未来を予測する。一昔前から、何度も行われてきた、ことなのだが、当たった試しがない。完成直前のものなら、予測ではなく、現実として、紹介できるだろうが、計画段階どころか、夢物語の中のものとなれば、現実味がなく、可能かさえ、定かではない。
そんなものが、対象となる試みで、皆が、未来予想を、描こうとする。でも、その多くが、実現することなく、忘れ去られる。だが、その最中には、ある意味、大きな騒ぎが起こる。夢が実現する、という方向なら、誰もが、歓迎することだが、未来の予測においては、それだけで、済まないことが多い。夢の中とは言え、時に、不安や心配が、示されることも、多くある。あれも、これも、次々に、実現できる、という立場の予測も、その実現が、別の問題を、生じる場合も、一杯あるのだ。今、世間で話題となっている、人工知能と呼ばれるものも、多くのデータを処理し、そこから、答えを導き出す、という能力で、注目を浴びているが、それが、ある線を越えると、人間に、危害を与える存在に、なりかねない、という意見もある。ロボットという存在が、頭の中で、考えられ始めた時、それが、技術の発展に従い、人類を、越える能力を、得てしまうと、脅威となり得る、との指摘があった。そこで、その部分に、制限をかけておくべき、との考えが、出てきた訳だが、今でも、その心配が、あると言われる。制限を、かけたとしても、それを、自ら取り除く能力を、得てしまえば、制御不能に陥る。そうなったら、もうおしまい、という訳だ。確かに、心配すべきもの、なのかもしれないが、よく考えれば、人間自体に、そういう存在が、居るのではないか。凶悪な犯罪を、実行する人間が、脅威となるのは、当然のことだが、彼らを、除去することは、できないだろう。だから、仕方がない、という意味ではなく、人間以外の存在が、より危険という訳では、決してなく、あらゆる危険を、常に考慮して、準備をする必要がある、ということだろう。おそらく、人間にとって、人間以上に危険なものは、存在しないのかもしれない。
外から、突然の鳴き声、甘えるようなものだった。一昨日、書いたように、近所の野良猫達は、突然、姿を消してしまった。それが、徐々に、姿を現し、3匹の雄猫も、そのうち2匹が、戻ってきていたが、うちに出入りしていた、雌猫は、姿を現さないまま、だった。
それが、昨夜、突然、戻ってきたのだ。何事も、なかったかの如く、縁台に乗った姿は、やつれているようには、見えなかった。が、餌を与えてみると、様子が一変する。凄まじい勢いで、ガツガツと、食べ始めたのだ。ただ、周囲への警戒は、怠らぬ様子で、何かを恐れている、雰囲気がある。やはり、姿を消したのは、何かしらの圧力が、かかったのだろうか。食べては、耳を立て、向こうの方を、眺める様子には、怯えさえ、感じられる。元々、用心深く、警戒心が強い猫が、何故、姿を消したのか、喋れない猫が、相手では、知る由も無い。今朝には、最後の雄猫も、姿を見せていた。では、何が原因だったのか。考えても、何も浮かんでこない。だが、脅威が去り、日常へと、戻ったのだろう。雌猫も、小さな箱の中で、夜を明かした様子、少しは、安心したのだろうか。庭には、小さなモグラが、息絶えて、転がっていた。最後の遊びか、前足で、転がしていたが、死後硬直が始まっており、楽しみは、なくなったようだ。人里近くで、暮らす野良猫達には、人との関わりが、重要となるのだろうが、家猫とは違い、外では、何が起きるか、わからないものだ。今回の事件の詳細は、わからぬままとなるだろうが、彼らが生き延びる為には、単に、人に頼るだけでなく、自身でも、身を守る算段が、必要となる。人間達のように、勝手なことを、し続けているだけでは、やはり、長らえることは、難しいだろう。
生物保護、という感覚は、まるで、弱者に対するものと、同じなのではないか。これまで、勝手な都合ばかりで、生存を絶えさせたのに、それを、反省することなく、突然、方向転換した結果、保護活動が、盛んとなった。弱者を、産み出した状況と、そっくりに思える。
