配を、してこその立場に、ある筈だと思うが、微塵も感じていないようだ。

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4月17日(水)−代表

 選挙が、続いている。だが、盛り上がっては、いないようだ。理由は、簡単だろう。政治に、期待するものが、見つからないのだ。日々の生活に、追われるばかりで、他のことに、関心を向けることが、できない、と言われる。でも、本当に、そうなのだろうか。
 日々の生活に、追われると表現すると、昔なら、朝から晩まで、忙しく働き、時間だけでなく、金銭的にも、余裕がない、という状態を、示していた。だが、今の若者を、見ていると、そんな状況には、全く当てはまらない。自分の好きなことを、やり続けるだけで、仕事に追われるわけでも、金銭的にも、困っている訳でもない。ただ、単に、自分以外のことに、関心が無いだけなのだ。それでも、改めて問われれば、追われていると、恰も、窮しているかのように、答えを返す。それを、大人達は、昔と同じように、受け取っているだけだ。更に、この状況を悪化させているのは、若年層だけでなく、いい大人達でさえ、同じような状況に、あることだろう。第一線を退き、老後の楽しみに、耽る人々は、様々な場所に、出て行っている。山に登れば、中高年の人々が、完璧な装いで、歩く姿を、頻繁に見かける。若者よりも、遥かに多くの、年寄り達が、かなり厳しい登山にも、挑んでいる。元気なことに、微笑ましさを、感じることもあるが、冷や水にならないか、心配になる。元に戻し、選挙の話題では、なり手の減少が、深刻化している、と言われる。多忙な日々を、送る上では、収入が乏しく、自立できない、などと、現代の議員事情が、伝えられるが、そこに、違和感を覚えるのは、一部の人間に、過ぎないらしい。本来、公的な職業でなければ、兼業のような形で、議員を続けることは、可能なのだが、この議論では、そういう人々の話題は、取り上げられない。代表たる立場では、単に、市民の代表であるだけでなく、業界の代表でも、十分な資格がある。それを、蔑ろにしているのではないか。

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4月16日(火)−ゴミ教育

 教わる人間からの要求は、限りない欲望の如く、次々に突き付けられる。それに応じて、改革をしようという風潮が、強まっているが、この考え方には、根本的な誤りがある。何故なら、教える側の考えが、反映されることなく、教わる側の都合だけが、反映されるからだ。
 必要となるものを、与えればいい、という教育への考えは、今では、当たり前のもののように、扱われる。だが、ここに、大きな落とし穴がある。必要かどうかを、判断するのが、経験を積んだ人間ではなく、これから経験する人間であることが、最大の問題だろう。初等中等教育では、未熟な人間を、相手にするからと、大人達が、彼らの拙い経験を基に、役に立つものを、与えているようだ。だが、これとて、狭い経験を、全体に広げることは、不可能であり、所詮、無理難題を、次の世代に、押し付けているだけだ。これが、ある期間続いたことで、現在の荒廃が、導かれたと言われるが、徐々に、狭い経験しかできない人間が、必要かどうかを判断することで、対象は狭まるばかりで、そこから、広げることが、更に難しくなる。この状況が、高等教育にまで、及ぶに至って、荒廃は、急速に勢いを増した。これは、実は、年少者の教育が、おかしな状況になるより、早い時期に起きていた、と思われる。目的を持たず、全体を満遍なく、学ばせようとする中から、所謂、教養部解体、と言われる最悪の政策により、大学教育は、根本から崩れてしまった。全体より、専門を優先し、余計なものを、排除した結果、視野の狭い、役立たずを、世に送り出すことになった。今でも、全体を優先し、幅広い教育を、行っている所もあるが、それも、内部の愚かな教員により、排除されることが多い。彼らの主張は、学生に寄り添い、役立つものを、与えるとあるが、その実、安易なものだけで、その場でしか、役に立たない、塵に過ぎない。ここから、考えを改めない限り、大学は、ゴミ捨て場に、なりかねない。

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4月15日(月)−積極参加

 学校に通った頃も、社会に出てからも、居眠りをする人の数は、減りそうにもない。最近は、余り聞かれなくなったが、以前は、外国人の多くが、会議で居眠りする人や、電車で寝る人の姿に、驚きを込めて、話題にしていた。何故、寝床でない所で、寝るのか、と。
 教室では、つまらない授業だから、との言い訳が、漏れてきたし、何の議論もなく、ただ、漫然と進む、会議にも、つまらない、という声が、多く聞こえていた。成る程、退屈だから、眠くなるのか、と納得するのは、この国の人だけで、他国から来た人々は、どこが退屈なのか、また、議論を戦わせない、会議という存在に、呆れるばかり、と思い、様々に批判していた。この考え方の違いは、どこから来るのか。議論好きの人と違い、こちらは、上が定めたことを、忠実に守るだけ、という思いだから、そんな無駄は、必要なしと言い切る。だが、低迷が続く中で、上からではなく、下からの意見を、尊重しようとする空気が、満ち始めてもなお、居眠りばかりとは、なんたることか。実は、授業も会議も、積極性の欠如が、眠気を催す原因となっている。つまらないのは、自分が、何も発信せず、受け取るばかり、となっているからで、消極的なままで、意欲を保つことは、簡単ではない。議論ならば、参加もできるが、教師の話を聞くだけの、ものでは、参加ができない。と考える人々に、新たな手法の導入が検討され、積極的な参加を、促す動きが、出ているようだが、これとて、大した効果は、見込めないようだ。積極性が、必要不可欠となれば、誰もが、居眠りなどせずに、授業に参加する筈、と言われるが、どうだろうか。提案を促す、会議の仕組みも、導入されてから久しいが、効率が、上がったようには、見えない。何故だろう、か。

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