パンチの独り言

(4月22日〜4月28日)
(晒し者、論破、どこから、真意、五月病、高望み、席を譲る)



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4月28日(日)−席を譲る

 氷河期と呼ばれた時代、と比べれば、今は、不安のない、安定した時代、と言われる。どんなに奔走しても、何処からも、手が差し伸べられず、将来への不安に、圧し潰されそうに、なっていた頃、途方に暮れ、正規でない職に、就かざるを得ない、状況に追い込まれていた。
 だが、今は、引く手数多、と言われ、売り手市場へと、転換したと言われる。ところが、長い目で見れば、若年層の割合は、減少し続け、労働力確保が、困難になり続ける。その中で、生産性を、保つ為の方策が、求められている。実は、このような問題は、この国だけでなく、世界の先進国が、総じて抱えるもの、とされている。海の向こうから、届いた報告に、唖然としたのも、ほんの一昔前のことだ。大学を出たのに、職が得られず、独立が夢と散った若者が、実家に戻った様子を、伝えていたが、そこで、父親が語った話が、問題の深さを、表していた。二人の子供が、共に、職に就けず、戻ってきた状況に、収入を確保しようと、仕事を続けねば、との話には、困り果てた事情が、見せられていたが、実は、これこそが、負の螺旋の状況を、表していることに、気付かぬようだった。新たな職が、創出されないから、若者が、その機会を、得られないとしたら、この親の状況は、それに拍車をかけ、子供から、機会を奪うことになる。経験者が、そこに居座れば、未経験な若者より、そちらの方が、勝手がいい。その状況が続けば、世代交代は起きず、どこかで、破綻するだろう。これと同じ考えを、今、この国の少子高齢化への、問題解決に、当てはめようとする、識者達は、長い目で、見ているふりだけで、問題の本質を見抜けぬ、腑抜けばかりだ。世代交代を、第一と優先し、後進に譲らねば、生産性の確保は、困難になる。一方で、行けばいい、と思われた、学校の存在意義も、世界的に、考え直す必要が、出ている。

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4月27日(土)−高望み

 こんな筈では、と思う人々に、手を差し伸べる社会。どうして、と思う人も居るが、世の中は、弱者に優しく、となっている。だが、その裏には、差別が歴然とある訳で、それを、解消する為の、唯一の手段として、弱者を、特別扱いにする。矛盾に満ちた、状況なのだ。
 差別を、作っておきながら、それを、消し去ろうとする。まるで、自分で、火をつけて、それを消そうとする、そんな動きに、思えてくる。小手先で、様々な方策を、講じる人々は、この状況に、満足を感じるだろうが、その対象とされた人々は、どんな感想を持つのか。支援を得て、それを踏み台に、次の段階に、進めた人達は、満足を得ただろうが、はじめに触れたような、予想外の展開を、経験した人々は、おそらく、大きな挫折を経験し、やり直しのできない、袋小路に、追い込まれたような、気分となっている。時に、支援という形で、差し伸べられた補助が、負債という形となり、返済に苦慮することもある。そうなれば、差別は、更に、深刻な状態となるが、そこからの脱出に、差し伸べられる支援は、期待できない。二度も三度も、助けが届くことはなく、放置されることもあるし、一方で、更なる支援により、一旦は、脱出できたように思えても、単に、負債が膨らんだだけ、という結果となり、苦しみが、更に、増すだけのことだ。こんな仕組みを、誰が作ったのか、と恨んでみても、それを受けた人間の、責任が消える訳ではない。問題の本質は、弱者保護を訴える、善人達にあるのではなく、その誘いに乗って、背伸びをしてしまった、人々の方に、あるのだ。選択肢の数を、増そうとする誘いに、乗るかどうかは、本人の問題であり、恵まれた周囲と同様の、機会を得たいと願い、手を伸ばした結果、夢が実現するどころか、重荷が増しただけ、となる。身の丈、という言葉が、聞かれなくなり、誰もが、望む通りに、という社会が、できた結果、地獄に、落とされる人が、増えている。でも、落とされたのではなく、落ちただけのことなのだ。