人間の、身勝手な都合、と言えば、それまでなのだが、商売になるから、邪魔だから、不要だから、等々、後から考えれば、何とも勝手な論理が、展開された結果、ある生き物を、この世から、消し去ってしまった。だが、時間を、戻すことはできず、失われたものは、取り戻せない。今度は、失うことが、大問題だと掲げられ、それを、避ける為の手立てを、講じることが、専ら行われ始めた。ところが、そこでも、やはり、身勝手な都合が、横行している。ある生き物を、絶滅させない為に、様々な方策が、講じられるが、所詮、浅知恵のやること、そればかりに、気が向いてしまい、他への配慮は、排除される。その結果、ある生き物を、生き長らえさせたとしても、他のものが、消え去ることも、起きかねない。こんな状況が、ここ暫く、続いているのだが、活動の正当化という、又々、身勝手な都合から、見て見ぬ振りを、続けている。時には、活動の中心に、目を向けさせ、都合の悪いことは、瑣末なこととして、片付けられる。元々、自然の均衡を、破壊した張本人が、反省もなく、別の力を加える訳で、その結果が、別の所に働くのも、当然のことと言える。自然に戻そうにも、人間の関わりが、常に存在する中では、元通りに戻ることはなく、別の形にしかならない。その環境が、その生き物に、不適であれば、歪みは、別の方向に、強まることになる。そんな事態が、保護という名の下に、各地で起きているが、それを、戻そうとする動きは、また、別の力を、加えるだけだろう。人類という、圧力が、かかることで、歪んだ自然を、元通りにするには、その圧力自体を、取り除くしかないのだ。
異変が起きている。と言っても、近所の話だ。傾斜地で、車の往来も少なく、野良猫達には、格好の環境となる。何軒か、餌を与える家があり、その周辺に、居着いた猫の数は、片手に余る程と、なっていた。それが、二日程前から、姿を見かけなくなった。
まさに、消えたようなものだ。2年前、近くで出産した雌猫は、小さな体で、4匹の子猫を、懸命に育てていた。このままでは、と思い、家族と共に、保護をしようと、相談した直後、子猫達が、野生動物に襲われ、1匹が、犠牲となった。そこで慌てて、捕獲に乗り出し、残りの3匹は、無事に捕らえ、1年ほどかけて、譲渡会での譲渡しを、目出度く終えた。親の雌猫も、子猫捕獲の数日後、獣医院への予約日、悪戦苦闘の末、何とか袋に入れて、避妊手術を、受けさせた。その後は、片手に余る数の、雄猫からの誘いも、功を奏さず、平穏な日々が、続いていたのだが、雨の日、突然、姿を見せなくなった。これまでも、1日だけなら、そんなことも、起きていたが、今回は、既に2日が経過し、その上、近所で姿を見かけた、雄猫3匹も、全く姿を見かけない。毒餌を使った駆除や、捕獲による駆除など、可能性は、幾らでもある。これまで、5年以上、放置されていたから、苦情も、極みに達していたのかも、しれない。だが、それにしても、突然のことで、驚いている。最近、減ったとはいえ、今でも、飼い猫を、外に出す習慣を、続けている人も居る。もし、捕獲を、実施するのなら、事前の知らせが、あってもいい筈だろう。だとすると、別の措置が、取られたのだろうか。それとも、あの雨の日、野生動物が、現れて、皆、何処かに、去ってしまったのだろうか。何れにしても、これまでの付き合いが、急に途絶えて、何とも寂しい気分となる。無事に、生き延びていてくれれば、いいのだが。
受動的だったものが、能動的になる、と思うらしい。それまで、上から与えられるものを、いかに無難にこなすかで、評価を受けていた人間が、大人になるにつれ、自身で判断し、積極的に取り組むことを、意識させられる。そんな節目は、時代の流れの上にある。
新たな門出において、そんな意識を、書き記したことを、覚えている人も居るだろう。特に、近年は、その傾向が、著しくなりつつある。この変化は、節目におけるものというより、その前に置かれた状況によるもの、と言うべきだろう。素直という表現で、追従うことを、半ば強制的に、押し付けられるのが、現代の子供達が、置かれた状況であり、その中で、与えられた課題を、素早く、確実に、行う能力こそが、評価の対象となる。大人達は、社会の中で、役に立たないことを、熟知する中で、何故、こんなことを、強いるのだろうか。彼らの記憶の中には、丸暗記という形で、あらゆることを、覚えさせられた、暗黒の時代が、横たわっている。忌み嫌っていたものを、他人に、それも、子供達に、押し付けるのは、異常なことと、考える人も居るだろうが、実際には、全く異なる形で、その強制は、実行されている。