パンチの独り言

(5月13日〜5月19日)
(その気、今すぐ、戯言、脅威続報、奇策、独自性、勝手気儘)



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5月19日(日)−勝手気儘

 今が良ければ、という考えが、大衆の間に、広がり始めている。逆に言えば、将来への期待は、縮み続けており、今だけでも、良くなるように、との願いが、広がっているのだ。これもまた、将来が、悪くなるばかりと思えば、今より、悪くならないように、と願うのだ。
 これは、全ての改革を、拒絶することに、繋がっている。そんなことはない、今の悪い点を、排除することで、より良い状況を、作り上げようと、努力しているのだ、との反論が、聞こえてきそうだ。多くの国が、協力することで、大国主義に、対抗しようと、努力してきた末に、そこから、抜け出すことこそが、国の利益を、上げることに繋がると、脱退を決めたことも、改革の一つ、と見做せるらしいが、どうも、勝手な論理にしか、見えてこない。決断の後の、混乱を見る限り、身勝手な論法が、他との関わりの中では、通用しないことが多く、調整は、頓挫しかけている。将来への期待が、裏切られた結果、現状からの脱却のみが、目的となってしまっては、今でさえ、見極めのつかない程に、混迷を、極めることとなった。一方で、大国達は、互いに主導権を握ろうと、啀み合いを続ける。自らの利益のみを、追求する応酬に、他国に不利益は、膨らみ続けるが、当事国は、知らぬふりを、続けている。国際的な協力を、促す為として、成立してから、既に半世紀以上を、経ている組織も、自国優先を、声高に訴える中では、無力となっており、従来の、一部の国の利益を、優先する仕組みと合わせて、存在意義自体が、揺らいでいる。国民の意向を、的確に反映することは、民主主義の根幹、と見る向きもあろうが、現実には、国民全体のものではなく、一部の極端な意向が、優先されることとなり、歪みは、増すばかりとなる。このまま、世界が、進み続ければ、極まった歪みは、危うい状況に、落ち込んでいくのだが。

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5月18日(土)−独自性

 平和な時代の特徴は、何だろうか。安定した時代に、人々が願うのは、それが、長く続くことだろう。平和で、安定した時代が、長く続けば、不安や心配が、無くなり、心の平安も、訪れる。それが、人々に与えるのは、安定した成長を、目指そうとする気持ちだ。
 だが、そんな思いとは裏腹に、人々は、安定の中で、その楽しみを、享受することで、成長よりも、今の状態を保つことに、腐心することとなる。それを、如実に表しているのは、先進国のほぼ全てが、同じ傾向を示し、若い世代の積極性に、皆が懸念を示すことだろう。今に安住し、上を目指さぬ中で、何処にも向かえず、袋小路に、追い詰められる。こんな筈では、と思ったとしても、新たな道を、模索する手段さえ、見出せぬままに。何故、こんな状態に、なってしまったのか。何度も書いているように、安定した時代には、傾向も絞られ、講ずべき対策も、絞り込める。それを、無難にこなし、決められた競争の中で、相対的な優位を、示すことが、第一となる。こんな競争の中で、優秀と認められた人材が、期待外れに終わり、世界的に、独自性への要求が、急激に、高まってきた。だが、皆を、同じ土俵で争わせ、優劣を決める中で、従順な態度こそが、第一とされ、それに慣らされた人間が、急に、独自を求め、反発する状況を、創り出せるはずもなく、現状を打破できぬままに、戸惑うばかりとなる。そこで、更なる対策として、多様な仕組みを、導入する訳だが、これとて、それぞれに、敷かれた軌道の、上を走らせるだけで、独自は、決して生まれない。このことに、気付かぬ愚か者が、虎ノ門の高層ビルに、巣食っている訳だが、いい加減に、止めた方がいい。独自を、活かしたければ、自由が一番であり、従来の大学の姿が、まさに、それだった。ただ、今では、大学さえも、路線を定め、それに従わせているから、そこから、変える必要もありそうだが。