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4月26日(金)−五月病

 決まったことで、どうにもならない。そんなことは、十分、承知しているが、どうなるのか。新しい門出を、祝ってから、ひと月経った頃、不安を感じ始める人が、増えると言われる。それが、始まる月を、呼び名とした不安症は、今や、当たり前のものと、されている。
 いつものことだから、との扱いに、違和感を覚える人も、居るだろう。喜びに溢れた、あの門出から、間もない時期に、転落していくのは、何故なのか、当然と扱うのは、無理に思える。夢を目指し、突き進もうと、意欲が高まっていたのに、何故、自分から、転げ落ちていくのか。そこには、心理的な葛藤がある、と言われるが、本当だろうか。自らの描いた展開とは、大きく異なる現実に、高い壁を感じて、立ち竦んでしまう。そんなことは、どこにでも、誰にでも、あることに違いない。だが、それが、逃避へと繋がり、転落に至るのは、ほんの一握りに、過ぎないことだ。だが、五月病と呼ばれる、心の病に侵された、人にとっては、人生の大事であり、防げるものなら、そうしたかったと、後になって、思うことだろう。何故、この時期に、そんなことが、起きるのか。おそらく、違いを認識するのに、大した時間は、かからない。だが、そこから、逃げ出したいと、思うようになるのに、これ位の時間が、必要なのだろう。そこに、一息入れられる、休みが続いた結果、元の場所に、戻れなくなる。そんなことを、考えてみると、今回は、もっと厳しい状況が、起きるように思える。大した違いは、ないとの意見もあるし、ゆっくり休めるのは、ありがたい、との意見もある。だが、緩んだ気持ちを、巻き戻す為には、やはり、強い意志の力が、必要となる。戻ってくるかどうか、今から、予想することは、できない。10日後に、結果が出るのだ。

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4月25日(木)−真意

 分かり易さが、優先された結果、どんなことが、起きてきたのか。少なくとも、理解力の増進は、起きなかったようだ。すぐに分かる話が、好まれ始めた頃から、人々は、物事を、じっくりと考えることを、止めてきた。それが続き、考えない人間が、巷に溢れたのだ。
 こんな話を、書いたとしても、何も、困っていない、との反応が、返ってくるだろう。ここでも、問題を、掘り下げて、考えないことで、そういう事態が、起きているのだが、当人達は、何の問題もなし、と思い込んでいるから、不安を、感じることさえない。群集心理の、根幹となる感覚を、抱かないのだから、誰も、気にかけない。本当に、それで、いいのだろうか。いやいや、そんな馬鹿げたことを、取り上げたとしても、何も変わらない、と言われそうだ。だが、実際には、表面的なことで、振り回されるばかりで、問題の本質を、捉えようとしないから、解決に、手が届くことが、なくなってしまうのだ。それとて、何も知らず、何も知らされなければ、何の問題もなし、との結論が、導かれる。それで、いいのだ、となる訳だ。この傾向が、特に、強く表れているのは、詐欺事件なのではないか。人の言葉に、騙される人が、急増しているが、その本質に、迫る話は、殆ど出てこない。表面の問題を、捉えるだけでは、何も、見えていないのだ。同じように、他人の言葉についても、表面だけの理解で、怒りに駆られたり、悲しみに沈む人が、沢山居るようだ。これについても、真意を探らず、見かけに騙される。棘のある言葉を、吐く人々が、特に、嫌われるのは、こんな時代だからだろう。棘のあるなしではなく、その言葉の、真意を受け止めれば、何かの役に立つことでも、表面だけで、感情的になれば、聞き逃すことになる。聞こえているのに、理解できない。こんな事態を、招くのは、自身の問題なのだ。

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4月24日(水)−どこから

 意思疎通の重要性は、何度も訴えられる。しかし、その為に必要なことは、あまり伝えられない。それより、課題を与え、それをこなすことが、重要とされる。何度も、同じことを繰り返し、それを実行できるように、なることこそが、能力獲得なのだ、と言われる。
 だが、このやり方では、ただ、真似ができるだけで、違う場面では、何もできない。応用ができないが、それでも、傾向と対策の考え方では、対策の種類を、多種多様とすれば、それで十分と言われる。これは、本当だろうか。限りある、選択肢の中では、それを全て、習得しさえすれば、あらゆる場面に、対応できることになる。だが、現実は、限りがあるものの、それらを全て、試してみることは、不可能なのだ。限界が見えているのに、それに立ち向かうのは、無駄なのではないか、と思えるが、他に手が浮かばないから、できることを、やるしかない。そんな考えが、現場に満ちており、まるで、それで十分とされる。だが、実際には、そんな筈もなく、多くの人は、現場で、工夫をしなければならない。これでは、十分な備え、とは言えない。なのに、他に方法がない、という理由で、同じことが、繰り返される。根本解決の手立てを、講じようとすることなく、同じことばかり、続けている。そこに問題があるのに、それを見ることさえなく、ただ、同じことをする。現場の問題は、これほど大きいのに、それに気付かぬふりを、続ける。と言うより、問題を、直視しようとしていない。だとしたら、原点に戻る必要が、あるのではないか。小手先の、模範解答を、示すだけでは、何も解決しない。解答を、導く方法を、身に付けない限り、何も始まらない。だが、基本とは何かさえ、考えようとしない。このままでは、八方塞がりとなるしかない。考え方から、考えなければ、ならないのだ。