役に立つか、立たぬかに、無関係に、強いられたのと違い、現代は、何の役に立つかを、明示した上で、突きつけられている。それは、確かに、受験においては、事実に違いないが、そんな通過点に、役立つからといって、無理強いをされても、本人には、何の役にも立たぬものが、残るだけのことだ。では、丸暗記を、排すればいいのか。そうではないことに、そろそろ、気付くべき時が、来ている。その上、覚える作業においても、素直さより、別の事柄を、意識すべきだろう。受動的から、能動的への変化に、必要なものは、ただ、与えられたものを、覚えるだけでは、身に付かない。そこで、覚えるべきものとの、取り組みにおいて、こちらから働きかけることが、きっかけを掴むことになる。ただ、覚える為には、実は、邪魔になるかもしれないもので、その扱いには、自身で注意する必要がある。
節目で、振り返るのは、まさに、人の勝手だろう。反省なのか、懐古なのか、何でも、振り返れば、意味が出て来る、などというやり方に、異論を唱えても、所詮、こちらの勝手であり、あちらは別なのだ。ただ、総括という行為は、必要なのではないか。
ある時代、社会が混迷を極める中、体制に反対する人々が、暗躍したことがあった。その時、体制を批判する為には、自己批判も必要と、極端な批判意識が、急激に高まっていた。その中で、使われた言葉が、総括というもので、そこには、自己批判を越え、処刑にも似た、暴挙が行われていた。まさか、その悪い記憶が、残っている訳ではないが、どうも、総括という手法が、嫌われているように、思える。悪い意味でしか、全体を把握できない、そんな人々が、世に溢れた結果、振り返る行為こそが、悪く捉える元凶のように、扱われていたのではないか。実際には、全体を把握してこそ、細かなことも含め、流れを捉えることが、できる筈だが、その動きを、妨げるかの如く、総括を、禁じる心理が、強まっていた。だが、今回の節目、その機会を捉えようと、社会全体が、過去を振り返ることに、熱を上げている。ところが、全体を見渡し、状況を把握する力を、失ってしまった中では、何の為のものか、わからぬままに、何を見つけたいのか、わからぬままに、ただ漫然と、情報を流し続けている。こんな騒動の、熱が冷めた後に、何が起きるのか、誰も知らないが、こんな劣悪なものを、ただ流し続けるだけでは、結局、何も見えてくる筈もない。ただ、出鱈目なことを、繰り返すだけではないか。そんなことを考えつつ、時間が流れるのを、ただ、眺め続ける。何も起きず、何も変わらず、どうなるのか、誰も気にしていないのだろう。
最後、最後の連呼に、辟易とする人が、多いのではないか。押し売りが、嫌われるのは、当然のことだが、これも、一種の押し売り、なのではないか、と思う。事実は、事実として、代が変わろうが、年号が変わろうが、それぞれの都合により、感じ方は、異なる。
あれ程に、多様性が、強調される時代に、何故、横並びの連呼が、続くのかを、不思議に思うだろう。だが、元々、多様性という言葉が、使われる背景に、大きな問題がある。何故なら、他人の行状に、排他的な意識が、強く表れており、そこに、問題があると感じるからこそ、違いを受け入れる、素地が必要、と言われるのだ。だが、それが、強調されれば、される程に、差別的な意識は、強まり続ける。上下の関係だけでなく、違いを認めるかどうか、が問題とされるが、自分中心で考える人に取り、違いは、邪魔な物でしかない。それを、排除しようとすれば、攻撃的な態度が、表面化し、差を際立たせ、異質なものを、排除しようとする動きが、強まるだけだ。そこに、多様性という言葉が、登場した訳だが、この事情は、何ら変わることなく、建前ばかりが、強調されるようになる。だが、心の奥底では、違う考えが、蠢き続き、ほんの小さな、きっかけだけで、表面化する。鍍金のような、上辺の飾りが、剥がれ始め、本質が、露出する訳だが、そんな指摘は、無用のものと、無視されるのだ。だが、この騒ぎは、その日が近づくにつれ、勢いを増し続け、目に入るもの、耳に入るもの、全てが、そんな、一本調子のものとなる。独自の見方は、すっかり、影を潜め、横並びの騒動だけが、其処彼処に、溢れてくるのだ。最後が、こんな調子で、強調されれば、次は、最初が、やってくる。こんなことに、血道を上げるのは、馬鹿げたことに違いないが、それが、何の障害もなく、出来る程に、今は、平和なのだ。