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5月17日(金)−奇策

 また、始まった、と思った人も、居るだろう。教育の仕組みを、変えようとの提案が、監督官庁から、出された、と伝えられる。また、と書いたのは、懲りない人々の、思いつきによる、改革の繰り返し、だからだ。教育の効果を、信じ込む人々は、毎度、愚策を講じる。
 目先を変えれば、誰もが、成長する、という考えは、教育至上主義の、根幹を成す。だが、それが、次々と、手を替え品を替え、新たな手法が、持ち出されるのでは、現場の混乱は、増すばかりとなる。本来は、絶対的な手法があり、それを、施せば、誰もが、成長する、との考えの筈だったが、その模索が、完敗の結果となり、撤退を余儀なくされる中、目先を変える、という手法を、持ち出した訳だ。絶対が無ければ、多種多様こそが、鍵となる、という考えは、そのままであれば、十分に通用する。多様な子供達に、対応するには、個別に、異なる手法で、対応することが、必要となるのは、当然なのだが、集団教育では、端から不可能な、ものでしかない。そんな当たり前に対し、愚かな役人共は、自らの責任を、問われずに済む方法として、猫の目政策を、取り始めたのだ。次々に、変えていけば、その評価が、下される前に、新方式の導入となり、糾弾されることなく、自らの任期を、全うすることができる。数年しか、同じ地位に留まらない、この国の役所の仕組みが、招いた結果と言えるだろう。だが、役所全体としては、常に、社会から、責任を問われており、そこから、逃げ出すことは、できない。にも拘わらず、また、懲りもせず、目先を変える政策を、断交しよう、としている。経験の無いことを、試みるのは、本来なら、危険を伴うとして、避けられることだが、こんな事情から、勝手気儘な改革を、平気で進めるのだ。何もせずとも、内から生まれる考えが、人間を育てる、と思えば、こんな愚策を、講じることが、如何に無駄かが、すぐに理解できるのだが。

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5月16日(木)−脅威続報

 猫の失踪事件で、新たな展開があった。書いた時にも、様々な可能性を、指摘していたが、戻ってきたことから、捕獲や毒殺などの可能性は、否定されていた。その中で、野生動物の可能性が、急浮上したのだ。近隣での、熊のような動物の目撃が、報告された。
 傾斜地の下の方での、目撃は、黒い影、という程度のもので、確実性は、それ程高くはない。だが、熊ではないにしろ、何かしらの侵入者が、あったことは、ほぼ確かだろう。また、塀のようなものを、登ろうとしていた、ということから、これまでにも、目撃されていた、鹿や猪の可能性は、殆ど無い。だとすると、大型の哺乳動物、と考えるのが、筋かもしれない。何れにしても、闖入者があれば、野良猫達は、どんな行動をするのか、今回の事件は、彼らの本能を、見たように思える。野生とは言えぬまでも、猫達は、自分の身を守る為に、危険を、如何に避けるかが、重要となる。最も身近の危険は、実は、人間であり、それも、彼らが動かす、車という脅威だ。その点については、あの時も書いたように、傾斜地内では、車を速く動かす人も、殆ど居ないので、安全性は高まり、長生きするものが、多くなる。それでも、様々な野生動物が、棲んでいるようで、その危険は、確かにある。生まれてすぐの、子猫が襲われたのも、おそらく、狸の仕業で、小さなものでは、対抗するのは、難しい。だが、成猫となれば、この程度の大きさのものなら、対抗できるだろう。それが、挙って逃げたとなれば、大きさが、明らかに異なる、動物の登場を、考えるべきとなる。それが、10日間程、後のこととはいえ、目撃情報が、もたらされたことは、何となく、可能性を、絞り込みたくなる。まだ、確定しておらず、また、その後の展開も、全くないので、結論は出せないが、こんなことを、考えたりしながら、野良に、餌を与えている。

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5月15日(水)−戯言

 誤解を招く、とは、発言者の真意と、異なる解釈が、されることを、指すのだが、今回のは、誤解も何も、発言者の暴言、でしかないもので、その言い訳さえ、暴言の一つ、と見るべきだろう。票を投じた人々は、それぞれに期待を、抱いていただろうが、こんな輩に。
 発言における失敗を、犯さない為の指南書、なるものまで、登場したと聞くと、あの世界の非常識ぶりが、更に、際立つことになる。常識が、身に付いていない、とまで、揶揄されるようだが、果たして、あの世界の常識が、一般社会の常識と、合致するかどうかさえ、怪しく思えてくる。これまでも、多くの社会で、大人として、扱うことで、自覚を促してきたが、その果てとして、こんな事態に陥るとは、誰も予想しなかっただろう。それも、長年に渡って、このやり方を、踏襲してきただけに、何故、最近になって、暴言を吐く人間が、巷に溢れるようになったのか、不思議に思う人も、多いのではないか。実は、そういう人間の数には、大した変化は、起きていないのだ。以前なら、ほんの戯言として、聞き流されていたものが、発信機会が、増えたことで、あっという間に、世間に流布され、尾鰭まで付けられ、徹底的な糾弾に、晒されてしまう。戯言と言っても、確かに、受け取り方によれば、暴言となる訳で、それを、宴席の笑い話として、一笑にふすかどうかは、対応の一つでしかない。それに、目くじらを立て、正義感から、告発するのも、確かに、方法の一つだが、これとて、正義感どころか、気に入らない人を、追い落とす術として、活用する人が、多くなっている。書いたものと違い、口から出るものは、たとえ記憶に残っても、発言そのものとは、少し違う形となるのが、常であるだけに、不問にふす場合も、多かったが、最近は、全て記録され、細かに検討される。さて、どうしたものか。