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4月23日(火)−論破

 自衛の為、として、様々な工夫が、紹介される。確かに、危険に満ちた社会で、守りを固めることは、生き抜く為に、重要なことだろう。だが、細々と、一つ一つの工夫を、身に付けようとしても、容易なことではない。傾向と対策は、よくわかるが、実行は難しいのだ。
 だが、小手先の工夫ではなく、根本から、対策を講じれば、何の心配も、要らなくなる。そんな万能なものが、あるのかと、疑う声と、あれば欲しいとの、訴える声が、入り混じって、届いてくるだろう。一方で、そんなものを、身に付ける為には、特別な能力が、必要なのでは、と指摘するかもしれない。ところが、それがあるのである。騙されたと思って、実行してみれば、との誘いに、乗る人が居るだろう。ただ、一つ、大きな問題がある。この方法は、単に、物事を、論理的に考える、というだけのことだ。こうすれば、ああすれば、と考えつつ、そこから導き出せる、結論を、繋げていくことで、相手の話の、論理の破綻を、見破ることは、簡単にできる。外からの危険は、これだけで、殆ど全て、跳ね除けることが、可能になる。但し、その手順を、徹底しなければ、自身で、破綻を招いてしまうから、用心しなければならない。徹底できなくなるのが、実は、大きな問題なのだ。相手の主張に対し、論理的に考えた上で、問題点を指摘したり、誤りを正すことは、論理的思考では、当然の手順となるが、不十分な論理で、持論を展開する人々にとっては、これが、邪魔物となる。厳しい批判に晒された時、感情的な反応を示すのは、この瞬間だろう。その場では、正論を吐いているのに、まるで、間違いを押し通しているかの如く、扱われた挙句、敵対視されてしまう。これが繰り返されれば、敵が増え、時に、四面楚歌の事態に、陥る。そこで、毅然とした態度を、貫くことは、多くの人にとっては、困難と映るのだろう。でも、皆が、同じ手法を用いれば、そんな馬鹿げたことは、起きない。簡単なこと、なのだ。

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4月22日(月)−晒し者

 こんな場所に、書き連ねたとしても、何処かに、届くことはない。それに比べたら、ツイッターやフェイスブックのような、SNSに書いた方が、耳目を集めることが、できるようだ。だが、あの書き散らしを見ると、そちらに、書こうとする気は、すぐに失せる。
 だが、自分の意見を、皆に伝えたい、と思う人は、どんどん増えている。特に、通信機器の発達で、気軽に、いつでも、書き込むことが、できるようになり、その勢いは、増しているようだ。本来なら、多くの人の目に触れ、批判に晒されることが、質の向上に、繋がる筈なのだが、現実には、そうなっていない。それより、増えた分の、殆どには、過激な意見と、批判を拒絶する態度が、溢れている。これが、事態を、悪化させているが、関係者達にとっては、何処吹く風、といった様子だ。意見の質や、訴えの中身より、まずは、注目を集めることが、最優先とされる中、過激な意見だけが、取り上げられ、それに対する、別の極論が、批判的に、向けられる。その騒ぎ方には、以前、一部で持て囃された、掲示板の姿が、見え隠れする。おそらく、同じ人種が、屯して、蠢いており、単純に、場所が変わっただけで、参加者は、殆ど変化なく、過激な書き込みを、好んで繰り返すだけだろう。そこに、何かを、よくしてやろうとか、世の中を、改善したい、などという思いはなく、ただ、欲望を満たすだけの、自己中心的な考えが、満ちている。そんな場に、出入りする人に、最近は、ある傾向が見られ、屡々、取り上げられている。それは、社会的地位が、ある程度の水準を満たし、以前なら、要職にある、とまで、言われた人々が、匿名性を手掛かりに、持論を展開する姿だ。時に、本名を晒し、地位を明らかにしながら、そんなことを繰り返す。愚かさが、こんな形で、表に出るのを、見ていると、人間が、壊れつつある、ように感じられるが、本当に、そうなのだろうか。

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