次代を担う人材に、期待が無くなることは、あり得ない。いくら、今が良ければ、それでいい、と思っていたとしても、生活の基盤が、失われることとなっては、自分で守れば、ということさえ、できなくなる。そうなったら、何処か余所の国に、行けば、という考えもあるが。
だが、若い世代への、不平不満は、いつの時代にも、あることとはいえ、最近は、それより、諦めの方が、強まっているようだ。どうせ、と期待を抱くのを、止めてしまった社会に対し、若者達の諦めも、以前に増して、強くなっている。こんな状況で、何を目指せばいいのか。今更、楽観的な見方を、出したとしても、誰にも注目されないだろう。だが、悲観的な見解を、望む声は、殆ど皆無ではないか。将来性が、失われ続け、当事者でさえ、自らの将来に、何の期待も、抱かない中で、楽観も悲観も、未来に向けての見方を、示すことさえ、無駄としか思えない。では、こんな閉塞感の中、何をしたらいいのか。敢えて書くなら、基本に立ち返る、ということだろう。将来への見通しを、いくら示そうが、その為に必要な、努力をする気もなく、その甲斐も無し、と思う人々に、何の影響も、及ばない。となれば、今、この時に、何をすべきか、それこそ、今が良ければ、と考えるからこそ、今を良くすることを、真剣に、考えるべきだろう。将来の役に立つことも、将来に向かっての上昇志向も、今や、何の役にも立たない。それより、今、この時の評価を、如何に獲得するか、を真剣に考え、日々の結果に、一喜一憂すれば、いいのだ。そうすれば、その場での気分を、考えるだけで、事が済むようになる。先の手を、読む必要もなく、今できることだけに、手をつける。これなら、誰でも、できることだ。ただ、こんなことさえ、やろうとしない人間には、何にもならない。それこそ、諦めしか、残らない。
分かり易い話が、好まれる時代、と言われる。その落とし穴に、気付かないまま、深くて暗い淵に、落ち込んでいく人が、世の中には、数え切れぬ程、居るらしい。それも、何故、その暗がりに、迷い込んだのか、そんなことにさえ、気付かぬままなのだ。
何も、詐欺に遭い、なけなしの金を、奪われてしまったとか、そんな大事になる、話ではない。単に、日々の情報に、触れることで、自分の考えを持つことなく、他人の考えを、鵜呑みにする、そんな行動が、安易な気持ちの裏で、自身を、深い穴に、落ち込ませる。だが、落ちたことにも、騙されたことにも、気付かないのだ。それが、後々、自分を、苦しめることに、繋がるとは、その時、全く思っていない。ただ、分かり易い話に、飛び付き、それを信じることで、誤った道に、進んでいく。それも、同じ方に向かう人が、沢山居ることで、その間違いに、気付くこともない。だが、騙された上に、暴論を吐く人の、片棒を担ぐことで、悪に加担することに、変わりはない。特に、匿名性が、確保できると、信じられる仕組みの中で、この傾向は、強まり続けている。ただ、或る日突然、その行為が、糾弾され、そこから、犯人探しの対象となり、個人情報までもが、暴露される。そうなっては、もう遅いのだ。誤解によるものでも、一度犯した過ちは、消え去ることがない、傷跡として、残ることになる。安易な気持ちが、導いたことだが、それだけが、原因ではない。物事の理解において、容易さを、基準とすることが、実は、第一の原因となる。分かり易さには、そんな危険が、潜んでいるが、今は、それを、有難く受け容れる、安易な心が、社会全体に、溢れている。疑いを持ち、批判的に捉え、物事を、深く考えることが、自分を守ることに、繋がる。楽をすることとは、全く違うことだが、時間をかけ、熟慮することを、嫌っていては、いけないのだ。
落ちこぼれ、昔なら、脱落する人々に、周囲の目は、向かわなかった。だが、優しさに、満ち溢れる社会、を目指そうという時代、全く異なる状況が、現れている。ついていけない、と思い始めた人に、不安を解消しようと、声がけをする。確かに、救われるのだろうが。