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5月14日(火)−今すぐ

 人間の欲には、数々あるけれど、まずは、金に関するものが、優先的に、取り上げられる。確かに、先立つものが、必要との考えは、妥当なものに、違いないが、何の才も無いままに、金だけ、手に入れようとしても、中々難しいものだ。その前に、満たすべき欲は。
 これも、よく言われるのは、社会的地位、だろう。名誉によるものではなく、単純に、実利のあるものは、企業などの組織の中での、地位となる。寄らば大樹の陰、とばかりに、組織内の権力者に、擦り寄ることで、昇進を勝ち取る人も、中には居るだろうが、大部分は、実力が評価され、それによって、得られた成果が、切り札となり、昇進した人が、大部分だろう。では、仕事の出来不出来は、何に寄るのか。単純には、実力と言われるものだが、筋肉の力比べや、走る速さの競争と違い、仕事の実力は、簡単に比較することができず、指標も明確ではない。何でも、傾向と対策で、対応しようとする、若い世代において、こんな不明確は、単純に、やり甲斐の無いもの、と映るらしい。そこで、様々な指標を、提示しようとする、動きはあるが、それら全てに、対処するのは、ほぼ不可能だろう。では、様々な仕事に対し、能力を示す為に、最低限必要なものは、何だろうか。周囲を眺めれば、すぐに分かることは、仕事のできる人は、処理速度に、違いを見せる、ということだ。これは、走力と似たように、思う人も居るだろうが、実は、大きな違いがある。競走では、一斉に走り始めるが、仕事の処理速度は、実は、始める時間の違いが、大きく影響するのだ。できない人、と呼ばれる人の多くは、課題が出されても、すぐには、動き出さず、まずは、締め切りを、気にする。そして、その直前まで、何も手をつけず、考えることもしない。一方で、できる人は、すぐに着手して、一旦の答えを、導き出す。その上で、再検討をすることで、より良いものを、目指そうとする。この態度は、社会に出る前の、学校に居る時にも、現れている。後回しが、悪影響を及ぼすのだ。

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5月13日(月)−その気

 人材育成に対して、一家言を、持つ人は多い。自らの経験で、適切な方法さえ、施せば、どんな人材でも、育てられる、と信じている。だが、同じ、自らの経験で、どんな育成法を、施されたかを、問われると、戻ってくる返答は、冴えないものとなる。
 実は、これという方法が、存在せず、何やら、よくわからない内に、自分で工夫し、解決法を、見出したという人が、大部分だからだ。それでも、その工夫を、後生に伝えられないか、という思いが、一家言に、結び付くのだろう。だが、答えが見出せない中で、工夫したことで、見つけた答えを、そのまま、何も考えていない人間に、教えたとして、どんな成果があるのだろう。本当は、そこに、大きな課題がある。外から与えられるのではなく、内から湧き出てくる、そんなものだからこそ、現状の問題に、合致した考えが、導き出せる。先人が、考えついたものを、そのまま受け取っても、今ある問題には、適合しないことが多く、そこでも、もう一工夫が、必要となる。それを、考える力こそが、本当の力となるが、育成において、それを鍛える方法は、未だ見出されていない。次々に、課題を与えられ、それに取り組むことが、一つの手立てとなるが、積極的に取り組む姿勢が、そこに無ければ、殆ど何も起きない。意欲、という言葉が、重視されるのも、その辺りに、事情があるようだ。ただ、これを鍛える方法も、見つかっていない。心の動きを、操る方法として、成果への評価が、重要であるとの見方があり、それこそが、褒めて育てる、と言われる方法の、基本となっているが、実際には、芳しい成果は、得られていない。何が、問題なのか。既に、上手くいかないことは、わかっているが、では、別の方法は、と問われても、何も見つからない。要するに、本人が、その気にならねば、何も起きないのだ。

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