そこに、ある視点が、欠けているのことに、気付かぬ世の中なのだ。落ちこぼれたり、脱落したり、挫折したり、様々な形で、皆と同じに出来ぬことに、救いの手を、差し伸べることは、本人にとっては、支援と思えるに違いない。しかし、それが、裏目に出ることに、気付いているのか。この状況を、如実に表すのは、進学という行為だろう。上を目指し、突き進むことが、当たり前と思える時代に、その行為に、疑問を抱く人は、居ないようだ。だが、一部を除けば、上を目指すどころか、ただ漫然と、周囲の動きに従い、その道を進む人が、世の中に溢れている。その中で、新たな環境に、適応できず、要求された課題を、こなすこともできない、そんな人が、増え続けているのだ。こんな人が、目の前に現れた時、多くの人々は、助言を与えたり、支援をしようと、手を差し伸べる。それが、苦しむ人を、助けることに、繋がると思うのだろうが、本当に、そうなのだろうか。挫折感を味わい、不安に苛まれる時、ふと出された手に、救われることもあるが、時に、その先にある、更なる苦しみへの、誘いとなる。一時の救いが、より長い苦しみへと、繋がることが、本当に、良いことか、わからないのではないか。それも、自らの意思で、挫折から立ち直るのではなく、他人から与えられた、力によって救われる。何かを、強制されるだけで、何も解決していない。そんな事態に、追い込まれることに、どんな意味があるのか。逆に、落ちこぼれてしまえば、別の世界への、展望が開ける場合もある。その機会を、奪うことに、繋がらないのだろうか。
交渉事に、大きな変化が、起きているようだ。確かな、主義主張がなくとも、交渉を通じて、何らかの変化を、招くことで、国を操ることができる、ということを、海の向こうの大統領は、まずは、示している。明らかな間違いでも、交渉に勝てば、それが、正論となる。
では、何が、秘訣となるのか。国民どころか、世界中が、日々、振り回され続けている。その原因は、彼自身の発言なのだが、歴代の大統領とは、明らかに異なる、手法が用いられている。会談や、記者発表という形で、多くの報道媒体を、介する形での、情報発信では、自分の意見だけでなく、そこでの、遣り取りが元となり、相互の働き掛けの、結果となる。ところが、現職のやり方は、選挙の前から、ずっと同じままで、一人、端末を手に、悦に入りながら、身勝手な意見でも、誰の反対もないままに、世界中に、発信できる。一部の政治家は、この手法を、用いていたとしても、誰かが、代行する形で、行っているから、結局は、発表前の検討が、行われるのだが、件の人物は、一人きりで、主に、静かな夜のうちに、考えに耽った結果、極端な意見を、紡ぎ出す。だが、これが、交渉事の、常道に反する動きを、導き出しているようだ。外交交渉において、あらゆる情報が、暴露される国と、そうでない国との間では、常に、優劣の差が、指摘されていた。秘密裏に、交渉を運べる国は、何もかも、暴かれた中で、交渉を進めなければ、ならない国に比べ、常に、情報を、操れる利点を、有していたのだ。ところが、この人物を、相手にすると、本来、隠さねばならないことまで、平気で、暴露することで、相手国も、情報操作が、難しくされる。結果として、世界は、右往左往と、されるに違いなく、また、結果として導かれる政策も、時に、誤ったものとなるが、一方的な、優劣の差が、縮まってくることとなる。だが、毎回の結果は、何とも、迷惑千万なのだ。
優しさの取り違え、としか思えないことが、さも、当然のこととして、行われている。特に、その行為を、恰も、人道的なこととして、自慢げにすることで、悦に入っている人間は、愚かとしか思えない。こんなことの、積み重ねが、滅亡や絶滅に、繋がるだろうに。
追い詰められた結果、自らの存在を、消し去る行為にまで、至ることに対して、周囲への批判を、強める人が居る。確かに、気配を感じれば、何かしらの措置が、できたのかもしれないが、その多くは、同じことを、何度も繰り返し、自らの欲望を、満たそうとする。それを、防ぐことが、どんな意味を持つのか、批判する人間が、意識しているとは、とても思えない。だが、極度の優しさが、要求される時代には、こんな人々が、持て囃され、重用される。確かに、厳しさだけでは、弱い心の持ち主には、生き難いこととなり、逃避へと走ることも、止む無しと思える。だが、優しさだけでも、褒めるだけでも、人は自立するように、なるとは限らない。にも拘わらず、それに終始し、それが、如何にも役立ったかの如く、語る人には、その作用により、堕落した人の姿は、見えていないのだろう。特に、教育評論家、と呼ばれる人の中に、そういう人種が、目立つのは何故か。彼らの多くは、人を育てることへの、責任を、強く主張するが、彼らが、どんな人間になったかを、論じる人は、殆ど居ない。人は、生き延びれば、それだけで、社会への貢献の、可能性が残るのは、確かなのだが、だからと言って、役立たずばかりが、生き残っても、何もならない。成果を、論じるだけでは、人の道を、論じることが、できないのは、事実だろうが、だからと言って、あらゆることから、逃げるだけの人間を、育てることに、どんな意味があるのか、首を傾げるしかない。
他人と比べて、劣る部分を持つ人々を、社会全体として、どのように扱うのかが、近代社会の課題、と捉えられている。劣る人間を、排除しようとする動きが、中心となっていた時代と異なり、現代は、許容するというより、相互理解と共に、互いの長所を、活かそうとする。
排除の考えが、強い反省を、招いたと思われたが、実は、社会全体として、それが、継続されていた、という報道に、驚いた人は、多かったろう。優生主義、という考えが、強い歪曲に、基づくものである、との指摘は、多様性という考え方の、基本となるものだが、それとは異なるとして、劣る人々に対して、実行された措置は、人権尊重の考えから、大きく逸脱している。だが、それに気付いていたのか、気付かなかったのか、真相は、明らかにされることは、ないだろう。元々、どんな考えに基づいていたのか、それさえも、明らかにされず、ただ、運用としての、判断だけに、注目が集まる。しかし、個々の判断は、曖昧な基準に基づき、主観的に偏り、客観性の欠如が、目立つものに思える。根本的に、断種主義自体が、人権を奪うものとして、認識される中で、それが、政策として掲げられ、実行に移されたことに、強い違和感だけが、抱かれている。異常な考え、としか思えぬものに、どんな判断を、下せばいいのか。おそらく、そんな問いかけを、されたとしても、一つの答え以外に、行き着く先はない、ようにさえ思える。非人間的な扱いを、社会への貢献として、正当化した人々を、犯罪者として、扱うべきかは、ここでは、問題にしないようがいい。それより、政策立案の過程で、様々な可能性を、検討しなかった人々を、強く糾弾すべきだろう。今となっては、殆どの人間が、鬼籍に入り、死者を鞭打つことにしか、ならないことだが、その姿勢が、次の過ちを、防ぐ手立てとなるからだ。
何らかの、身体的な欠陥を、持つ人々は、障害者と呼ばれる。文字への好みから、害という字を、避けようとする動きがあり、時には、障碍者とか、障がい者とか、書かれるようだ。文字のもつ意味を、正しく使う為、と言われるが、どうも、分かり難い。
元々は、碍という字が、使われていたが、使用制限がかかる中、害という字に、変えられたと伝えられる。意味が、微妙に異なる、と伝えられるが、碍子以外に、触れることのない文字の、本来の意味に、到達できる人は、少ないだろう。妨げる、という意味で、電気が流れるのを、防ぐ部分を、指す言葉で、障も、同じ意味を成す。そこから、何らかの能力が、妨げられた状態、という意味で、使われることになったのだろう。そういう事情は、あるものの、今では、公式にも、障害者という表現が、使われる。弱者だから、と区別する表現だったが、保護の意味が、加わり始めた頃から、漢字の使い方にも、配慮が必要との意見が、目立ち始めた。どんな背景があるのか、人それぞれに、感じ方は、違うだろう。それは、接し方の違いにも、現れてくる。弱者に接する為に、配慮が必要という考えは、社会に浸透しており、実行する人も居るだろう。視覚障害者に、支援をすることを、当たり前のように、行うのは、簡単なようで、難しい。聴覚障害者には、筆談で、接しようとする人も居る。彼らの、意思疎通の手段は、手話と呼ばれるが、これも、難しいものだ。映像や音声で、伝達する媒体では、支援者が介入するが、これも、慣れないと、別の障害が、生じてしまう。音声が、飛び交うような議論の場に、聴覚障害者が、同席すると、支援者は、彼らの意見を、代弁する。だが、音声による議論では、発言者は、一人に限られる。ところが、他の音声を、聞き取ることが、できない人間にとり、状況を把握することは、難しい。そこで、支援者が、何らかの働きかけを、すべきなのだが、時に、それをせず、障害者の発言を、代弁してしまう。これでは、話し合いではなくなる。その配慮は、誰が、どうすべきなのか。